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発売目前! 一穂ミチ最新作『光のとこにいてね』第一章 先行無料公開

 2021年からお届けしてきた一穂ミチさんの連載『光のとこにいてね』がついに書籍化! 2022年11月7日(月)に発売になります。
 連載からさらに推敲を重ね、単行本に向けて磨かれた『光のとこにいてね』の第一章をまるまるお届けします!
 小瀧結珠こたきゆず校倉果遠あぜくらかのん、7歳の時に運命の出会いを果たしたふたりの出会いをお楽しみください。


第一章 羽のところ

 月曜はピアノ、火曜はスイミング、木曜日は書道と英会話、金曜日はバレエ。習いごとのない水曜日は家で宿題をしてから通信教育のテキストを進めてピアノのおさらい。小学校に上がってから、私のカレンダーはその繰り返しで埋まっていた。
 ところが二年生になってGWを過ぎた水曜日の放課後、ママが突然「一緒に来なさい」と私を制服のまま車に乗せた。三十分くらい走ってコインパーキングに車を停めると、そこからまた二十分くらい私の手を引いて歩く。駐車場の周りは工場や倉庫みたいな、ずどんと四角い大きな建物が多かったけれど、そのうち景色が縮んだように小さなアパートや一戸建てがぎゅうぎゅう詰まった道に出た。誰かのうちに行くのかな、ときょろきょろしたけれどママは立ち止まらず、とうとう草がしょぼしょぼ生えた空き地(私には読めない漢字と、どこかの電話番号が大きく書かれた看板が立っている)だらけの寂しいところに着いた。目の前には同じかたちの建物がずらっと一列に並び、その周りはフェンスに囲まれている。あれも、家? 壁がぺかぺかした水色なのも、横に数字が書いてあるのも何だか怖い。私のうちは庭のある一戸建てで、クラスの子も大体同じような家に住んでいた。
「ここ、どこ? あれはなに?」
 私が立ち止まったのに苛立いらだったのか、ママは手をぎゅっと握って「『団地』っていうの。ママの知り合いのおうち」と強く手を引っ張った。
「ママがボランティアしてるの知ってるでしょう、きょうもその活動のひとつなの」
 ママはお年寄りの施設や、パパが働いている病院で読み聞かせをしていた。
「本を読んであげるの?」
「そう」
 短く答えたきり、ママは私の顔を見なくなる。これ以上何も言ったり訊いたりしてこないで、というサイン。団地の建物は「1」から「10」までで、「5」と「6」の建物の間にはフェンスで仕切られた砂場と鉄棒と時計だけの小さな公園があり、時計の針は四時前を指していた。じっくり眺める暇もなく、ママに引っ張られて「5」の建物に入る。エレベーターはなく、狭くて薄暗い階段を挟んでふたつの家の玄関ドアが向かい合っていて、表札やかわいいプレートのかかった家もあれば、郵便受けが溢れて花束みたいになった家もあった。薄い青と緑を混ぜたような変な色の扉に、銀色の冷たそうなドアノブ。ママはじぐざぐとした階段を五階まで一気に上り、「504」という札以外には何もないドアの前でしばらく息を整えた。つないだ手はじっとり汗をかいている。ママの指がドアの脇のボタンを押すと、ピンポーン、と甲高かんだかい音が鳴り響いた。うちのインターホンよりずっと大きく耳に刺さるような音で、そこらじゅうから人が出てくるんじゃないかと心配になった。
 ドアノブがきいっと音を立てて回り、扉が細く開くと知らない男の人が顔をのぞかせ、私はびっくりしてママの後ろに隠れた。制服の帽子の丸いつばを、両手でぎゅっとつかむ。
「鍵くらい掛ければ。不用心だよ」
 そんな私に見向きもせず、ママは平然と話しかける。パパやお兄ちゃんと話す時とも、スイミングのコーチや宅配便のおじさんと話す時とも違う、スプーンやナイフにくっついたいちごジャムみたいな声だった。べとっとへばりついて残ってしまう甘さ。
「こんな部屋から何るんだよ」
「何もなくてもよ。どうせまた朝まで飲んでたんでしょ、顔色悪い。昔みたいに救急車で運ばれてもいいの?」
「うるせえな」
 男の人はとても乱暴に答えた。ママにそんなふうに話す人を見たのは初めてで、ぼさぼさの髪や無精ひげや充血した白目、室内から流れ出すむっとこもった空気、何もかもが怖くて足がすくんだ。ママが平気そうにしているのも恐ろしかった。なのにママは私を強引に引っ張り出し「この子」と男の人に差し出すように立たせた。
「ご挨拶しなさい」
 私はか細い声で「小瀧結珠こたきゆずです」と名乗った。男の人は、私を見下ろしてじろじろ眺め「へっ」と鼻で笑う。
「ちっせえ声だな、ちゃんと食わしてんのか」
「人見知りしてるのよ」
 平気で言い返すママはちっとも男の人が怖くなさそうで、「してるのよ」のところは半分「してんのよ」と聞こえた。普段のママが絶対にしない言葉遣い。私の不安はすこしも伝わっていないようだった。
「女の子だから甘やかされてるの。ほら、もう一回やり直して」
 背中を手のひらでぽんと叩かれても、言葉は出てこなかった。男の人は私にそれほど興味がないのか「いいよ別に」とすぐ顔を上げた。あごの下に長く飛び出た数本のひげと鼻の穴が黒い。
「結珠ちゃん」
 突然、男の人が言った。別に話がしたいわけじゃなく、ただ名前を呼んでみただけ。そんな言い方だったから返事はしなかった。
「いっぱいいい思いさせてもらって大きくなりな」
