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伊岡瞬「追跡」#004

東京都武蔵野市で発生した謎多き一家無理心中事件。現場から消えていた少年は政界のフィクサーの孫だった。
『I』の指示を受けた樋口・アオイが少年を保護。高速道路を西進中、樋口がサービスエリアのトイレから戻ると、車が消えていて——

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10 火災二日目 樋口(承前)

 アオイに指示されるがまま、ぐちとうの運転するレクサスは、中央自動車道を西へ進む。
 ほどなく神奈川県に入り、それもすぐに通り過ぎ、山梨県に入った。
「どこまで進みます?」
 ルームミラーで、アオイと『雛』こといなわたる少年のようすをちらりとうかがう。アオイは視線を伏せて何か操作している。スマートフォンで位置情報の確認をしているか、誰かと交信しているのかもしれない。
 航はほとんど無表情のまま、窓の外に視線を投げている。多少不安げではあるが、もっと濃く出ていいはずの怯え、怒り、悲しみ、と言った色は感じられない。
 樋口の問いを受けて、アオイが軽く視線を上げた。
「時期が来たら言います」
 相変わらずだ。もともとの性格なのか、樋口のことが嫌いなのか訊いてみたい気もするが、まともな返答があるとは思えない。
「もう少しで大月JCTジヤンクシヨンになります。せめて、それをどちらに進むかだけでも。車線変更の準備もありますし」
 言っている途中から、自分はいつからこんなにじようぜつになったのだろうと内心で苦笑した。
「甲府方面へ」
「了解です」
「あ、その前に」
「何か」
「そこのSAサービスエリアに寄ってください」
「えっ、談合坂ですか?」
 さすがに少しあわてた。
「はい」
 アオイはこともなげに答えたが、もう進入路の破線が始まっている。幸い、すぐ近くに後続車がなかったので、ウインカーを出し、進路を変えた。
 談合坂SAのパーキングスペースへのゆるい坂を上りながら、多少嫌味な口調で言う。
「指示には従いますが、進路を変える場合はもう少し早めに言っていただけませんか。今は幸い後続車がありませんでしたが、混んでいると思うようにいかないこともあります」
 どう反論するかと思ったが、まずは謝ってきた。
「ごめんなさい。そろそろ指示しようかと思ったら、そちらから先に質問を受けたので」
 失礼しましたと答えた。
「どのあたりに停めましょう。適当でいいですか?」
「もう少し進んで出口に近いあたりへ」
「了解です」
 ショップの入るメインの建物を通り過ぎ、ドッグランやガソリンスタンドが近い端のあたりに停めた。
「このあたりで?」
「けっこうです」
 エンジンを停め、サイドブレーキを利かせ、次の指示を待つ。
「トイレ休憩にしましょう」
 アオイの口から出たのは、意外にも平凡な言葉だった。
「そうですね。小さな子供もいますし」
 同意を示したが、本心を言えば不同意だ。敵のアジトを襲って『雛』というコードネームすらあった目標物を奪取し、逃げてきた。そこからまだそう遠くへは来ていない。
 トイレに行くなとは言わないが、もう少し場所を選んだほうがよいのではないだろうか。
 だが、口には出さない。
「どの順番にします?」
「まず、航くんと樋口さんがお先にどうぞ」
 たしかに、小学生とはいえ六年生だ。ここは素直に男子トイレのほうがいいかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
 シートベルトを外しながらやや首を曲げ、航にそう声をかけた。意外な返事が戻ってきた。
「ぼくはいいです」
「行っておいたほうがいいと思うよ」
 今日のおれは本当に人が変ったようだなと思いながら、そう声をかける。
「監禁されているとき、トイレに行かなくていいようにほとんど水分を摂りませんでした。だからしたくありません」
 視線をアオイに向ける。
「とおっしゃっていますが」
「では、樋口さんだけでも」
「そういうことなら、自分も結構です。ここで待ちますから、アオイさん、どうぞ」
「樋口さんお先に。この先、どういう展開になるかわかりませんから、できるときに。それと、途中あまり電波状態がよくなかったので、わたしは先に報告を済ませます」
 こんなことでゆずり合っても時間の無駄だ。ではお先に、と答えて車を降りた。
 トイレ棟はすぐ近くだ。たいしてしたくもなかったが、たしかにこの先運転が長くなるなら、顔ぐらい洗ってさっぱりするのも悪くない。
 早足で進み、トイレ入口の前で振り返ると、車には異常はなさそうだった。
 用を済ませ、流水で顔を二度ほど洗い、ハンカチでふきとりながら出た。
 ほんの一分ほど前まで停まっていた、あの車が消えていた。

11 火災二日目 樋口

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