【全文無料公開】直木賞受賞! 一穂ミチ 最新連載「アフター・ユー」#001
『ツミデミック』で第171回直木賞を受賞した一穂ミチさんの最新連載「アフター・ユー」。受賞を記念し #001 #002 を全文無料公開致します。
愛を問う、大人のための恋愛小説です――。
青吾が帰った時、家の中は真っ暗だった。あいつ、きょう遅番やったっけ。電気をつけ、冷蔵庫の扉に貼ってあるカレンダーで多実のシフトを確認すると『旅行』と書いてあった。そうだ、きのうの朝早くから一泊旅行に出掛けていたんだった。「お土産、楽しみにしてて」と言い残していたから、何か買ってきてくれるつもりはあるのだろう。銘菓やご当地グッズの類か、それとも晩めしになりそうな特産品か。とりあえず『遅くなりそう?』とLINEを送ってから風呂に入った。
入浴後、ビール片手にスマホをチェックしたが既読はついていない。移動中かもしれない。すでに午後九時を回り、腹の虫は鳴きまくっている。仕方なく『先にめし食ってます』と断りを入れ、パックごはんと納豆、冷奴、冷蔵庫に鍋ごとしまわれていたみそ汁という大豆まみれの夕飯を食べた。それから漫然とテレビを見たり動画を見たりしていると十一時を過ぎ、眠たくなってきた。多実はまだ帰らず、メッセージも読まれない。電話をかけてみたが、『電波の届かないところにあるか……』というアナウンスが流れるばかりだった。すこし不安になる。交通機関の遅延に巻き込まれた? ひょっとしてもっと深刻な事故や事件……胸のざわつきを宥めるため「いや」と小さく声に出した。多実は普段からスマホに無頓着で、バッテリーが切れたまま気づかず放置しているのもざらだったし、テンションが上がると時間を忘れる性格でもあった。あれやこれやと気を揉むのは早計だろう。そう自分に言い聞かせ、『先に寝るけど、これ見たら電話して』と送信し、床に就いた。
心配で寝つけないということも、夜中に目が覚めるということもなくスマホのアラームに起こされるまで熟睡し、自分の薄情さを少々後ろめたく思いながらLINEのトーク画面を開いた時点では楽観と期待が大半だった。電話はなかったけれど、大方深夜でちゅうちょしただけだ、きっと返信がきている、と。
しかし、青吾が送ったフキダシには既読すらつかないままだった。電話をかけても昨夜と同じ音声に応答され、さすがに焦る。しかし、仕事に行かなくてはならない。納豆と生卵をかけたレンチンごはんをかっこみ、空っぽの家に施錠した。板橋の営業所に着くと、ルーティンのアルコール検査や車両とカーナビのチェックを経て出庫する。
山手通りを走っているとすぐにアプリ配車の要請が入り、「OK」をタップする。この頃はアプリと流しの比率が六対四くらいで、アプリの客が多い。無駄な走行をせずに済んでありがたい反面、誰の手も上がらず、道路を漫然と流す時間が青吾は嫌いじゃなかった。「空車」のサインを点したままあっちの通り、こっちの街、と地図を塗りつぶすように走行している時、自分が透明になったような気がしてほっとする。
その日最初の客は、北池袋からサンシャイン60というオーダーだった。迎車料金含めて千五百円程度、幸先としてはよくも悪くもない。ただそれはあくまで運賃だけの話で、指定のマンション前に到着すると間もなく出てきた若い男はデニムのポケットに両手を突っ込んで立ったまま後部座席に乗り込もうとせず、「どうかされましたか」と声をかけると「おめーが開けろよ」と、すでに開いているドアを顎でしゃくった。朝イチからめんどくさいの引いてもたな、そんなぼやきはもちろん腹の底に押し込めて「失礼いたしました」と一旦ドアを閉め、車を降りて後部に回り込んでからお辞儀とともに手で再びドアを開ける。男はシートの上で扇のように大股を広げ、「あちーから早く閉めて」とまた顎を突き出す。癖らしい。ドアの開閉くらい大した手間でもないからしてやるが、それでプライドなり面子なりが保たれた、守られたと満足するものだろうか。腹は立たず、ただふしぎだった。
「ご指定のルートなどはございますか」
「早くて安いのに決まってんだろ」
「かしこまりました、それではナビの指示通りに走行いたします」
後部座席のシートベルト着用をお願いしなければならないのだが、面倒を避けるために黙っていた。男はすぐにスマホを取り出して急用とも思えない通話を始めたので、着くまでおしゃべりしていてくれと願いつつ注意深くハンドルを握った。
「……そう、でさあ、トんじゃったの、そいつが」
狭いセダンの車内に、男の笑い声が響き渡る。
「まじよ。あそこでばっくれる? っていう……逆に男らしくね?」
トぶ、ばっくれる、という言葉だけ、いやにエッジが立って聞こえるのは、多実の不在が引っかかっているせいだろう。仕事モードに切り替えたつもりでも、懸念が消えない。こんなふうに、客のちょっとした会話や挙動を意識してはっとすることがたまにある。多実も、同じだと言っていた。
——お客さんがちょっと小銭探して手間取ってたりしたら、普段は何とも思わないのに、やけにいらいらする日があって、そういう時は、自分のメンタルが落ちてるんだなって自覚するし、逆に、ちょっとした「ありがとう」ですごくやる気が出る日は、あ、ごきげんじゃん、って思う。快不快とか体調って、案外自分ではわかってなかったりするのかもね。
——うん。
——「自分」を決めるのって、自分じゃないんだなって思わない? 誰かと接した瞬間の境界線がそのまま輪郭になるんだと思う。他人がいないと、水みたいに、質量はあってもかたちがなくなっちゃいそう。
多実は、時々そんな小難しい話をした。青吾が曖昧に頷くと、お見通しみたいに笑って「今度、占いに行こうよ」と誘った。
——トルココーヒー占いっていうの、テレビで見たんだ。
——うさんくさいな、どんなん?
