寺地はるな「リボンちゃん」#004
第四話
「乾杯!」の掛け声とともに、隣に立っていた知らない男性のコップがありえない角度に傾き、あ、と思うまもなくわたしのシャツの肩は濡れていた。こぼれたビールはじわじわと染みて胸元まで到達しようとしている。
「わ、こりゃ大変だ。ごめんね、だいじょうぶ?」
「気にしないでください、洗えば落ちますから」
わたしはハンカチでシャツを押さえながら立ち上がった。数メートル先のバーベキューコンロで焼いている肉の匂いが鼻孔をくすぐり、お腹がぐうと鳴る。
よかった。バーベキューをやる、と聞いていたから汚れてもよい服を着てきたのだ。だが、このままただ乾くのを待つのも気持ちが悪い。洗面所かどこかで洗わせてもらおう。いやもうこの際、水道が使えるならどこだってかまわない。うろうろきょろきょろしていると、背後から「あの」と声をかけられた。
「あの、家のほうにどうぞ」
わたしに声をかけてくれたその女の子は、どうやら一部始終を目撃していたらしい。
中学生ぐらいだろうか。楕円のフレームのめがねをかけ、ギンガムチェックのシャツワンピースを着た髪の長い彼女は、自分が福田康児の姪であること、(有)福田自動車の裏手にある福田の自宅に住んでいることなどを、あらかじめ用意してきたセリフのようによどみなくていねいに説明した。
「こっちに来てください。着替えを貸します」
彼女に先導され、わたしはバーベキュー会場であった(有)福田自動車の前庭を抜け出て、福田家に向かう。大きな笑い声がして振り返ると、若年から中年、初老といった幅のある年齢層の男性に囲まれた福田がビールを一気飲みしているのが見えた。今日は彼の、社長就任のお祝いなのだ。すでに顔が真っ赤になっている。あまり酒に強くないようだ。
そういえば一緒に来たはずの加代子さんの姿が見えないのだが、いったいどこに消えたのだろう。「乾杯!」の直前まで隣にいたはずなのに。
福田家は二階建ての、このあたりの住宅街の平均からすると大きい部類に入る一戸建てだった。玄関ドアの脇にはがき大の表札があり、いくつもの名前が書かれているのが見えたが、彼女がさっさとドアを開け放って家の中に入っていくので、読む暇はなかった。
女の子は廊下のなかばの階段の手前で振り返って「洗面所はここです」と斜め前のドアを指さす。
「あ、じゃあ、おじゃまします」
「これ、どうぞ」と渡されたTシャツにはたぶん世界一有名な、頭に赤いリボンをつけた睫毛の長いネズミのキャラクターがプリントされていた。
七本並んだ色違いの歯ブラシを横目に、シャツを洗った。ぎゅうぎゅう絞ってから洗面所を出ると、彼女が階段のなかばに腰を下ろしているのが見えた。
あははは、と階段の上方から、なじみ深い笑い声が聞こえる。加代子さんは、この家の二階にいるらしい。
「行きましょう」
女の子が人差し指を階段の先に向ける。わたしは、わけがわからないまま頷いた。
「おれ社長になるんだよ」と福田が言ったのは、九月の上旬のことだった。こだわりにこだわったスーツがようやく完成した日だ。こだわりにこだわっただけあって、なるほどよく似合っていた。一見無地のようだがよく見ると縦縞に織られている。シャドーストライプというのだそうだ。
加代子さんに言わせれば「お義父さんに比べたらまだまだぜんぜん」らしいが、はじめてとは思えない出来栄えだった。
「おれ、会社を継ぐためにどうしてもテーラー城崎で仕立てたスーツが必要だったんです」と福田は言った。会社だけではなく、祖父と父が好んだものや守ってきたものをすべてを継いで守りたいという強い思いがあった。べつに「すべて」じゃなくたっていいじゃないか、というのはわたしの考えなので、福田には伝えなかった。
「無理なお願いを聞いてもらって……ほんとうにありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ福田くんのおかげで良い経験ができました」
加代子さんが「ありがとう、ほんとうにありがとう」と深く頭を下げ、福田は「そんな、そんな」と慌てふためき、より深くお辞儀をして、見ていたわたしは近距離でお辞儀をしあっている頭がぶつかりそうでむやみにスリリングなひと時を過ごした。
「あたしね、テーラーは男の仕事だ、って言われてきたの、ずっと」
寂しげに目を伏せる加代子さんの肩が小刻みに震え出すまでに、そう時間はかからなかった。
「でも、つくっちゃったよね。あたし」
感極まって泣いていたわけではない。抑えきれぬ喜びが、くつくつ笑いとして表出していたのだ。
「そうだよ、加代子さん。やったね!」
「よ! テーラー加代子!」
ひとしきり盛り上がった後で、福田が「あの、再来週の土曜日に社長就任パーティーやるんです。と言っても、うちの敷地でバーベキューやるだけなんですけどね」と言い出した。
「加代子さん、来てくれませんか? あと、モモッチも。よかったら」
後半の言葉が自分に向けられたものだと理解するのに時間がかかった。
「誰がモモッチよ」
「百花だからモモッチ」
