料理家・今井真実さんのエッセイ連載がスタート! 第1回「心置きなくスパイスラーメン」
第1回 心置きなくスパイスラーメン
数ヶ月に一度のヘアカット。行きつけの下北沢の美容院へ行く時は、平日の朝10時に予約すると決めている。小学生の子供の帰宅に充分間に合う時間だし、白髪を染めて髪を切ると、ちょうどお昼時に終わるからだ。
「最近美味しいお店ありました?」と美容師のYさんに聞いて、最新の情報を手に入れる。髪を綺麗にしてもらい、ランチをひとりで食べて帰るのが私の楽しみだった。
私は中学生の頃から「ひとりランチ」の食べ歩きをこよなく愛していた。美味しいものを誰かと分かち合う楽しさもあるけども、ふらふらと歩いて気分のままお店を探し、ひっそりニマニマと食べ物に向き合うことは何にも代えがたい時間なのだ。
ひとりでもしなければいけないことは意外と多い。オーダーした後も次回を見据えてメニューを熟読しなければならないし、今日のチョイスがベストだったか、最近ではしつこくスマホで口コミも確認する。いざ自分の注文したものが届いたら、くんくんと匂いを嗅いで、少しずつ口に含んだり、よーく噛んでみたり、一息にかっこんだり。食べ方のスピードも変えて、口に入れる量を増やしたり減らしたり。それによって味の感じ方がどう変わるかなあ、なんて考えながらもぐもぐと咀嚼する。同時に、隣の人の頼んだメニューや、厨房から次々運ばれる料理だってチェックしなければならない。店内で起こっている事象全てに集中するのは、ひとりでないと不可能なのだ。
最近おすすめのお店ありますか、といつものようにYさんに聞いた。
「スパイスラーメンの『点と線.』、今井さん行ったことありました? すぐ近くに移転してて……久しぶりに食べたら美味しかったんですよ!」
ああ、そのお店なら一度だけ行ったことあります、とYさんに答え、うーん……あそこかあーと、逡巡する。4、5年前だろうか、正直に言うと、その時の食事はあまり良い思い出ではなかった。
味がどうこうというより、とにかく今まで経験したことがないほど辛かったのだ。印象に残っていることといえばとにかく「辛い」。汗が止まらなくて「つらい」。
今考えると、食事をした状況も悪かったのだろう。夏の暑い日だったから、お店に着くまでに体が火照っていたのかもしれない。それに、あの頃はまだ私もスパイスに耐性がなかった。経験したことのない種類の刺激。唐辛子ではなく、スパイスの複雑な辛味は初めてで、痛みに戸惑い、ティッシュ片手にだらだらと涙を流しながら完食した。味を感じている余裕などなく、ただただ呆然とお店を後にしたのだった。
しかし、Yさんの言うことなら間違いない。彼女がおすすめしてくれるお店はいつも満足度が高く、私の舌に合うのがわかっている。今日はなんだか肌寒いし、体が温まるのは大歓迎だ。よし、行ってみよう。
会計を終えると、Yさんがわざわざ店を出て道案内までしてくれたので、すぐにお店にたどり着いた。
前は雑居ビルの一角だったけども、新しい店舗は通りに面した明るい構えで、心の中のハードルがすっと下がる。木製のガラスの引き戸を開けて入ると、アンティークな家具が並び、まるで古民家カフェのようにかわいらしい。ふらふらと、席に着こうとしたら「先に券売機で食券をお求めください」と言われる。そうでした。ここはラーメン屋さんでした。
なになに、ミニカレーライスがあるのね。これは美味しそう……! いや、でも、この前来た時にやっとやっとでスパイスラーメンを食べ終わったではないか。思い出してよ、私! カレーなんてびしばしスパイス効いているでしょうよ! 食欲に任せて、理性を飛ばすのはやめないと。なににしようかなあ……。
券売機を眺めていたら、発見したのだ。「辛さひかえめできます」の文言を!