——コーヒーを普通に飲んで、飲み終わったらカップをひっくり返してソーサーに伏せるの。それで、カップの底とソーサーについたコーヒーのしみを見て占ってもらうんだって。小鳥に見えたらいいことがある、とか。
適当やな、と青吾は呆れた。まだ占星術なんかのほうが信憑性がありそうに思える。
——こう見えるからこうです、って、占うやつの感覚で決まってまうやん。
——そう、だからそれも誰かが引いた自分の輪郭線。
その怪しい占いに多実が行きたいのなら別に構わなかったが、結局具体的な計画は出なかった。あれは確か、春だったか、もっと前だったか。トルココーヒー占いとやらは、どこで受けられるんだろう。
運転中も、コーンマヨネーズパンと缶コーヒーの昼食をコンビニ前で慌ただしく流し込んでいる間も、青吾のスマホは沈黙していた。勤務を終えて「お疲れさまです」と営業所を出ようとすると上司に呼び止められた。
「川西さん、前も軽く言ったけど、シフトの件で」
「はい」
「ずっと昼日勤で働いてもらってるけど、夜日勤か隔日勤務、どうかなって。ほら、いま人手足りないでしょう。特に深夜帯が厳しくて。どうかな」
すいません、と青吾は頭を下げた。「タクシー強盗に遭ったことがあるんで、夜は怖くて。面接の時にも言うたと思いますけど」
「まあ、それは、ねえ」
渋面をつくる上司の心中は容易に察せられる。一度の強盗くらいでがたがたぬかすな、身軽な子なし独身なんだから夜でも働けるだろう——それでも青吾は「すいません」と繰り返した。強盗に遭ったのは五年以上前で、釣り銭トレイの上部に空いたアクリル板の隙間からナイフを突きつけられ、売上二万円少々を奪われただけだった。警察の鑑識作業で粉まみれになった車は廃車を余儀なくされたが、諸々の処理は会社の仕事なので特に面倒はなかった。被害も少額だった割に容疑者はすぐ捕まり、警察署で顔写真を見せられた。自分とそう変わらない歳だろう男の写真を見ても怒りや恐怖といったものは湧いてこず、ただ、あれっぽっちの金であほやな、と思った。たかだか二万円で人生終わらせてどないすんねん。服役して刑期を勤め上げて出所したところで、社会的には致命傷を負ったも同然だ。償ったからといって過去が真っ白に戻るわけじゃない。
青吾の心に残ったのは哀れみまじりの軽蔑だけで、トラウマになったということもなかったのだが、多実はひどくうろたえ、「もう夜は走らないで」と泣きながら訴えてきたので驚いた。ベランダからスズメバチが入り込んできた時も、びびるだけの青吾をよそにすばやく照明を消し、「こうしとけば明るい方に飛んでいくから」と冷静に対処していた多実だから、「災難だねえ」と笑って済ませてくれるに違いないと軽く考えていたのに。
——あほな犯人や、二万円ぽっちやで、割に合わんやろ。
多実の真剣さを疎ましく感じた。自分なんかのために、泣いたり心を痛めたりしてほしくなかった。すこしでもその場の空気を和ませたくて、指を二本立てておどけた口調で言うと、多実は赤い目でじっと青吾を見た。
——そうだよ。その二万円ぽっちで殺されちゃうことだってあるんだよ。
泣き声のスイッチを一瞬でオフにしたような平坦な口調に、「せやな」と返すのが精いっぱいだった。
——逆にさ、青さんはいくらだったら納得できる?
——え?
——お金、いくら持ってたら、ああ強盗してもしょうがない、襲われてもしょうがない、って思えるの?