 どう返事をしたらいいのか迷っていると、ママは再び私を後ろに引っ込めてドアノブに手をかけ、扉を大きく開いて室内に一歩踏み出した。驚く私に「結珠」と振り返らず言う。
「ママ、ここでやることがあるから、降りた階段のところで待ってなさい。三十分くらいで行くから。一階よ、動かないでね。公園に時計があったから、時間はわかるでしょ? 誰かに話しかけられても返事しないで。もし、しつこくされたら防犯ブザーを鳴らしなさい」
「ボランティア?」
「そう」
 男の人が「ボランティア?」と私の真似をしてから突然けたたましく笑い出した。どんな顔をしていたのかは、ママの背中で見えなかった。「大きな声出さないで」というママのとがった声の後で、だっしゃん、と聞いたことのない派手な音を立てて扉が閉まると、笑い声はすこし遠くなった。でもまだ聞こえる。ママがかしゃんと鍵を閉めた後も。
 私はてんてんと階段を降り、入り口の集合ポストから一階の部屋に続く数段の段差に座り込んだ。制服を汚したら後でママに叱られるかも、でも着替える時間をくれなかったのはママだし、どこだかもわからない変なところで三十分も立って待つのは、怒られている子みたいで恥ずかしい。あんなおじさんに『100万回生きたねこ』や『赤毛のアン』を読み聞かせてどうするんだろう。
 じっとひざを抱えて座り込んでいると、スカートのポケットに入った卵形の防犯ブザーの重みを感じる。小学校に上がると同時に渡されたもので、ぼやぼやした感じのピンク色は好きじゃない。ひもを引くと大きな音が鳴るらしいけれど、一度も使ったことはなかった。もしも知らない人から声をかけられたら、知らない人がついてきたら、知らない人に触られたら……そんな「もしも」は怖い。でも「もしも」の時、どんな音が鳴っても、ママは私のところに来てくれないかもしれない、と思うのはもっと怖かった。
 目の前の公園には誰もいなかった。ブランコも滑り台もないから、人気がないのかもしれない。耳を澄ませると、どこかで子どもが遊ぶ声、大人がおしゃべりする声、廃品回収を呼びかけるスピーカーの声が聞こえるのに、私がいるあたりからは物音ひとつ聞こえてこなかった。水色の壁に耳をくっつけると硬くて耳たぶがひんやりする。薄暗い階段の、すり減った滑り止めの溝やコンクリートのひび割れを見ているとだんだん寂しい気持ちになり、明るいところに飛び出して行きたくなった。ふわふわと暖かい日なたの空気を吸いたい。ここでじっとしていると、身体が縮んで石になりそう。知らない公園はよその子の縄張りみたいで緊張するけど、今なら誰もいないから、鉄棒の足掛け上がりの練習ができる。大丈夫、ママが来るまでにここに戻ればいい。私はそう自分に言い聞かせ、立ち上がって駆け出した。
 その時だった。向かいの棟のベランダが目に入った。
 五階の、端っこの部屋。手すりから大きく身を乗り出している子どもがいる。私とそんなに年の変わらない女の子に見えた。鉄棒で前回りをする時みたいに、腕を手すりに突っ張って身体を浮かせているのが目に飛び込んできて、私は息を呑んだ。左右を見回しても人の姿はなく、ポケットの防犯ブザーに手が伸びたけれど、実際に鳴らしたら、この静かな団地にどんなふうに響き渡るのか、言いつけを破ってうろちょろしたことがママに知られたらどうなるのかと想像すると、怖くて紐が引けなかった。それに、あの子をびっくりさせちゃったらかえって危ないかも。私は何もできないまま、おそるおそるベランダの下に近づいた。よく見るとその子は、隣の家のベランダを覗くように首だけ横にねじっている。
 何をしようとしているの? 目を離せずにいると、びゅうっと強い風が吹き、女の子の長い髪が鯉のぼりの吹き流しみたいにばさばさと風に流れ、その勢いで空へ飛ばされてしまうんじゃないかとどきどきした。ただ上を向いたままの私に、女の子が気づいた。私を見ている。
 どうしてそんなことをしたのか、後から考えてもわからなかった。はっきりと目が合った瞬間、私は五階のベランダに向かって両手をめいっぱい伸ばした。まるで、落ちておいでとでも言うように。痛いくらい広げた指先のもっと先にいるその子に向かって迷いなく。ぽきりと折れそうな頼りない腕で身体を支えたまま、女の子は私を見下ろしている。
 何かが落っこちてくる感じが、あった。それとも何かが昇っているのか。雪が降ってくるのをじっと見上げている時に、上と下がよくわからなくなってくるみたいに。くらくらしそうでぎゅっと目をつむった途端、おでこにぽつんと何かが当たる。こんなに晴れているのに雨? 目を開けて指でぬぐうと、雨粒とは違うぬるっとした感触があった。指先が赤くなっている。ぱっとベランダを見上げても、そこにはもう誰もいなかった。開けっ放しのサッシの内側でレースのカーテンがそよぎ、さっき聞いたのと同じ、だっしゃんという派手な音がした。やがて、私の前に息を切らした女の子が現れた。腰まである、ぼさぼさの長い髪。大きな布の袋に穴を開けただけ、みたいな、模様もボタンもリボンもない服。足は、大人用のぶかぶかのサンダルを履いていた。
「ごめんね」
 肩を上下させるたび、その子の顎からぽたぽたと赤いものが垂れた。
「びっくりして、鼻血出ちゃった」
 そう言って手の甲でごしごしこすると、鼻の下から口元にかけて口紅をなすりつけたように赤色が広がり、私は慌てて「だめ」と言った。
「こすっちゃだめだよ、えっと……」
果遠かのん
 とその子は言った。
校倉あぜくら果遠」