わーい、やったね! そうします。そうします。きっと私みたいな人がいたのかな。どなたか知らないけれど、ありがとうございます。
ちょっと背の高いカウンター席に座ると、ティッシュケースに「”味変”レモンあります!お声掛け下さい」と書いてある。なんだか、これだけでヘルシーな感じがするなあ。レモンの魔力。
ここで、はっとする。今日の私、お気に入りのワンピースを着ていることを忘れていた。スカーフを胸元に金太郎スタイルに巻き、いただいた紙エプロンを付けて二重の防御を試みる。
落ち着きなく食べる準備を整えていると、さっそく注文したラーメンが運ばれてきた。お久しぶりねスパイスラーメン。そうそうこんな見た目だったなあ。
最初の印象は「野菜!」だ。ごぼう、ブロッコリー、キャベツ、おねぎ、様々な種類の野菜がカラフルに盛り付けられていて麺が見えない。
まず、10㎝はありそうなごぼうをお箸で引き抜いて齧る。歯ごたえを覚悟して口に入れると、あれ? 拍子抜け。すごく柔らかい。表面がちゅるりとしているのは、粉をまぶしてから油でゆっくり揚げているのだろうか。ざくっと噛むと歯触りがほどよく小気味いい。これ、あと5本は食べれそう。
次にブロッコリーを食べる。ブロッコリーは私が唯一ほんのり苦手なお野菜。調理の方法によっては食感がもそもそしていて、青臭く、食べるのが苦行になることもある。それが、なんだ、このブロッコリーは。サクサクなのである。まったく理由がわからない。なぜこんなチップス的な軽さがあるのだろう。ブロッコリーの花蕾は焦げやすいのに、きれいな狐色。ただひたすら香ばしい。
ここで、気がついた。あれ? スパイシーだけど辛くない。スープをすくってひと口そっと飲んでみる。ココナッツミルクのようなクリーミーなコクに、スパイスやハーブの香りが華やかに溢れている。辛さ控えめにしてよかった、これなら味がわかる!
いよいよ麺にいきましょうかと、野菜の山からほじくり出し、出会ったのはむちむちした平打ちのような麺。おっ、これは好みのタイプだ。うれしい!
ちゅるんちゅるんもぐもぐと、麺を噛み締めると、口の中でリズミカルに踊る。野菜を悠長に食べていたおかげで、こっくりとしたスープが沁みている。
チャーシューはどうだろう。お箸で千切れるほど柔らかい。すっとほぐれて、お肉の繊維にスープの味が入っている。脂身と赤身のバランスもよく、とろとろとした部分と赤身のしっとりとした部分が口の中で交わっていく。飲み込む前に、ぷりっとした麺を急いですする。うっはあー、これは幸せだわ。スパイスラーメンのハーモニーに胃がどんどん満たされていく。
ふと我に返る。夢中になって食べていたけど、そうそう、レモンを忘れていた。
そういえば、低インシュリンダイエットが流行っていたとき、ラーメンにはお酢をかけろって当時の会社の先輩がうるさかったなあ。まったく人の体形にまで余計なお世話なことよねえ。こだわるべきは味。味変のためのレモンなら大歓迎よ、と過去に悪態をつきながら、果汁がはねないように気をつけてぎゅうっと搾る。柑橘の香りが広がりスープをすすると、確かに味に締まりが出て清涼感が増す。これならラストスパートに向けて飽きずに一気にお箸を進めることができる!
しかし、食べれば食べるほど元々のスープのおいしさに酔いしれる。次にレモンを搾るとしたら、さっぱりさせたいお肉の脂身めがけてだね、と心に決めた。
最初は辛さを感じなかったものの、少し唇がヒリヒリしてきた。お水をがぶ飲みして、コップを持ってウォータージャグのあるカウンターまで注ぎにいく。
……そうか。ようやく、Yさんがこのお店を薦めてきた理由がわかった。
子供と一緒なら、私が水を注ぎにいこうとするやいなや「じぶんでいく!」とカウンターからジャンプして飛び降りるだろう。大人にとってはなにげないことでも、子供がいるというだけで意識しないといけない動作がいくつもある。
そもそも辛いものを食べるという選択肢がありえない。
そういえば、前にYさんに教えてもらった、小さなバインミースタンドも、カウンターだけのべらぼうに辛い麻婆豆腐のお店も、とても子供と来られるお店ではなかった。
うちと同じ歳の子を持つ親であるYさんは、私がひとりでランチに行けるときは、ひとりだからこそ楽しめるお店を選んでくれていたのかもしれない。
そうなのよね、自分の舌の好みだけでランチを選んで、気を遣わずたまには羽を休めたいよね。私だけじゃなくって、Yさんもそうなのかな。ルンルンとお昼を楽しんでいる彼女の姿を想像すると、仲間がいるような温かい気持ちになった。
横の若い男性はカレーをセットにしている。むむむ、やっぱりおいしそうだなあと横目に盗み見る。次に来た時には、あれ頼んじゃおうかなあ。スープにご飯を浸して食べるのも最高だし、カレーの方は違うスパイスを使っているだろうから、それがスープに溶け込み、また違う味わいを生み出すはずだ。
もう一度メニューを手に取り、じっとりと眺める。
全て食べ終わってからも、いじましくスープをすくって飲んだ。ああ、おいしかった。ごちそうさまでした。
口をナプキンで拭い、まだ刺激の残る唇にリップクリームを塗って、そっと紙エプロンとスカーフを外す。セーフ……どこも汚していない。今日の私はツイてたね、さあ急いで家に帰らないと、と勇ましい気持ちでお店を後にした。
(おわり)
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