つめたい刃物の、切っ先ではなく腹を首すじにぴたっと押し当てるような問いだった。何と答えたか、覚えていない。それとも「ああ、うん」と煮えきらない相槌で流してしまったのか。多実の懇願に押し切られて、業界ではマイナーな昼日勤のシフトを採用している今の会社に移った。給料は下がったが、以前より風邪を引かなくなり、酔っ払いに絡まれる確率も激減し、夜明け前に勤務が終わってから始発まで営業所で時間をつぶすということもなくなった(マイカー通勤の同僚に送ってもらう者もいるが、青吾にはそんな気安い相手がいなかった)。何より多実と生活時間を合わせられるようになったので、結果オーライだった。
でも、もし多実がずっと帰ってこなければ、昼日勤にこだわる理由もなくなる。
そんな考えがふっと頭を掠め、片隅に引っかかったまま離れなくなった。一方で、一日帰りが遅れたくらいで何を、とのんきに構えようと必死な自分もいる。
「まあ、今は労基もうるさいし、いやっていう人にシフトの強要はできないけど、こっちも困ってるんで、考えといてください。じゃあ」
「はい——あ、すいません」
脈なしだと踏んだのだろう、さっさと背中を向けた上司は、青吾が呼び止めると露骨に面倒くさそうに振り向いた。
「何ですか?」
「乗務員の名前と顔写真、車内に掲示せんでもええようになったんですよね。あれっていつからですか」
「ああ、今は移行期間ってことで、会社からは特に日程来てないけど……何かありました? しつこいクレーマーに遭遇したとか、SNSに写真晒されたとか」
「いえ、別に」
「揉めてたら言ってくださいね。炎上とかすぐ報告上げて対処するようにって上からも言われてるんで」
「はい」
青吾はまっすぐ家に帰らず新宿まで出ると、百貨店の地下にある和菓子屋に向かった。夕方で混み合っていて、なかなか客が途切れない。ショーケースの中のあんみつ缶は、ついこの前、多実と一緒に食べた。お中元コーナーに見本として陳列していた詰め合わせを、シーズンが終われば店員で山分けしていい習わしになっている。多実があんみつや葛切りをどっさり持ち帰ってくると、ああ今年もそんな季節か、と思う。お歳暮のシーズンにはまんじゅうやおかき。いつから、多実の土産で季節を感じるようになったのだろう。
ふたりいる女性店員がようやく両方フリーになったタイミングを見計らい、青吾は足早に近づいて「すみません」と声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「あの、中園さんはいらっしゃいますか」
双子のようによく似た営業スマイルに困惑が混じる。ふたりは顔を見合わせ、やがて古株と見える女のほうが「中園は本日お休みをいただいておりますが」と笑顔を保ったまま答えた。それが元からのシフトか、急な欠勤なのかは読み取れない。
「何かご用でしょうか」
「いえ……ちょっと約束をしていたんですが、会えなかったので」
「そうなんですかー」
多実の同僚(か上司)はやや眉尻を下げてみせたものの警戒感を漂わせていて、「あしたは出勤されますか?」と尋ねても「そういったお問い合わせにはお答えできないんですよー」と何だか嚙んで含めるように言われてしまった。歯痒くはあったが、仕方ない。「一緒に暮らしている者です」と自己紹介するのも却って怪しまれるかもしれないし、多実が職場で青吾の存在を話しているかどうかもわからない。会釈だけして、何も買わずに立ち去る。最初の挨拶以降、ひと言も発しなかった若い女は、ひょっとして多実が話していた「ワカちゃん」かもしれない。「かわいくておもしろいんだよ」と晩酌の合間にちょくちょく口にした。休みとあれば韓国に弾丸旅行に出かけ、おすすめのパックやクリームを買ってきてくれる、TikTokで流行っている動画を教えてくれる、閉店後に生菓子の売れ残りを持って洋菓子ゾーンに出向き、ケーキやシュークリームと物々交換してお裾分けをくれる……。
——「韓流アイドル」って言ったらワカちゃんに笑われちゃった。そういえば今はK——POPとしか言わなくなったもんね。
多実からもたらされる断片的な情報で、青吾も「ワカちゃん」にうっすらと親しみを抱いていたのだが、そもそも顔も年齢も「ワカちゃん」という呼び名が名字と名前のどちらに由来するのかさえ知らない。鮮魚コーナーで寿司のパックをふたつ買って帰った。ひとつは、辛いものが苦手な多実のためにサビ抜きで。
