寺地はるな「リボンちゃん」#005(最終回)
第五話
検診車の中は、見渡すかぎりピンクだった。カーテンも、合皮ばりの椅子も、看護師の制服も。
「三十二番のかた」
ここでは、名前ではなく番号で呼ばれる。受診票の入ったファイルを手渡す際、軽いめまいを覚えた。
二十歳になってから二年に一度かならず市の子宮頸がん検診を受けてきた。いいかげんに慣れよう、と思えば思うほど緊張する。痛くありませんように、と祈るが毎回きっちり痛いし、出血する時もあるから。
待機スペースのカーテンを閉め、スカートをたくしあげて、ショーツを脱いだ。マリエさんのお店で買ったブルーと白のストライプのショーツだ。あわてて脱いだから足首のところで丸まって、頼りない姿をしている。ていねいにのばして、かごにそっと置いた。こんな日にこそお気に入りを穿いてきて正解だった。すこしだけ、気分が落ち着いた。
内診台に腰をおろす。椅子がゆっくりとせりあがり、足が開かれる。医師の顔はカーテンに遮られて見えない。声音から、若くない男性であるということだけが推測できる。すべてがピンクの世界で、その人の黒いズボンの裾がくっきりと浮かび上がる。
力を抜いて、と何度も言われる。はやくおわりますように、はやくおわりますように。呪文のように唱え、器具を挿し入れられる痛みをやり過ごす。下腹部を押されるタイミングに合わせて息を逃がした。
「はい、終わりましたよ」
顔の見えない相手の口調のやさしさに、なんとか椅子から降りる力を得た。ありがとうございました、と小さく言って、カーテンに背を向ける。
ショーツを身に着けながら、今日のこのあとの予定について考えようとした。もうすぐ十四時近い。検診への不安から、あまり昼食が食べられなかった。テーラー城崎に寄る前に、なにかおいしいものを買っていこう。
「ずいぶんわかりにくいところにあるのね」
それが、彼女がはじめてテーラー城崎を訪れた際の第一声だった。事前にメールで地図も送ったのだが、それでもやっぱり気づかず通り過ぎそうになったという。十一月に入ったばかりで、肌寒くて朝起きるなりぶあついカーディガンをひっぱり出すような気温だったが、彼女は額にうっすら汗をかいていた。
彼女を車でここまで連れてきたという彼女の夫も、タオルハンカチで額の汗をおさえながら「駐車場も遠いんですね」と言った。咎める調子ではなかった。どちらかというとおもしろがっているように見受けられた。
わたしは「すみません」ではなく「そうですよね」と答えた。わかりにくい場所にあるのは、わたしや加代子さんの責任ではないからだ。
二度目に来た時には「やっぱりわかりにくいのよね」だった。彼女の名は小百合さんという。脳の病の後遺症によって、右半身に麻痺がある。「気分が晴れるような美しい下着を」というのが、小百合さんの要望だった。
五十代の、背の高い女性で、ショートカットがよく似合う。「髪を長く伸ばしたことって人生で一度もないの」と笑う。
「若い頃、西中嶋くんと歩いてると、よく男ふたりだと勘違いされたもんよ」
西中嶋くん。その呼称は、社長にも「社長」でなかった頃があるのだとわたしに教えてくれる。
「これ、自分でも脱ぎ着しやすいところが気に入っているんだけど」
サンプルとして、自分がふだん身に着けているものと同じだというブラジャーを持参してくれた。介護用品の店で買ったというそれは肩ひもの太い、スポーツブラのような形状で、フロントホック仕様のものだった。ホックのボタンはプラスチック製で、片手でとめることができるのだという。伸縮性のある生地は綿とポリエステルの混合素材だ。
「このホックを面ファスナーにできる?」
「やってみます」
まず、その介護用品の店に行ってみることにした。小百合さんから聞き出した店名に覚えがあった。総合病院の近くのお店でしょう、と言うと、小百合さんはそうそう、と頷いた。
母が生きていた頃に一度、前開きの肌着を探しに行った。その時はベージュとか白とかといった色味のものしかなく、母に拒まれたためにわたしが見よう見まねで縫ったのだった。
あれからずいぶん時間が経って、商品のバリエーションも変化しているようだった。レースをあしらったものや、紺や赤のボーダー柄なども棚に並んでいたが、それでもやっぱり一般的な下着よりはずっと選択肢が少ないことはあきらかだった。
最初の一枚は、菫色の生地に同色のレースを重ねたものにした。そろいのショーツも合わせてつくる。できあがったものを試着してすぐに、小百合さんは「もう一枚、オーダーする」と言った。表情は変わらなかったが、声はあきらかに弾んでいた。生地とレースのサンプルを見てもらい、熟慮の末に二枚目はターコイズブルーで、と決まった。小百合さんは寒色系の色を好むらしい。
今日は、その二枚目を渡す日だ。
「ちゃんとできてるんでしょうねえ」
小百合さんは入ってくるなり、そんなことを言う。加代子さんは「もちろん」と肩をすくめておかしそうに笑いながら、お茶を淹れるために二階に上がっていった。小百合さんは夫につきそわれながら、ゆっくりと試着室に消える。
店は狭いが、試着室は広めにとってある。人間ふたりで入っても問題はないが、「あなたは出ていって」「でも」「言ったでしょう、自分でできることは自分でやりたいって」というやりとりのあとに夫だけが出てきた。
倒れてからしばらくは歩くこともできなかった、という話は前回、聞いた。
「リハビリは過酷です。彼女はとても強い人だけれど、それでも」
小百合さんの夫はそこで言葉につまって俯いたあと「でもね、最近ずいぶん笑顔が増えた気がします」と続けて、顔を上げた。目尻が濡れていることに、わたしは気づかなかったふりをした。
ややあって、試着室の中から小百合さんに呼ばれる。ブラジャーを身に着けた小百合さんは、椅子に腰かけたまま、「どう?」とわたしを見上げた。
「とてもよくお似合いです」
「そ」
短く答えた小百合さんに向かって頷き、わたしは試着室を出た。そっけない反応だったが、気に入ってくれたことはわかった。
お茶を淹れて戻ってきた加代子さんは、小百合さんの夫とスーツについて話している。近いうちに親戚の結婚式があるのだそうだ。口ぶりからして、ここでオーダーをしようと考えているようだった。
「おじさんが着てるものなんて、誰も興味ないでしょうけどね」
「そんなことありませんよ」
試着室の中から「わたしは興味あるけど?」と声がした。小百合さんの夫は照れたように、両手のひらで自分の頰を擦った。
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