 わたしの唯一の友達は隣の家の「きみどり」だった。鳥籠で暮らすインコのきみどり。本当の名前は「ピーちゃん」だけど、黄緑色の羽がきれいだから、わたしは勝手に「きみどり」と呼んでいた。
 お隣には女の人がひとりで住んでいて、わたしが保育園や小学校に行く時、帰ってくるお姉さんとよくすれ違った。コンビニ袋からはいつも缶ビールの金色が透けていた。そして、大体晩ごはんの時間にはドアが開き、階段をヒールでこっこっと降りていく足音が響く。朝帰ってきて夜出かける仕事があるのだと、お姉さんを見て知った。わらみたいなばっさばさの金髪で、両耳にじゃらじゃらピアスをつけ、夏になるとちぎれそうに細い肩紐のワンピースを着て、大きく開いた背中には青い孔雀くじやくの絵が描いてあった。わたしはきれいだなあと思っていたけど、お母さんはなぜか「見ちゃだめ」と言う。
 お姉さんは大抵つんとしてわたしに見向きもしないのに、時たま「今から学校?」とか「車に気をつけろよ」なんて声をかけてきて、薄い壁の向こうで、「ピーちゃん」とやさしい声できみどりを呼んでいた。きみどりが「ピーチャン」とか「オハヨウ」とか、片言でしゃべるのが聞こえてくるとほっとした。でも、機嫌が悪いと部屋のものを引っくり返したり、よく遊びにくる男の人と怒鳴り合ったりして、きみどりが鳴くと「うるさい!」と鳥籠ごとベランダに放り出してしまう。きみどりは狭い籠の中で「ピーチャン」「ウルサイ」とばさばさ羽ばたき、わたしは、きみどりがこれ以上ひどい目に遭いませんようにと祈ることしかできなかった。
 でも、お姉さんがそうしてきみどりを邪魔にする時だけ、ベランダの仕切り越しにきみどりと会えた。手すりから身を乗り出し、隣を覗き込んで「きみどり」と小声で話しかけると、きみどりは止まり木で首を傾げ、わたしに向かってちゅぴちゅぴさえずり、「ピーチャン」と答えた。「きみどり」という名前は覚えてくれなかった。お姉さんは時々、部屋の中で「ピーちゃんごめんね」と泣いていた。背中にちいさな孔雀を飼った女の人がひとりぼっちで鳥籠を抱きしめて謝る場面を想像するとかわいそうで、わたしはお姉さんがきみどりに意地悪しても嫌いになれなかった。
 わたしの宝物は、きみどりの羽。ベランダの仕切りの下からするりと滑り込んできた美しい落とし物。団地の子たちは「たまごっち」というおもちゃに夢中な時期もあったけれど、わたしはそれが何をするものかもよく知らなかったので、欲しいともうらやましいとも思わなかった。それよりもふさふさしたきみどりの羽を眺め、自分の手の甲やほっぺたをでてくすぐったさに笑うのが楽しかった。絵本で読んだ羽ペンに憧れ、根本を黒いクレヨンでぐりぐり塗ってカレンダーの裏を引っかいてみたけれどうまくいかなかった。でも、わたしには手紙を書きたい相手なんていなかったので別にいい。学校と団地ときみどりがわたしの世界のすべてだった。
 だからその日も、家に帰ってきて真っ先にベランダを覗き込み、隣に鳥籠を見つけるとすぐにランドセルを放り出して「きみどり」と声をかけた。
「ただいま」
「ピーチャン」
「きみどり、元気?」
「オハヨ、ピーチャ、ピーチャン」
 きみどりにはわたしの言葉がわからない。ただ声に反応して鳴いているだけ。でも、無視したりいやなことを言わない、それで十分だった。
「きみどり、いい子」
 わたしは仕切りぎりぎりのところで手すりに両手をかけてえいっと身体を持ち上げ、きみどりを観察する。背伸びするより、こっちのほうがよく見える。きみどりはちいさなおりの中で羽をぱたぱたさせて、喜んでいるようにも、いやがっているようにも思えた。
「ピーチャン、アイタイ、アイタイヨ」
「誰に?」
「アイタイヨォ」
「きみどり、友達に会いたいの?」
 わたしはきみどりと遊びたいけど、きみどりは鳥同士で遊びたいのかもしれない。きっとこんな鳥籠から出て、外で飛び回りたいんだ。
 わたしは空を見た。強い風で髪の毛がばさばさ流され、これが羽だったらわたしも飛べるのに、と思いながら下を見た時、ぽつんとひとりで立つ人影に気づいた。女の子だった。赤っぽい服と帽子、誰だろう、知らない子だ。
 女の子も、わたしを見ている。そして、わたしに向かってまっすぐに両手を伸ばした。こっちにおいで、と言うように。
 きみどりがさっきより高い声で「アイタイヨォー」と鳴いた。手すりを握る手に、どくどくと血が流れていく音がした。別に何も怖くないし、緊張もしていないのに、どうしてだろう。
 鼻のうんと奥のほうがすーっと冷たくなって、鼻水とは違うさらっとしたものが流れ、あっと思った時には赤い点がいくつか落っこちていった後だった。いけない、鼻血だ。わたしは、驚いたりかーっと腹を立てたりすると、すぐに鼻血を出してしまう。下の子に血がついたかも。大急ぎで部屋の中に戻り、お母さんのサンダルをつっかけて外に出る。早く、早く行かなきゃ、あの子がいなくなっちゃうかも。なぜだか、とても気持ちが焦った。鼻を押さえもせず一段飛ばしで駆け下りると、女の子はまだその場にいて、驚いた顔でわたしを見た。そのおでこに血がついていたので、わたしはまず「ごめんね」と言った。
「びっくりして、鼻血出ちゃった」
 まだ血が止まらない鼻の下を手の甲でこすったら「だめ」と注意された。
「こすっちゃだめだよ、えっと……」
「果遠」
 とわたしは言った。
「校倉果遠」
 女の子はどこの小学校だろう、団地では見かけない制服だった。上着のポケットからティッシュを取り出してわたしに一枚くれた。