翌朝、冷蔵庫で冷えて固くなったサビ抜きの寿司を詰め込みながら、青吾は漠然と「詰んでるんとちゃうか」と感じていた。多実からは依然何の連絡もない。勤め先に当たっても空振りだった。もうほかに照会する先が思い当たらない。多実の家族や交友関係についても知らないし、SNSのアカウントをつくって「捜しています」などとアナウンスするのは論外だ。多実がどこに行き、なぜ戻らないのか、青吾には探る術がない。
ならば、探る術を持つ人間に頼まなければならない。
警察か、探偵——さすがに後者は現実的じゃないと思った。警察一択だ。きょう、仕事が終わっても何の音沙汰もなかったら行ってみよう。嚙みきれなかったイカの塊が、米粒と一緒に喉を押し拡げ、食道をゆっくり下っていく。
極力、警察とは接点を持ちたくなかった。強盗に遭った時も、金は自腹で補塡して黙っていようかとかなり迷った。昔のことを調べられて何か言われるとは思えないが、しみついた忌避感はどうしようもない。ひと言でいい、きょうこそは「ねえ」でも「おう」でもいいから、音沙汰があってくれ。期待を孕んだ祈りからじょじょに期待が目減りし、無人の家に帰った瞬間、諦めに変わった。帰宅予定日から二日。「まだ二日」なのか「もう二日」なのか青吾にはわからない。ただ、「まだ二日」と自分に言い聞かせて警察に行くのを渋れば、あすは「まだ三日」、明後日は「まだ四日」と、何もしないまま多実の不在に慣らされてしまう気がした。それはいやだった。スマホで調べた結果、交番でなく所轄の警察署に行かなければならないらしく、ますます気が滅入る。ワイシャツにスラックスという自分のいでたちを見下ろして、ネクタイを締めるかどうか考え、やめた。もっと必要なものがある。2DKのマンションの、ふだんあまり足を踏み入れない多実の部屋に入ると、ローテーブルの上にはがきが置いてあったのでそれを拝借する。雑貨屋からのDMだった。公的書類ではないものの、住所の証明くらいにはなるだろう。現段階で、これ以上の私物を探るのは抵抗があった。ローテーブルのほかにはベッドとチェストだけの室内がすっきりしているのはいつもの光景で、身辺整理の結果などではない。多実は服もかばんも必要最低限のものしか持たなかった。
十五分ほど歩いて最寄りの警察署に行き、「受付」というプレートがぶら下がった窓口で「捜索願を出したいんですが」と申告すると「行方不明者届ですね」とさらりと訂正された。
「生活安全課にどうぞ」
「生活安全課」のプレートの下で今度は正しく「行方不明者届を出したいんですが」と言うと、「こちらに記入してください」と紙を一枚、ぺらっとよこされた。「行方不明者届出書」という、意外にシンプルな書類だった。「行方不明者」の欄に多実の名前や電話番号や生年月日などを、「届出人」の欄に青吾の情報を書いて捺印するらしい。判子を持ってきておいてよかった。上から順に書き進めていく間も、「行方不明」という不穏な単語にまだぴんときていない。大げさだと思う。自分と多実の暮らしの中に、そんな大事件が起きるわけがない。
ボールペンが止まったのは、「続柄(行方不明者との関係)」という項目だった。迷った挙句「同居の男女」と書き、仕上げて窓口に差し出すと、若い男の警官が「はいはい」と別の用紙を取り出す。今度はびっしりと記入欄が印刷されていた。
「じゃあ、こちらでいろいろ聞き取って書かせていただきますね。行方不明者は、中園多実さん女性、四十歳、で、届出人が川西青吾さん、と……この、続柄のところ『同居の男女』ってありますが、これは『内縁の夫婦』ってことでよろしいですか?」
「えっと……」
よろしくない、と異を唱える理由は特にない。何年も一緒に暮らしている男女とあれば夫婦同然には違いない。でも、今までそんなセットとして自分たちを認識したことがなかった。多実はどうだったんだろう。口ごもる青吾に警官は「基本的には親族や配偶者じゃないと出せないんですよ」と言う。「友人知人じゃ駄目なんです。一緒に暮らされてるんですよね? どのくらいになります」
「十年くらいです」
多実宛のDMと自分の運転免許証を見せると、住所を確かめて頷いてはくれた。
「じゃあ、内縁の夫婦ってことにしておきますね」
そこからは本当にいろいろ訊かれた。多実の身長や体重(推測で答えた)、最後に家を出た時の服装、立ち寄り先の心当たり。だんだんと警官の眉根が寄っていくのが見てとれた。
「奥さんが旅行って早朝から出かけて、どこに行ったかも把握してないんですか? 都道府県はわからなくても、東北とか関西とか、それも?」
「はい」
「毎回そんな感じですか? 心配になりません?」
「旅行にほとんど行かなかったので……ふたりで行ったのが数回、ひとりで出かけたのはこれが初めてです」
奥さん、という単語の耳慣れなさに背中がむずむずした。多実がこの場にいたら「へえ、わたし『奥さん』なんだ」とけらけら笑い出すかもしれない。
