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ピアニスト・藤田真央エッセイ #51〈ストイックなリハーサルの先に――ハーゲン・カルテット〉

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 チェコフィルとの全4つのコンサートを盛況に終えたのも束の間、次の日からまた新しいリハーサルが始まった。伝説の弦楽四重奏団、ハーゲン・カルテットとのリハーサルだ。この弦楽四重奏団は1981年に結成された。結成当初のメンバーは全員が兄弟(ルーカス・ハーゲン、アンゲリカ・ハーゲン、ヴェロニカ・ハーゲン、クレメンス・ハーゲン)だったが、第二ヴァイオリンを務めていた長女アンゲリカがソロ活動に専念するとのことで、現在はライナー・シュミットがそのポジションを務めている。結成から40年余り、今なお世界のトップを走り続けているカルテットだ。ちなみにヴィオラのヴェロニカとチェロのクレメンスは、2022年ルツェルン音楽祭で私がラフマニノフ《ピアノ協奏曲 第2番》を演奏した際にそれぞれオーケストラの首席奏者を務め、あの名演が生まれた瞬間を分かち合った。だが名演奏家とはシャイである、という私の仮説通り、一年ぶりに再会したヴェロニカとクレメンスは初めて会ったかのような印象だった。

 今回一緒に演奏する演目はシューマン《ピアノ五重奏》だ。1994年にハーゲン・カルテットはパウル・グルダと共に同曲を録音しており、学生時代の私は耳にタコができるくらい延々とリピートしていた。疾走感漂うエネルギー満点の演奏に惚れこんで、いつか私もこの作品を弾いてみたいと切望したものだ。全てのニュアンス、音色を私の脳内で再生できるくらいに愛聴していたため、リハーサルは円滑に進むだろうと考えていた。だが遂に彼らと音を合わせた途端、その浅慮は打ち砕かれた。

 想像を絶する程に、彼らの作る空間には固有の呼吸が宿り、四人は独自の音楽言語を共有していた。藤田真央が配慮なくそこに加われば、あまりにも異質で、モネの《睡蓮》を背景にモナリザが登場したかのようにちぐはぐだった。無論彼らは40年以上に亘って苦楽を共にし、独自の音楽、音色、フレーズ感、響きを血肉としているのだ。第二ヴァイオリンがシュミットに交代した当時、彼が新メンバーに加わった最初の1年間はハーゲン家に寄宿したというエピソードにも震撼した。よそ者の私が、自分主体の音楽観、テクニックで挑むと調和と完全にかけ離れてしまう。特に彼らのブレスの取り方はとてもユニークで、拍を数えるだけではうまく合わず、全神経を集中させて音のでる瞬間を嗅ぎとった。そしてその法則を理解するのに大変時間がかかった。

 加えて、私が愛聴していた若々しい録音から30の歳を重ねた彼らは、この曲に新たな息吹を吹き込もうとしていた。全ての音を歌うように発音し、フレーズの行き着く先を常に意識している。決して痛烈な音ではなく、常に潤いがあり、速いパッセージでも響きが豊かに生きていた。私は無我夢中で彼らの打つ厳しいノックになんとか食らいついていき、その息遣い、ニュアンス、癖の全てを取り込もうとした。そうでもしなければ一瞬にして音楽が崩壊してしまう。そしてまた、彼らは驚くほど練習の鬼だった。ホテルにいる際も休むことなく誰かの部屋に集まりリハーサルを行っているらしい。大ベテランになっていてもなお、厳しい姿勢で音楽と向き合う姿と比べると、私はなんとぬるま湯に浸かっているのかと思った。

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