「鼻に詰めて」
「うん」
 わたしがティッシュをぎゅうぎゅう丸めて鼻の中に押し込むと、その子は安心したようにうなずき、もう一枚引き出して自分のおでこをきれいに拭いてから「小瀧結珠、七歳、小学二年生です」と大人みたいにきちんと自己紹介した。
「果遠ちゃんは何年生?」
 お母さん以外の人から下の名前で呼ばれたことがほとんどないので、どきどきしながら、わたしも、とちいさな声で返事をする。
「結珠ちゃんとおんなじ」
「そうなんだ」
 よかった、いやな顔をされなかった。名前で呼んでも怒られなかったことにほっとした。
「結珠ちゃん、団地の子じゃないよね? どこから来たの?」
「結構遠い所から車で来た。今はママの用事が終わるまで待ってるの」
 あそこ、と向かいの5号棟を指差す。
「じゃあ、うちで遊ぼ」
 緊張しながら誘ってみると、結珠ちゃんは「ううん」とはっきり首を横に振り、わたしはたちまち自分が恥ずかしくなる。どうせ家に呼んだってジュースも出せないし、ゲームやお人形もないのに。でも結珠ちゃんは、わたしがれしいから断ったわけじゃなさそうだった。
「ママを待ってなきゃいけないから。ほんとは階段のところから動いちゃいけないって」
「いつ来るの?」
「たぶん、あと二十分くらい」
 結珠ちゃんはそわそわして見えた。5号棟の階段なんかすぐそこなのに。わたしはもっと結珠ちゃんと話したかった。
「まだまだあるよ」
「うーん、でもママが動かないでねって言ってたから、行くね。バイバイ」
 もう危ないことしちゃだめだよ、とお姉さんっぽい言い方で注意して、結珠ちゃんはくるっと背中を向けた。そして5号棟の、3号室と4号室の間にある階段の前にちょこんとしゃがみ込む。お行儀のいい仔猫みたいだった。
 わたしは諦めてうちに帰り、洗面台の前で鼻に詰めたティッシュをすぽんと抜いた。鼻の穴に指を突っ込んでぐるっと回すと乾いた血の粉がぱらぱら落ちる。それをぱぱっと手で払い、ベランダに出て結珠ちゃんの姿を探したけれど、ここからだと見えなかった。そのうち気が散って雲や手すりのさびに気を取られてしまった。あと二十分くらい、と結珠ちゃんが言ってから何分経ったんだろう。結珠ちゃんは何にもしないで大人しく待っていられるのかな。
 下の公園を見張ったり、自分の指紋の溝を数えたり、手すりの錆をかりかり引っかいたりして時間をつぶしていると、階段のところから結珠ちゃんが出てきた。女の人と手をつないでいる、あれがきっと結珠ちゃんの「ママ」。手すりが邪魔で、ジャンプして身を乗り出そうとしかけてさっきの結珠ちゃんの注意を思い出し、隙間にぐっと顔を押しつけるだけにした。
 結珠ちゃんのお母さんは、手をつなぐというより、結珠ちゃんの手をぐいぐい引っ張って歩いているように見えた。せかせかついていく結珠ちゃんが転んでしまわないかとはらはらする。結珠ちゃんのお母さんはすこしも後ろを振り返らず、結珠ちゃんが転んでもそのまま引きずっていってしまいそうだった。
 わたしは、さっき言えなかった「バイバイ」を心の中だけで唱えた。すると結珠ちゃんが確かにこっちを見上げた。でもそれもほんの一秒くらいで、すぐに目をらしてせかせかしたまま視界から消えていった。

 帰りの車の中でママは「きょうのことは誰にも話しちゃだめよ」と言い、私は「はい」と頷いた。私が座る後部座席からママの顔は見えず、ルームミラーの中で目がすっと細くなるのだけがわかった。何か言われるのかと緊張したけれど、ママは家に着くまでひと言もしゃべらなかった。それから一日、二日と時間が経つうち、団地に行った時の記憶は遠くなっていった。怖いおじさんも、果遠ちゃんという変わった女の子も、ただの夢だったのかもしれない。私の頭の中だけにあるものを、パン生地みたいに伸ばしたりこねたりしていると、本当のことだったのかどうか自信がなくなってくる。
 だから、翌週の水曜日も団地に連れて行かれて、「また?」と怖くなると同時にちょっとほっとしていた。夢じゃなかったんだ。ママはまた5号棟の五階まで上がってチャイムを鳴らし、中からはこの間のおじさんが顔を覗かせた。
「こんにちは」
 今度はママにかされないよう素早く挨拶をすると、おじさんは唇の端をちょっと持ち上げて「お利口さん」と言った。ちっとも褒めているようには聞こえなかった。やっぱりこの人、好きじゃない。そう思ってうつむくと、つむじにママの声が降ってくる。
「結珠、この前みたいに下で待ってて」
 私は「はい」と応えて足音を立てないように階段を降りた。団地は本当にあった、おじさんも本当にいた。じゃあ来週もここに来なきゃいけないんだろうか。やだなあ、と思った。それなら習いごとを増やされるほうがまし。でも、私はまだ小学二年生だから「家でお留守番してる」と言っても聞いてもらえない。ママと関係なく、自分ひとりで何かを決められるってどんな感じだろう。楽しい? それとも怖い? そんなことを考えながら一階まで降りると、果遠ちゃんが笑顔で立っていた。
「結珠ちゃん」
 軽く息を弾ませ、待ちきれないように両方のかかとを上下させながら私の名前を呼ぶ。この子も夢じゃなかったんだ、とわかって嬉しかった。果遠ちゃんと出会ったことは、ママも知らない、私だけの秘密だったから。果遠ちゃんはちょっと恥ずかしそうに笑って「来るの、見えてた」と5号棟を指差した。
「またベランダにいたの?」
「うん、でも危ないことはしてないよ。結珠ちゃん、前も水曜日に来たよね。来週も水曜日に来る?」