「出発の朝、奥さんとは顔を合わせましたか?」
「いえ、寝ていたので……五時ごろ、部屋の外から声をかけられました。行ってきますとか、そういう普通の挨拶です」
「ということは、寝室は別々?」
「はい」
お互いに自分だけの空間を欲するタイプだっただけで、関係が冷えきっていたわけじゃない、と説明しようかと思ったが、却って妙な空気になりそうでやめた。
「奥さんの声に普段と変わったところは?」
「なかった……とは思いますが、寝起きだったのでそんなに注意深く聞いていませんでした」
「前の晩は?」
「特に変わったようすはありませんでした」
——あしたは、朝早くに出るけどうるさかったらごめんね。起きてこなくていいよ。朝ごはん、冷蔵庫に入れとくから。
——朝早いんやったらええよ。適当に食べるし。
——ううん、作る。
扉越しに「行ってらっしゃい」と声をかけ、玄関が施錠される音を聞いて七時前まで寝直した。起きると、多実の宣言どおり朝食が作ってあった。みそ汁に卵焼き、ウインナー炒め、きゅうりとわかめの酢の物。何の変哲もないメニューだった。いや、酢の物に入っていたかにかまがいつもより多くなかったか。ひょっとして、青吾が酢の物のかにかまを好むから(かにかま単体ではそんなに食べない)サービスで? 最後の? ……いや、さすがに思い過ごしだ。同じ漢字を見つめ続けていると、だんだん正しい字かどうかわからなくなってしまうように、考えれば考えるほど、自分たちの「普通」とか「日常」を見失う気がした。
「なるほど……で、奥さんの家族関係も全然知らない、と」
「はい」
「奥さんの写真、持って来られました?」
「写真は、ありません」
「は?」
周囲が一瞬注目するほどの声量で呆れられた。
「いや、一枚もないってことはないでしょう。プリントしたやつじゃなくても、スマホに」
「それが、本当に」
むしろ、なぜ写真があって当然だと思われるのかが、青吾にはふしぎだった。別に撮りたないから撮らへん、そんだけやろ。
「こっちは奥さんの顔を知らないんだから、写真がなきゃわかりませんよね」
「職場の方なら持ってるかもしれませんが……」
「じゃあ、旦那さんのほうでお願いして用意しなきゃでしょう。我々はパシリじゃないんで」
ぴしゃりと言われ、反論できなかった。一面識もない、正式な「旦那さん」でもない青吾が「写真をください」などと押しかけたところで不審者扱いされるのがオチだが、そんな事情は警察に関係ない。旅先すら訊かず、人間関係を知らず、ちゃんとしてこなかった自分がいけないのだ。
警官はあからさまなため息をつき「これで受理できんのかな……」とひとり言にしては大きな声で漏らすとあたりを窺った。誰かに意見を仰ぎたかったのかもしれない。しかしカウンターの向こうにいる人間がみんなせかせかと忙しそうに動き回っているのを見て諦めたように「一応お預かりしときますね」と言った。
「写真がないってことなので、正式に受理できるかはちょっとお約束できないです。あと、こういった行方不明者は、『特異行方不明者』とそれ以外に分かれるんですね。特異行方不明者っていうのは、十三歳以下の未成年とか、事故に遭ってる恐れがあるとか、よく言われる『事件性が高い』ってやつです。奥さんの場合、お話を聞いた限りではそのケースに該当しないと思います」
でも、と青吾は反論を試みた。「お土産買ってくるね、って言うてたんです」
「出まかせだったかもしれないじゃないですか」
「そんな……出まかせをいうような性格とちゃいます」
「悪意のある噓じゃなくても、たとえば後ろめたいからこそそういうふうに言っちゃったとか。どこへ行ったかさえわからないんなら、ひとり旅っていうのが本当かどうかもわからないし、もっと言えば、旅先でふと『帰りたくない』って思った可能性だってありますよ。人間、些細なきっかけで大胆な行動を取る時がありますからね」
お前なんかに何がわかる、と言い返したかった。多実を何も知らないくせに——でも、自分だってそうなのかもしれない、と埋められない書類が突きつけてくる。連絡もなく外泊するような性格じゃない、青吾に嫌気が差していたとしても、話し合いすらせず逃げ出すような性格じゃない。出会ってから十年以上の間に積み上げてきたはずの多実の像は、青吾の思い込みでできた張りぼてじゃないと、断言できるんだろうか。四十歳女性、黒髪のショートカット、小柄でやや痩せ型……そんな情報は、多実の表層の表層でしかない。
「あと、身も蓋もないこと言うようですが、仮にこちらで奥さんと接触する機会があったとしても、危険が及ぶような状況でない限り、身柄の保護とかはできませんよ」
