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朝倉かすみ「よむよむかたる」#007

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 やすは、今、市立たる文学館に向かって歩いている。ちょうど図書館の前を通り過ぎたところだった。図書館でもどこかの部屋を借りられるかもしれないな、と思いつつスマホの地図アプリを見て、とみおか一丁目の交差点を右折、と確認する。あとは真っ直ぐ行けばいいはずだ。
 午後三時を過ぎていたので、隣家のサッちゃんにLINEした。店番をお願いしていたのだ。
 隣家のサッちゃんは喫茶シトロンのスーパーサブだ。こうして安田が外出するときに喫茶業務をこなしてくれる。六十いくつの細身の女性で、誰彼かまわずにらむような目をしている。遠心顔なものだからよしともの描く女の子に少し似ていて、そう言ったら喜んだ。学生時代のあだ名は「みなごろしの」だったそうだ。つまりそういう目つきなのだが、めいろうな人で、頼みごとをすると「なんでもござれ!」と引き受けてくれる。若者客からはちょっと怖がられるふしがあったが、安田が作成した奈良美智風イラスト付きネームプレートを胸につけてからはそれもなくなった。夫が亡くなり、こどもが独立したのを機に仕事を辞め、横浜からUターンしてきたそうである。
 あちこちで桜が満開だった。濃いめピンクの八重桜で、実がるようにふさふさと咲いている。もくれんも、はくもくれんも、辛夷こぶしも咲いていた。赤かぶ漬みたいな色のが木蓮、紙をポケットチーフみたいにしたのが白木蓮、白木蓮とそっくりだけどフツーの花っぽいのが辛夷、とサッちゃんに教わった。視線を下げると道筋の家々にはワサワサれるひよこ色をしたレンギョウだの、赤紫のツツジの生垣だのがあり、さらに目を下げると軒下には純白のスズラン、ポーチに置いた鉢から溢れるすみれ色のスミレがあったりした。
 これが五月だ、と思った。ここいらの五月の戸外は色というものがいっせいに戻ってくる。どの色も冴えていた。そして、どの花もこどもの目のようにぱっちりとひらいている。
 安田の足が止まった。振り返って通り過ぎた風景をさっと見直し、頭を戻す。富岡一丁目の交差点までもう少しだった。軽く弾みをつけて歩き出し、右に曲がったら、ページがめくれるように思い出した。ぱっちりとひらいた目が脳裏に浮かんでいる。すぐに分かった。あの子の目だ。つやつやの真っ黒で、触れたら水紋が広がりそうな。
 瞳孔、虹彩、白目、瞼。安田を見あげるあの子の目元がクリアになっていく。あの子は前髪を厚く下ろしていた。束の絹糸みたいに光沢のある前髪で、まばたきするたび長いまつと擦れ合った。その音を安田は覚えているような気がした。耳の中でカサカサと垢が動くような音だ、と思ったのではなかったか。たちまち、くすぐったくてならなくなり、その場足踏みをしながらイヒヒと笑った記憶が風船ガムみたいに膨らんでくる。
「あ」
 安田はまた振り返った。視線を延ばすと消失点のあたりに大きなヤナギの木らしきものがある。すぐさま黄金色に燃える銀杏や、緑から赤へと錦のように色変わりしている楓の連想がやってくる。大木つながりである。ついさっき思い出した、その場足踏みをした地べたの感触ともつながって、すみよし神社、と答えが出る。
 鳥居をくぐり、空を突き刺すような背の高い木と苔むしたいしどうろうを両側に眺めて参道を歩き、階段を上ったのだ。これを繰り返すと正面に拝殿が出現するのだが、そこまで行った記憶はなかった。拝殿で手を合わせるのは、お参りという用向きで大人に連れてこられたときだったはずだ。
 灰色の階段を一段飛ばしで上る安田を、あの子がめいっぱい足をひらいて真似ようとした画像がよぎった。「こどもには無理だって」とため息をついてみせ、見せびらかすように二段飛ばしに挑戦した幼い自分の姿もよぎり、また答えが出る。ぼくとあの子はあの神社にしょっちゅう遊びに行っていた。
 住吉さん、と呼んでいた、と思い出したのは「住吉さんに行ってくる」と怒鳴るように言った自分の声が聞こえたのと同時だった。映像が追いかけてくる。ガラッと玄関ドアを開け、運動靴を履いたつま先をトントンさせながら振り返って家の中に声をかけた。外の明るさ、室内の暗さのコントラストにくらっとした感覚がよみがえったと思ったら、暗がりからあの子が走ってきた。横抱きにしていた茶色いぬいぐるみを上り口に置き、もどかしそうに靴を履き、「住吉さんに行ってくる」と高い声で叫んだ。安田と同じにつま先をトントンする。
 茶色いぬいぐるみの名前はアッキちゃん、とまたまた答えが出た。小花模様の服を着たうさぎのぬいぐるみで、あの子がほんの赤ちゃんだった頃からお気に入りだった。正式名称はラッキーだが、それがなまってアッキちゃんになったのだった、とこんなさいな答えなど別に出てこなくてもいいのだが、出てくるのだから仕方ない。むしろ出るにまかせてどんどん出したい気分である。目指すものに近づいている、そんな感覚があった。吸い込まれるように近づいていっている。
 先日の例会でシルバニアが言った「ちいさな白い小包」と「ちがった。あれは漫画」のふたつがずっと引っかかっていた。

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