「どうかなあ」
 私たちは、階段のところに並んでしゃがみ込んだ。
「結珠ちゃんのお母さんの用事って何?」
「ボランティアって言ってたけど、よく知らない」
「お母さんに訊かないの?」
「訊けない」
「何で?」
「……怖いもん」
「怒られるの?」
「うーん……」
 ママは私に怒鳴ったりしない。叩いたりごはんをくれなくなるわけでもない。「結珠、違うでしょ」とか「ママを困らせないで」というたったのひと言、長いため息ひとつで私は心臓がばくばくして指がうまく動かせなくなる。「うちのお母さんもすぐ怒るよ」と果遠ちゃんがなぜか明るく言った。
「『うるさい、静かにしなさい!』って。絶対、お母さんの声のほうがうるさいのに」
 けろっとしているから笑ってしまった。果遠ちゃんの長い髪は、しゃがむと地面につきそうだったので「汚れるよ」と教えてあげると、両手でばさっとふたつに分け、肩から前に垂らした。
「結ばないの?」
「やり方がわかんないもん」
 私の髪は、毎朝ママが結ってくれる。ピアノの発表会や、特別なお出かけの時(おじいちゃまとおばあちゃまのところへ行く日、パパがレストランに連れて行ってくれる日)は赤いリボンも。私はママの鏡台に座り、「動かないでね」という言葉で全身を緊張させる。髪がくしに引っかかっても、ピンの先が頭をかすっても、黙って我慢する。
「三つ編みならやってあげるよ、家にゴムない?」
「輪ゴムのこと?」
「輪ゴムは痛いからだめ。髪を縛る用のゴムだよ」
「ない。お母さんも結んでないし」
 果遠ちゃんの髪はあちこちもつれたりはねたりしていて、普段からかしていないみたいだった。うちのママは「結珠が外でお行儀の悪いことをしたら、パパもママも恥ずかしいのよ」と言うけれど、果遠ちゃんのママは気にしないのかな。もしもママが果遠ちゃんを見たら何て言うだろう。すぐに私の手を取って歩き出し、石ころみたいに無視するのかもしれない。想像すると、心がしゅんとなった。ママが果遠ちゃんにつめたくしたら、私は悲しい。だってもう果遠ちゃんを好きになっていたから。さっき、すごく笑ってくれた。この一週間、私を待ち続けてくれたのだと、尻尾しつぽをぴるぴるさせてはしゃぐ仔犬みたいな果遠ちゃんを見た瞬間にわかった。ママやパパやお兄ちゃん、学校の先生や友達は、私と一週間ぶりに会っても、あんなには喜んでくれないだろう。この子が退屈していただけだとしても嬉しかった。
「果遠ちゃん、先週はベランダで何してたの?」
「隣の、きみどりを見てた」
「きみどり?」
「インコ。時々、鳥籠が外に出てるから」
 インコかあ、つまんない、と思った。珍しくもないし、鳥はくちばしや爪が尖っていて痛そうだから苦手だった。
「そんなの、学校にもいるでしょ?」
 私の通う小学校では、インコとうさぎと鶏を飼っている。
「いるけど、あんまり近くで見れないもん」
 果遠ちゃんはすねたように答えた。
「そうなの?」
「飼育委員は高学年しかできないし……わたしが近寄ったら、みんながいやがるから」
 ふたつの膝小僧の間に顔を埋めた果遠ちゃんは、迷子の犬よりしょんぼりして見えた。
「先生に言えば?」
「先生も、わたしのことあんまり好きじゃない。お母さんが給食いらないって言って、わたしだけおにぎり持って行ったりするから」
「それってアレルギーでしょ? 私のクラスにもいるよ、具合が悪くなるから、みんなと同じものは食べられないんだって」
「アレルギー? よくわかんない。お母さんは、『てんかぶつ』も肉も魚も嫌いなんだって。毒だから食べちゃだめって言う」
「じゃあ、ハンバーグもえびフライも食べたことないの?」
「うん」
 学校に持って行くのは『ざっこくまい』っていう茶色いおにぎり(炊き込みごはんとは違うらしい)、おやつはおからのクッキーや豆。果遠ちゃんちって変、と思った。でも、口には出さなかった。私たちはまだ子どもだから、私がママの言うことを聞くように、果遠ちゃんもお母さんの言うことを聞かなくちゃいけない。ケチャップをかけたハンバーグや、タルタルソースたっぷりのえびフライのほうがおいしいなんて余計なことを言ってはいけない。
「果遠ちゃん、三つ編み教えてあげる」
「ほんと?」
 ぱっと私に向き直った果遠ちゃんの目が輝いていたのでほっとした。
「うん、立って」
 私たちの身長はほとんど同じだった。おへその上まである長い髪に手を伸ばすと、果遠ちゃんが不安げに「くさくない?」と尋ねる。
「え? お風呂入ってないの?」
「入ってる! でも、塩とお酢で洗ってるから」
「塩もお酢も料理に使うんだよ、髪の毛はシャンプーとトリートメントでしょ?」
「でも、お母さんが」
 またこの言葉。果遠ちゃんの髪は確かにつんとにおったけれど、私は構わず指を通す。絡まった髪が引っかかっても果遠ちゃんは顔をしかめただけで何も言わなかった。
「こうして、三つに分けて、順番に重ねていくだけ……ほら、簡単でしょ?」
「ほんとだ」
「ずーっと三つ編みにしてたらね、ほどいた時もなみなみになって楽しいんだよ」
 右半分の髪を毛先まで編んであげると、果遠ちゃんは顔の前に持ち上げて「すごーい」と喜んだ。三つ編みなんて全然すごくないのに。果遠ちゃんの笑顔を見ると、私の胸の中には夕立ちの時みたいな雲がむくむく広がった。今にも雨が降りそうな、ねずみ色のじょわじょわした雲。泣きたいような感じだけれど、ピアノがうまく弾けなくて先生に叱られた時の「悲しい」とも、花丸をもらった絵にママが見向きもしなかった時の「悲しい」とも違って、どういう気持ちなのか、なぜこんなふうに思うのかわからなかった。果遠ちゃんは笑っていて、私はいいことをしたはずなのに。