「え?」
「子どもや認知症のご老人とは違いますから。旦那さんから行方不明者届が出されたとお伝えはします。基本的にはそれだけです。そして、もし奥さんが、自分の所在や安否について旦那さんに知られたくないと言えば、その意思を尊重するのが決まりです」
青吾は呆然としてしまった。捜してくれる可能性からして低く、捜し当てたとしても何も知らされないかもしれない。なら、こんなものを出す意味はあるのか。警官は内心を見抜いたように「取り下げられますか?」と尋ねた。
「あ……いや、でも、一応、お願いします」
「一応、ね。はいはい。奥さんが無事に帰ってこられたら、忘れずに警察署で取り下げの手続きをお願いします。でないと、こちらから確認の電話が行くことになりますから」
この警官には、多実が何事もなく帰宅する未来が見えてでもいるかのようだった。届けを出したのも忘れてけろりと日常に戻る青吾の姿も。他人事だからって能天気な、と腹立たしくもあったし、安穏な未来予想に「ですよね」と縋りたい気持ちもあった。
「行方不明者届ってね、年間八万人くらい出されてます。数字だけ聞くとぎょっとする多さでしょ? でも、うち六万人くらいは一週間以内に所在確認が取れてるんですよ。だから心配しなくていいなんて軽々しく言えませんけど、まあ、そういうことです。このまま家に帰ったら奥さんが何事もなかったように『おかえり』って出迎えてくれるかもしれませんよ」
八万人のうち、六万人。約七十五%。結構な割合やな、と青吾の心はすこし軽くなった。多実も「そっち側」の、取り越し苦労で済んだひとりになるだろう。警官の気休めを真に受けたわけでもないが、玄関のドアを開ける瞬間、多実の靴が並んでいる光景を想像して胸が高鳴った。けれど、何も変わっていなかった。近所に出かける時用のサンダルが青吾の物と二足、隅っこに揃えてあるだけだ。出かける前につけたエアコンが青吾の汗を急速に冷やしていく。
電子レンジで温めた冷凍餃子を食べながら、七十五%一週間、七十五%一週間、と自分に言い聞かせるように繰り返した。つい口に出してしまい、息を吸い込んだ拍子にラー油が気管に入って激しく咽せる。こんな時なのに、餃子にきっちりラー油をかけるのは忘れない自分もどうなのかと思った。ひとりでげほげほと派手に咳き込み、落ち着くと今度は部屋の静けさが妙に骨身に染みて慌ててテレビをつけた。クイズ番組の漢字問題で、派手な髪型の女性タレントが「杞憂」を書けずに手こずっている。「杞」が「紀」になってスタジオから「惜しい!」と声が上がる。「杞」って「杞憂」以外で見かけへんよな、とぼんやり思った。「杞憂」とは空が落っこちてくるのを心配する、という由来の故事成語なのも。多実がこのまま戻ってこないことと、空が落っこちてくること。さすがに前者の確率が勝つだろう。青吾は餃子を食べ終えるとばたりとテーブルに突っ伏した。テレビの音が天板を伝わり、頰から口の中に響いてくる。もし、このまま一週間が過ぎたら、次はどんな確率を頼みにすればいいんだろう。一カ月とか半年とか一年のデータをあの警官が教えてくれるかもしれない。
苦しいのは「やることがない」ことだった。徒労でもいいから、多実のために身体を使える目的が欲しかった。多実が戻ってきたら「大変やったんやぞ」とぼやいてやるために。いっそ犬猫なら、チラシを作ってそこらじゅうに貼って回り、名前を呼びながら近所を歩けるのに、と考えた時、「聞き込み」という単語が浮かんだ。そうだ。青吾はサンダルを突っ掛けて外に出ると、最寄駅や近所のコンビニを回った。しかし、多実の風体を説明し、「トラブルに巻き込まれていたような現場を目撃していませんか」と尋ねても、「さあ」とか「知らないです」と訝しげな返答しか得られなかった。駅の防犯カメラが見られれば、少なくとも電車に乗ったかどうかは判明するだろうが、当然青吾にそんな権限はなく、権限のある警察はそこまでしてくれそうにない。汗でぬるついた首すじを手の甲で拭う。汗が浮いたり引いたり、忙しい一日だった。もし七十五%の一週間を過ぎたら、真剣に探偵を検討すべきだろうか。きっとまた根掘り葉掘り訊かれて、手持ちの情報の乏しさに呆れられるとしても。
マンションの前に佇む人影が見え、思わずはっと立ち止まりかけたが、二度見するまでもなく、明らかに男だった。誰かを待っているのか、エントランスから動かないその男に軽く会釈をし、オートロックを開錠して中に入ると、なぜかささっとついてこられた。何やこいつ、うさんくさいな。青吾は眉をひそめたものの、うっかり鍵を忘れて外に出ただけかもしれないし、青吾よりだいぶ若そうな体格のいい男に注意する度胸はない。黙ってエレベーターに乗り込み「4」を押すと、男は動かなかった。同じ階に、こんなやつおったっけ。狭い密室の生ぬるい空気でまた汗の勢いが増す。風呂に入らなければ。風呂に入って、寝て、起きて、仕事に行って、あしたは多実のために何をしよう。何もすることがなくなったらどうしよう。
