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ピアニスト・藤田真央エッセイ #38〈私の「ホーム」ヴェルビエーーババヤンのレッスン〉

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 2023年7月15日、待ち焦がれたヴェルビエに到着した。冬季にはスイス最大規模のスキーリゾートとしてにぎわうこの地は、至る所にログハウスふうのシャレーが立ち並ぶ。「アルプスの少女ハイジ」を彷彿とさせる風景だ。

撮影:山本有宗

 この地で毎年7月に開催される大規模な音楽フェスティバル〈ヴェルビエ音楽祭〉の歴史は、今年で30周年を迎える。アニバーサリーイヤーともあって、参加アーティストの面々は例年にも増して豪華だ。常連のミッシャ・マイスキー、エフゲニー・キーシン、レオニダス・カヴァコスやユジャ・ワン、初出演となるヨーヨー・マや久しぶりに登場するズービン・メータなど、ここでしか実現しないBIGアーティストたちの集まりとなった。
プログラムも、他所ではお目にかかれないレアなもの――エフゲニー・キーシンとトーマス・ハンプソンによる朗読公演や、世界三大テノールのひとり、プラシド・ドミンゴのタクトによるオーケストラ公演など――まさにお祭りといったユニークな演目が盛りだくさんだ。ほとんどのアーティストは複数のコンサートに出演するので、比較的長くヴェルビエで過ごすこととなる。私も今年はまるまる2週間滞在することになった。
 期間中は毎日のように練習場やディナー会場、はたまたコンサート会場の客席でアーティストを見かけ、会話に花が咲く。まるで学校の廊下ですれ違ったり、オフィスのエレベーターに乗り合わせたような偶然の出会いが楽しい。若い男性アーティスト同士で「フットボールしようぜ!」のチャットグループができたりと、夏合宿のような雰囲気もある。特に仲良くなったアーティストとお互いのコンサートに出掛けて励まし合う時間は素晴らしいものだ。

 ここで、大まかなコンサートスケジュールを説明しよう。23年7月14日から30日までの17日間、ヴェルビエでは毎日11時、18時30分、19時30分開演のコンサートが開催される。18時30分から始まる公演は「テント」で、11時と19時30分からのものは「教会」で行われることが多い。
「テント」とは主にオーケストラ・コンサートを行うSalle des Combinsのことで、1419人収容のテント型の大会場だ。毎年フェスティバル前に1週間かけて組み立てられ、祭りが終わると解体される仮設会場のため、特別な音響設備はない。ただただ生の音が響く会場は、音楽家にとってはあまり条件が良いとは言えないだろう。しかし聴き手側に回れば美点が挙げられる。ステージ上には上手下手の二か所に巨大なスクリーンが設置され、medici.tvが収録するライブ映像がリアルタイムで映し出されるのだ。たとえ最後列の席だったとしても、耳では生音、目では解像度の高い映像を巨大スクリーンで楽しめる。
 もう一つの会場は、主に室内楽コンサートやリサイタルが行われる、ヴェルビエ教会だ。430席収容の小ぢんまりとしたこの教会は、天井が高く、申し分なく響きの抜けが良い。今年私はこの教会で、チャイコフスキー国際コンクール以来共演を重ねているヴァイオリニスト、マルク・ブシュコフとともにベートーヴェン《ピアノとヴァイオリンのためのソナタ》全10曲を披露する3公演とソロ・リサイタル、そしてガラコンサートの計5公演を行うこととなった。

 ヴェルビエに到着した日は、マルクとのデュオ・コンサートに向けてひとりでゆっくり練習し、夜になったところで「テント」に足を運んだ。お目当ては、いま大人気のイギリス出身のチェリスト、シェク・カネー=メイソンによるエルガー《チェロ協奏曲 ホ短調 作品85》である。一音目から堂々と威厳のある音に惹かれたが、何より驚いたのが弓の使い方と、音の出し方のバリエーションの多様さだ。弦楽器を弾いたことがない私にはどのような仕組みなのか詳しくはわからないが、シェクの右手は非常に速いパッセージでさえも、そつなく楽にリラックスしながらさばいていた。
 公演後、舞台裏に足を運ぶと、ヴェルビエ音楽祭の主催者、マーティン・エングストロームも訪れていた。久しぶりの再会が嬉しくて、たっぷり30秒ハグをする。これほど長い時間ハグをしたのは初めてで、途中からどちらが先に力を抜くかの我慢比べのようだった。マーティンは「これからババヤンの公演に向かうが、マオも一緒に来ないか」と誘ってくれた。そう、なんとも贅沢なことにヴェルビエでは夜のコンサートをハシゴできるのだ。二つ返事で了承し、彼の車で教会へ急ぐ。

ババヤンのレッスン

 セルゲイ・ババヤンはなんといってもヴェルビエ音楽祭の思い出を語る際には欠かせない存在である。

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