「やってみる。結珠ちゃん、見ててね」
「うん」
 果遠ちゃんの指は迷いながらも一生懸命に動き、残り半分の三つ編みを作っていく。その真剣な様子を見ていると、胸の中の雲がぎゅうっと絞られ、お腹にぽつっと雨が落ちた気がした。果遠ちゃんは三つ編みを完成させると「どう?」というふうに私を見た。でこぼこで、あっちこっちから毛がぴんぴん飛び出していて、へたくそだった。
「じょうずだよ」
 私の噓を果遠ちゃんは素直に受け止め、両手で大切そうに三つ編みを持ち上げる。
 上の階から、だっしゃん、と音がした。両脚が、一気に固い棒みたいに突っ張る。こつこつと階段を降りてくる足音。ママだ。
「果遠ちゃん、あっち行って。ママに見つかっちゃう」
 私は果遠ちゃんの肩を乱暴に押した。とにかくママに見られてはいけない、ということでなぜか頭がいっぱいだった。幸い、果遠ちゃんは言い返したりせず、ぱっと回れ右して駆け出した。ああ、そんなに走ったら、三つ編みがすぐほどけちゃう。自分で追い払ったくせに、胸が痛くなる。果遠ちゃんの背中が遠ざかるほど、ママの規則正しい足音が近づくほど痛みは増し、心臓の鼓動とぴったり重なった。
「結珠、帰るわよ」
「はい、ママ」
 ママは何も知らない。ママが引ったくるように取った私の手が、ついさっき果遠ちゃんの肩を押したことも、果遠ちゃんの髪に触れていたことも。

 次の週の水曜日も、結珠ちゃんは5号棟にやってきた。わたしは毎週会えると信じ込んでいたので、二回目みたいにびっくりはせず、ただものすごく嬉しかった。
 あの日、自分で編んだ三つ編みはすぐほどけちゃったけど、やり方を覚えたから平気。お母さんに「髪を結ぶゴム買って」と頼んだら「そんなめんどくさいことするくらいなら切りなさいよ」と言われた。
 ――いま切ってあげるから来なさい。
 ――やだ!
 せっかく結珠ちゃんが教えてくれたのに、編めなくなっちゃう。お母さんは「どこで余計なこと覚えてくるんだか」とぶつぶつ言っていた。いつものことだから気にしない。お母さんはしょっちゅう怒るけど、別に怖くない。結珠ちゃんは、結珠ちゃんのお母さんが怖いみたい。「ママに見つかっちゃう」とわたしの肩を押した時のおびえた声を思い出すとかわいそうになった。
 三回目に会った結珠ちゃんは、わたしを見るなり「ごめんね」と謝った。
「何で?」
「この前、押しちゃったから」
「全然平気だよ」
 結珠ちゃんはほっとしたように頷いてから、「何、その頭」と吹き出した。
「三つ編みがいくつできるか挑戦してたの」
 鉛筆より細い三つ編みをいくつもぶら下げた髪型を、結珠ちゃんに笑われても恥ずかしい気持ちにはならなかった。三つ編みがほどけるように結珠ちゃんの表情が緩むと、胸の内側がこそばゆくなった。髪の毛の先を三つ編みの中にくるっと巻き込んでしまえば、ゴムがなくてもほどけにくいと教えてもらった。練習しなくちゃ。
 帽子の下から覗く結珠ちゃんの髪は、とてもきれい。三つ編みがきちっとまとめ上げられている。
 昔、2号棟のさゆみちゃんのお母さんが焼いてくれたアップルパイを思い出した。三つ編み模様の生地でふたをされ、オーブンの中からすでにほわほわっといい匂いをさせていた。焼き上がりはつやつやのぴかぴかで、いま思い出してもお腹が鳴り出しそう。でも、わたしは結局パイを食べられなかった。さゆみちゃんのお母さんが切って分けてくれる前にお母さんがやってきたから。
 ――うちの子におかしなものを食べさせないで。
 玄関のドアを開けたまま、お母さんは「しろざとう」や「てんかぶつ」、さらには「よぼうせっしゅ」がいかに「じんたい」にとって「がいあく」なのか、ものすごい勢いでしゃべっていた。そういうものから子どもを守るのは親の責任で、放っておくのは「ぎゃくたい」だとも。さゆみちゃんのお母さんは、うっすらした笑顔で「はい、はい」と何度も頷き、「おばさん、何も知らなくてごめんね」と謝ると「さようなら」とわたしを外に出し、扉を閉めた。わたしよりひとつ年上のさゆみちゃんはずっと困った顔をしていた。
「結珠ちゃん、アップルパイ食べたことある?」
「あるよ。でもチョコのケーキのほうが好き」
「わたしはただのりんごしか食べたことない。ケーキとかも、お母さんが嫌いなんだって」
 結珠ちゃんは首を傾げ、それから「ふうん」と頷いた。
「ママって、嫌いなものが多いよね」
 わたしは、お母さんを「ママ」と呼ぶ子が苦手だった。べたべたした感じがして背中がぞわぞわっとなる。でも結珠ちゃんが口にする「ママ」は、音の区切りがはっきりして、ほかの子の「ママ」がふにゃふにゃした落花生だとしたら、結珠ちゃんのはぱつぱつのぶどうみたいで気持ちよかった。わたしは結珠ちゃんが言う「ママ」が好き。丸い帽子やぴしっとした小学校の制服が似合うところが好き。意地悪を言わなくて、三つ編みを教えてくれて、やさしいところも好き。
 それから、初めて会った時、わたしに向かって両手を伸ばしてくれたところ。あの時の結珠ちゃんの、裂けちゃいそうなほどめいっぱいに開かれた十本の指や真剣な瞳を思い出すたび、わたしは、落っこちてもよかったのかもしれない、と思った。かすり傷ひとつなく結珠ちゃんに受け止めてもらえたのかも――そんなわけがないのに。