古いマンションのエレベーターは、しゃっくりをするように大きく揺れてから停まる。青吾は「開」のボタンを押し「お先にどうぞ」と促した。男は「すいません」と廊下に出て、403号室——青吾の部屋の前で立ち止まり、部屋番号のプレートをじっと見つめた。さすがに無視できない。
「すいません、うちに何かご用ですか?」
「えっ」
背後から声をかけると、男は驚いた顔で振り返り、言った。
「こちらに、中園多実という女性が住んでいませんか?」
今度は青吾が「えっ」と漏らした。それから、自分でも驚くほどの勢いで男に詰め寄る。
「どちらさまですか」
「弟です」
鼻息がかかる距離で問い質された男はのけ反りぎみに答えた。
「姉の会社から連絡をいただきまして」
おとうと。今まで知らなかった多実の「情報」が、突然実体を伴って現れたことに青吾はうろたえ、瞬時に身を引いて「いつもお世話になっております」という万能にして無意味な挨拶を述べた。
「ええと、そちらは、姉の……」
「一緒に住んでる者です」
「ああ、そうなんですか、こちらこそ、姉がいつも……」
「とりあえず、中へどうぞ」
ダイニングテーブルには餃子の空き容器が置きっぱなしだったので、慌てて流しに移動させた。多実の弟は「中園康二です」と名乗った。差し出された名刺には読みづらいフォントで英語の社名が記され、その右肩に「イベント企画・プロデュース」とある。何やよおわからん、という青吾の心の声が伝わったかのように「同窓会や結婚式の二次会を企画運営する会社です」と説明された。「あと、会社の社内運動会とか」
そのどれもが青吾とは無縁の行事だったので「ほお」と間の抜けた相槌しか出てこなかった。青吾も、前に使ったのがいつだか覚えていないほど減らない名刺を差し出す。
「川西青吾さん、ですね。急にお伺いしてすみません。さっき話したとおり、きょう、姉の会社から実家に電話があったんです。二日連続で無断欠勤をしている、と。緊急連絡先として実家の番号を書いてたみたいです。僕は、姉が和菓子屋さんに勤めていることさえ知らなかったんですが、二十年以上働いていてこんなことは初めてだと……それで、住所を教えてもらったんですが、インターホンを鳴らしても応答がなくてどうしようかと困っていたところでした」
「すんません、ちょっと出かけてまして」
「いえ。川西さん、ひょっとしてきのう、店舗に行かれました?」
「はい。おととい旅行から帰ってくるはずが、帰ってけえへんかったんで仕事には行ってるんかなと」
やっぱり、と康二はかすかに苦笑した。
「店長さんが『不審な男が中園さんのことを訊いてきた』って心配してたんで……すみません、僕が言ったわけじゃないので勘弁してください。常連客の顔はだいたい覚えているので、見覚えのない男性が名指ししてきたのを怪しんだみたいです」
「ああ……」
青吾も半端な笑みを貼りつけながら、何とも言えない空しさを覚えていた。長い間交流がなくても「肉親」というだけで簡単に情報をもらえるのに、一緒に暮らしていても「他人」の自分は不審者扱いしかされない。
「立ち入ったことを伺いますが、川西さんは、姉と一緒に暮らしているということで、それは単純なルームシェアという意味ですか? それとも……」
「一応、交際をさせていただいております」
多実の父親に挨拶しに行く世界線があるとしたら、こんな感じだろうか。ぎこちない青吾の態度に康二も「いえ、そんなにかしこまっていただかなくても」と困惑し、気まずさに拍車をかける。もちろん多実のことは大切だし、女性として意識している。けれど、事実婚、交際、同棲、カップル、すべて正しいはずなのにしっくりこない。それらの言葉が孕む熱っぽさと相容れない気がする。青吾の認識では、多実とは何となく知り合い、何となく一緒に暮らし始め、恋愛感情の全盛期は特になかった。凪の海で同じボートを漕いでいるような感覚だった。どこかを目指しているわけではなく、オールの動きが生む規則正しい波をぼんやり眺めているうちに十年が経っていて、これからも続いていくと疑わなかった。どちらかが死ぬまで。
——どっちが先に死ぬのかなあ。
多実がそう、つぶやいたことがある。深刻な話をしていたわけではなく、とりとめのない雑談の一コマだったのだと思う。俺やろ、と青吾は答えた。
——なんで?
