イナダシュンスケ|千切りキャベツの成長譚
第18回
千切りキャベツの成長譚
僕が小学生の頃「放送教育」というものがありました。これはNHK教育テレビでやっていた小学生向けの学科の番組を授業中にみんなで観るというもの。例えば週に一回の「道徳」の時間には、15分ほどの道徳の番組を観る、という感じです。もちろんすごく面白いというわけではないのですが、一応ドラマ仕立てで、普段の退屈な授業よりは幾分マシでした。そして僕はこの「道徳」のドラマに、なぜかじわじわとハマっていったのです。
自分たちと同じ小学生を主人公とするそれは、ドラマと言うにはあまりに中途半端でした。例えばこんなふうです。
小学生が数人、公園でそこにいない友達の悪口を言っています。遊びの約束をしていたのに来ない、と言うのです。しかし主人公だけは、その彼が来られなかった理由を知っています。しかし、悪口に同意を求められた主人公は、ついついそれに付和雷同してしまいます。モヤモヤとする主人公の横顔のアップ。そこでドラマは唐突に終わります。
つまり放送「教育」としては、この後、自分がこの主人公だったらどうしていたか、彼は本当はどう振る舞うべきだったのか、それをクラスで話し合いましょうという狙いがあるわけですね。しかし僕には、この尻切れトンボ感そのものが、なぜか妙に心地よく感じられたのです。
年齢的にそろそろ、あまりにも予定調和的な展開とか、単純すぎる勧善懲悪とか、何より子供向けの説教くさい話、そういったものに微かな侮蔑感のようなものを覚え始めていたのでしょう。また何となく、そういう全てを語り尽くさない「物語の余韻」のようなものを味わえるようになっていたのかもしれません。なので授業後半の討論パートの間は「絶対に先生に怒られそうな捻くれた答え」や「そこからまさかのSF的超展開」などを空想して楽しんでいました。もちろんもし先生に当てられたら「いかにも大人が求めていそうな答え」をそつなく返します。
そんな放送教育のドラマの中で、今でも鮮明に記憶しているものがあります。それは道徳ではなく社会科の番組でした。文房具屋さんの店主のおじさんが出前を取るシーンから物語は始まります。おじさんが取ったものは「アジフライ定食」でした。ほくほく顔で箸を手に取るおじさんでしたが、なぜかいきなりアジフライを持ち上げてその下を確認し、途端に表情を曇らせます。そして出前を届けてくれたコック服のお兄ちゃんを呼び止め、抗議します。
「おいおい、なんでキャベツがこんなにちょっぴりなんだよ? あたしゃね、確かにあんたんとこのアジフライは大好きだよ。でもね、キャベツも同じくらい好きなんだよ。このうまいアジフライをたっぷりのキャベツと一緒に食べる、それがいいんじゃないか。それを何だい、キャベツがこんだけしかなかったら、俺はやるせないよ」
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!