「ねえ、結珠ちゃんは、何でベランダの下から手を伸ばしてたの?」
「うーんわかんない、びっくりしたせいかも」
 恥ずかしそうに早口で答え、「果遠ちゃんが落ちてこなくてよかった」と笑った。
「ねえ、公園で遊ぼうよ」
 ブランコも滑り台もないけれど、じめじめした日陰の階段よりましだと思う。結珠ちゃんは下を向いて、また顔を上げて、ぴかぴかの黒い靴のつま先と公園を代わりばんこに見た。
「行きたくない?」
「そうじゃないけど、ママが……」
「最初の時みたいに、ぱっと戻れば平気だよ。時計を見てたら大丈夫」
 わたしは諦めずに言ってみた。結珠ちゃんがそうしてほしがっているような気がした。やがて結珠ちゃんが「うん」とすこし緊張した顔で頷く。
「じゃあ、来週来た時ね」
「今じゃないの?」
 一分でも三分でもいいから、結珠ちゃんと公園で過ごしたかったのでがっかりした。団地の子には仲間外れにされているし、ひとりだとつまらなくて、いつか友達ができたら公園で一緒に遊んでみたいと思っていた。
「心の準備がいるから」
 結珠ちゃんは真面目に言った。「心の準備」が何なのかわたしにはわからない。遠足みたいにプリントやしおりをもらって、持ち物を用意しなきゃいけないの? わからないけど、とにかく結珠ちゃんがわたしのお願いを聞いてくれたことに満足して「来週ね」と指切りげんまんをした。

 次の週、私は五階から階段を降りると、待っていた果遠ちゃんと手をつなぎ、そのまま立ち止まらず公園に駆け込んだ。立ち止まったら、また「来週」って言ってしまうかもしれないから。果遠ちゃんの手は温かくしっとりして、夏でもつめたいママの手と全然違う。私たちは鉄棒の上に並んで座り、大人の目の高さで辺りを見回した。曇っていてちょっと蒸し暑かったけど、誰もいない、誰の「縄張り」でもない公園は、私たちふたりの庭のようで気分がよかった。
「結珠ちゃん、見て」
 果遠ちゃんが、両手で膝の裏を抱えて鉄棒をぐるんぐるん回り出す。放っておくといつまでも続けそうで心配になって「目が回るよ」と止めた。
「平気。結珠ちゃんもやろうよ」
「今はスカートだからだめ。運動する時は、運動する時の服じゃないと」
「結珠ちゃんのママが怒るの?」
「ママもだし、スカートの時にジャンプしたりすると、パパも『はしたないよ』って言う」
「『はしたない』って?」
「んー……行儀が悪いってこと」
「結珠ちゃんは何でも知ってるね」
「そんなことないよ」
 果遠ちゃんは、三つある鉄棒のいちばん高い棒にジャンプしてつかまり、大きく両足を動かして身体全体をぶうんぶうんと前後に振る。そしてぱっと手を放すと勢いよく飛び出し、一メートルくらい先の地面に着地した。果遠ちゃんが動きまくるせいで、ゴムで縛っていないふたつの三つ編みは先っぽからほどけてきている。
「ねえ、お父さんがいるってどんな感じ?」
 私の隣に戻ってくると果遠ちゃんは言った。
「えっ」
「うちには、お父さんいないから」
「何でいないの?」
「知らない。ずっといないよ。お母さんに訊いても教えてくれないし」
「えっ、じゃあパパの名前も顔も知らないの?」
「うん」
 あっさり話す果遠ちゃんが信じられなかった。私なら、そんなこと誰にも話せない。うちのパパも毎日私が寝た後で帰ってくるし、お休みの日もお出かけしていてあまり会えないけれど、「いない」のとは全然違う。理由もわからずパパがいない、なんて、私は恥ずかしいと思ってしまう。でも果遠ちゃんは違う。私が恥ずかしいと思うことも恥ずかしくない、私が知ってることを知らなくて、私が食べているものも食べていなくて、全部違う。でも、全部違うから私は果遠ちゃんが好きなのかな、と思った。全部私と一緒だったら、つまらないかもしれない。
「うちのパパはお医者さんで、忙しいからあんまり家にいないよ。いる時は、学校の授業と習いごとがどこまで進んだのかとか、どんな本を読んだのかとか、そういうことを訊かれるの」
「ふうん。じゃあ、兄弟はいる?」
「お兄ちゃんがいる。今、高校三年生で受験があるから、いつも部屋で勉強してる」
「学校じゃないところでも勉強するなんて偉いねえ」
 本当は、受験生になる前から、お兄ちゃんはほとんど部屋にいた。たまに廊下で会った時に私が「おはよう」とか「おかえり」を言っても無視して行ってしまう。ママはお兄ちゃんを「健人けんとさん」と呼び、私にいつも「健人さんの邪魔にならないようにね」と言った。お兄ちゃんが靴下をばらばらに脱ぎっぱなしにしても、ごはんを食べた後の食器を片づけなくても、怒らない。
「じゃあ、お父さんとお兄ちゃんがいてもあんまり楽しくないんだね」
「そんなことないよ」
 私はむっとした。
「そうかなあ」
「だって、ごはんが食べられるのも、学校に通えるのもパパが働いてくれてるからだし、お兄ちゃんはすごく勉強ができるし……」
「わたしもごはん食べて学校に通ってるよ」
「果遠ちゃんとは違うもん」
 思わず強く言い返して、鉄棒から飛び降りた。顔が熱かった。私は、腹を立てていた。果遠ちゃんと自分がおんなじみたいに言われていやだった。シャンプーもなくて、ハンバーグやケーキも食べられない家の子にはなりたくない。でもそれは、とてもつめたい考えだ。どうしよう。
「結珠ちゃん?」
 私がぎゅっと両手を握っていると、果遠ちゃんが私の顔を覗き込んで「ごめんね」と言った。
「怒った? ごめんね、もう言わないから、怒らないで」