——男のほうが平均寿命短いやん。
——そうだね、青さんは一日じゅう座りっぱなしで運動不足だし、わたしが言わないと野菜食べないし。
——やろ。
——自慢げに言わないで。
テーブルの下で、多実が軽く脛を蹴った。
——あと、寂しがり屋だもんね。
——何やそれ、うさぎか俺は。
——うさぎって縄張り意識が強いから、むしろひとりにしてあげないといけないらしいよ。青さんはうさぎじゃないから、わたしが後に逝ってあげるね。
多実は頰杖をつき、頭を斜めに傾けるともう片方の手のひらを青吾に向けた。
——その時がきたら、遠慮せず、お先にどうぞ。
多実は、よく譲る女だった。電車の座席も、エレベーターやエスカレーターの順番も。いつも手のひらを裏返して「お先にどうぞ」とやわらかくほほ笑む。長い販売員生活で身についた癖だと言っていた。その仕草が好きだった。いつの間にか青吾もまねするようになった。
「結婚はしなかったんですか?」
康二の問いで我に返る。
「ふたりとも、こだわりがなくて」
「わかります」
康二は頷いてから「あ、いや」と言い直す。
「何となくですけど、姉に関しては……僕、姉とは八つ離れてて、思い出らしい思い出もないんですよね。姉は高校卒業したらすぐ家を出ましたし、僕自身、高校大学とスポーツ漬けで寮生活だったので。でも、感情の起伏の少ない、淡々とした印象の人でした。だから、書類上の関係に執着しないっていうのは、らしい気がして」
的外れだと思った。多実は「桝井ドーフィン」という無花果を見て「イケメンの名前っぽい」と笑ったし、箱根駅伝で毎年泣いていたし、帰宅するなり「もーやだ!」とクレーマー客への憤りをぶちまける夜もあった。結婚という契約を結びたくなかったのは青吾のほうだ。でもそれは言わずにおいて、警察署で語った説明を繰り返した。旅行に出かけたきり戻らないこと。スマホにつながらず、行き先について何も聞いていないこと。康二は「家出、でしょうか」と腕組みする。
「警察に行方不明の届けを出した時、そういうふうなことは言われました。事件性がないと」
「事故とか事件とかは、考えたくないですよね」
確かに、単純な家出のほうが安心できる。理由にまったく心当たりがないという点を除けば。
「あの、姉の部屋ってありますか? 見せていただけると嬉しいんですが」
気が進まなかった。多実はきっといやがるだろう。でも、康二の目の中には青吾への不信が潜んでいた。俺が多実をどうにかして、無実を装うために敢えて店に行った——まあ、初対面やし、疑われても当然か。仕方なく「どうぞ」と多実の部屋のドアを開けた。大柄な康二が入ると、五畳の洋室が急に狭く見える。
「ずいぶん物が少ないんですね」
「そうですね、物欲は全然ないほうやったと思います」
青吾が言い終わらないうちから康二は作りつけのクローゼットに歩み寄り、ためらいなく両開きの扉を開けた。ぎょっとして、次の瞬間激しい怒りが込み上げてきた。多実が侮辱されたような気がした。いくら弟やからって、失礼ちゃうんか。家族って、そんなに偉いんか。そのまま服を漁り始めたりしたらさすがに「やめろ」と言うつもりだったが、無礼者は中身を一瞥しただけですぐに閉めた。姉が監禁されているとでも思ったのだろうか。
「何かわかったら教えてください」と言われ、連絡先を交換した。「何かわかったら教えます」とは言われなかった。こいつも警察と同じく、情報を摑んでも青吾には与えず堰き止めるのかもしれない。青吾には何の権利もない。やりきれなさを紛らわすため、康二が出て行った後、多実の部屋でファブリーズを何度も噴霧した。引き金を引くような気持ちでレバーにかかった指先に力を込めた。空中に舞う細かな粒は照明の下でものの数秒きらめき、跡形もなく消える。
肌のべたつきが収まれば、今度は風呂が億劫になる。一時間ほどだらだらテレビを見てようやくシャワーを浴び、髪を拭いているとダイニングから電話の着信音が聞こえてきた。パンツ一枚でどたどた駆け出し、テーブルに置いたままだったスマホを摑んで受話器のアイコンをタップする。多実からだ、と思った。多実に決まっている。よかった、やっぱり七十五%だった。「もしもし」と上ずった声で応答する。
『川西青吾さんの携帯でよろしいですか』
男の声だった。聞き覚えがあった。
「はい」
『警察の者ですが、きょう、行方不明者届を出していただいた奥さんの中園多実さん、海難事故に巻き込まれた可能性があります。現在も行方がわかっていません』
真っ暗な胸の中で、瞬く間に安堵が霧散した。空が落ちてきた、と思った。
▼一穂ミチ「はじまりのことば」
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