福田は当然のことのように言っていたが、わたしはそのような愛称は好まない。「百ちゃん」ぐらいにしておいてほしい。加代子さんが「なんか、モンチッチみたいだね」と言い出したのでなおさら嫌になった。
「二度とそんな呼びかたしないでよね」と念を押したが、福田のことだからきっとまた言うだろう。
そのようにしてやってきた社長就任パーティーだった。
二階へと続く階段をのぼるあいだ、ずっと加代子さんの話し声が聞こえていた。
「連れてきたよ、ママ」
女の子が襖を開け放つ。
古びた簞笥とこたつテーブルが置かれた和室の奥に、加代子さんが座っていた。こたつテーブルには三段のケーキスタンドが置かれ、いわゆるアフタヌーンティーの用意がしてあった。
加代子さんの隣に座っていた女性が、わたしに会釈をした。視線が顔、上半身、下半身、と移動し、手に持っていた濡れたシャツに止まり、また上半身に戻った。
「ビールがこぼれたので、着替えをお借りしました」
「あ、そうなんですね」
納得したように立ち上がり、別室からハンガーを持ってきてくれる。
「カーテンレールにかけときましょう」
この素材ならすぐ乾きそう、と微笑んだ彼女は「梨沙です」と名乗った。福田の兄、剛司の妻だそうだ。
「この子は波瑠です」
わたしをここまで連れてきた彼女の肩を抱き、頰をくっつけるようにして紹介してくれる。
「はじめまして。あの、さっきはありがとう。波瑠さん」
「波瑠でいいです」
そう言われて即座に「オッケー、よろしくな波瑠!」と応じられるようなマインドの持ち合わせがないため、「じゃあ、波瑠ちゃんと呼ばせてもらうね」と妥協案を出した。
梨沙さんは「わたしはああいう場がちょっと苦手で」と言いながら、わたしに紅茶を淹れてくれた。
「ああいう場」とはもちろんバーベキューのことで、(有)福田自動車の従業員や取引先やご近所の人びとに酒を注ぎ、皿を運び、とくに興味のない話題に笑顔で相槌を打たなければならないこと、そのすべてが「ちょっと、ううん、かなり苦手」とのことだった。
「お義母さんは『あなたは福田家のお嫁さんなんだから』って言うんですけど、わたし福田家に嫁いだんじゃなくて、ツヨくんと結婚しただけですし」
「あ、はい」
「それにツヨくんは会社とは一切関わってませんし。今日もフラッとどっか行っちゃったし」
福田の兄も(有)福田自動車で働いていると思っていたのだが、違ったようだ。
「フラッと……そうですか、それは」
ひどいですね、と言うべきか迷う。梨沙さんは「彼、自由人なので」と、皮肉とも賞賛ともとれる口ぶりで笑った。
「加代子さんを誘って、二階に避難してきたんです」
かつてテーラー城崎で娘の上靴入れをオーダーしたことがあり、以前から顔見知りだったようだ。
「あたしも、得意ではないからね。ああいう場は」
そういえば、「乾杯!」の前から居心地が悪そうだった気もする。
「加代子さん、姪御さんと一緒に来てるっていうから。こっちに呼びましょうってことで。それで波瑠に迎えに行ってもらったんです」
「そう、あたしがね、『オレンジ色の大きなリボンをつけてる人だからね』って教えておいたんだ。ね、すぐわかったでしょ? 波瑠ちゃん」
「うん」
波瑠ちゃんはその後に「すごく浮いてたし目立ってた」と続けたが、声が小さかったのでおそらく隣に座っているわたしにしか聞こえなかっただろう。
ところで、と梨沙さんがわたしに向き直る。
「百花さんって、荻中のハンドクラフト部だったよね?」
「え」
「わたしのこと覚えてないかな? ハンクラに仲いい子がいて、たまに遊びに行ってたんだけど。あ、ちなみにわたしのほうが、一学年上ね。わたし陸上部のマネージャーやってたの。ほら、康児くんは短距離の選手だったでしょ?」
わたしは福田の所属していた部活を覚えておらず、相槌すら打てなかった。ましてや学年の違う生徒のことなどまったく記憶になく、反応に困る。
しかし梨沙さんは反応の鈍いわたしにかまわず、中学の頃福田と仲が良かった(「男女関係なく仲良かったのね、あの頃のわたしたちって」)ため、この家に遊びに来る機会も多く(「お義母さん、まあ当時は『福田くんのお母さん』なんだけど、中学生がたくさん遊びに来るたびはりきっちゃう人で。いい人だなあ、と思ってた。当時はね」)、何度目かの訪問時に福田の兄と出会って親しくなり(「ツヨくんはその頃高校生で。すごく大人っぽく見えたんだよね、わかるでしょ?」)、交際に発展し(「バレンタインにチョコ渡したの」)、結婚に至った(「わたしが二十歳の時。波瑠を授かったから。経済的な理由で同居することになったんだけど、そのあとすぐ二人目ができて、そのままここに住み続けてるの、でもいつかは家が欲しい!」)というようなことを立て板に水のごとく喋るあいまにケーキスタンドからわたしの取り皿にサンドイッチや小さなタルトを素早くとりわけ、「はい、食べて食べて!」と子どもがいる女性にありがちな忙しなさですすめてくれた。
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