 ごめんねって言わなきゃいけないのは私のほう、でも、自分が思っていたことをそのまま伝えたら果遠ちゃんはきっといやな気持ちになる。だから、首を横に振って「怒ってないよ」とだけ答えた。
「ほんと?」
「ほんと。ねえ、果遠ちゃん、さっきの、手を放して遠くに飛ぶの、もう一回やって」
「いいよ!」
 果遠ちゃんは嬉しそうに高い鉄棒に飛びつき、さっきより勢いよく身体を揺らし始めた。ぶうん、ぶうん、ほどけかけの三つ編みが揺れ、全体的にうっすら汚れたスニーカーのつま先は飛行機雲にだって届きそうだった。私は果遠ちゃんを見る、空を見る、5号棟を見る。ママがいる、504のベランダを見る。ごみ袋がぎっしり積まれていて不安になる。
「結珠ちゃん、行くよ、見てて!」
 果遠ちゃんが大きな声を上げ、手を放す。果遠ちゃんの身体は一回転しそうなほど高いところにあったので私ははっとして「危ない」と言いかけたけれど、もう遅い。果遠ちゃんはばんざいのポーズで空中に放り出された。一瞬、時間が止まったような気がした。雲の間から太陽の光がまぶしく射し、影になった果遠ちゃんの、ゆるんだ三つ編みの毛先まではっきりと見えた。でも次の瞬間にはさっきよりも遠くにずざざっと着地し、私を見て得意そうに笑った。
「すごいね」
 私は言った。
「果遠ちゃんは、すごいよ」
 胸の中のもやもやは消えなくても、果遠ちゃんのおかげでちいさな穴が開き、そこから光がこぼれた気がした。またすぐにふさがってしまうかもしれないけど、大きく飛んだ果遠ちゃんの姿、今の嬉しそうな笑顔を忘れないでいようと思った。

 結珠ちゃんはわたしに怒っちゃったみたい。すぐに「怒ってないよ」と言ってくれたけど、怖い顔をしていた。何がいけなかったのかわからないのは、わたしが馬鹿なせいだと思う。お母さんにもしょっちゅう「バカじゃないの」と怒られるし、クラスの子たちや団地の子たちにも「バーカ」と言われるから。もう慣れたけど、結珠ちゃんに嫌われて遊べなくなるのは悲しいから、その次会った時に「馬鹿だから、また結珠ちゃんにいやなこと言ったらごめんね」と言った。結珠ちゃんの眉毛と眉毛の間にぐっとしわが寄る。
「何でそんなこと言うの? 果遠ちゃんは馬鹿じゃない」
「でも、みんな言うもん」
「私は言わないよ。果遠ちゃんは三つ編みだってすぐじょうずになったもん。すっごくきれいに編めてるよ」
 結珠ちゃんに触れられると、わたしの髪はつやつやといいものみたいに見えた。きっとわたしが嬉しいから、髪の毛も一本ずつ喜んでるんだ。わたしは勇気を出して打ち明けた。
「あのね、笑わないでね……わたし、時計読めないの」
「え? あれが?」
 結珠ちゃんは公園に立っている時計を指差す。
「うん、あ、数字はわかるよ! 三時と六時と九時も何となくわかるけど、他がわからないの」
 一年生の時、算数の授業中に校庭をぼーっと見ていたら、いつの間にか先生の説明が終わっていた。「みんなわかったかな?」という問いかけに、周りの子たちは「はーい」と大きな声で答え、「三歳の時から知ってるし」と自慢する子もいた。わたしは「わかりません」と言えなかった。
「そんなの私が教えてあげる」
 結珠ちゃんは木が植えられているところから小枝を拾ってきて、地面に数字を書きながらわたしに教えてくれた。一日は二十四時間、一時間は六十分で一分は六十秒、時計は二本の針が「12」を指すところから一日が始まって、二周する。短い針が「時」で、長い針が「分」……。先生の話は退屈だったのに、結珠ちゃんの声はするすると耳に入ってきて、もつれて団子になっていた「わからない」の糸をあっという間にほどいてくれた。
「果遠ちゃん、わかった?」
「うん」
「じゃあ、今は何時?」
 わたしは、時計を見上げてどきどきしながら答える。
「三時四十分」
「はい、よくできました」
 結珠ちゃんが本物の先生みたいに褒めてくれた。
「じゃあ、あと五分経ったら、長い針はどこ?」
「9のところ」
「そう、果遠ちゃん、もう読めてるよ。馬鹿じゃないでしょ?」
 わたしは返事もせず、じっと時計を見つめていた。わたしは時計が読める。「気がついたら動いてる」ものだった、時計の針の意味がもうわかる! もしかしたら自分は馬鹿じゃないのかもしれない。ぱあっと目の前がひらけて、黒く尖ってつめたい感じがしていた二本の針が、急にやさしいものに感じられた。だっていつも公園に立って、休まず時間を教えてくれるから。
「やった! やった!」
 嬉しくてぴょんぴょん跳ねると結珠ちゃんが「しっ!」と人差し指を立てた。
「大声出したら響くでしょ」
 わたしは動くのをやめ、ひそひそ声で「ありがとう結珠ちゃん」と言った。今度は「ちいさすぎて聞こえないよ」と結珠ちゃんが笑って顔を寄せる。結珠ちゃんからは、よその家の匂いがした。わたしは、さっき髪に触ってもらったみたいに、結珠ちゃんの髪に触ってみたくなった。結珠ちゃんも気持ちいいと思ってくれるかもしれない。
「結珠ちゃん、三つ編みしていい?」
 耳の近くで聞くと、結珠ちゃんはぱっと離れて手で耳を押さえた。
「え?」
「わたし、結珠ちゃんに三つ編みしてみたい」
「それはだめ」
「でも、わたし、じょうずになったんでしょ?」
「ゴムとかピンも使ってるから、果遠ちゃんにはできないよ。ほどいたらすぐママにばれちゃう」
 結珠ちゃんの言い方はびしっとしていて、何回頼んでも無駄なんだろうなとわかった。葉っぱの模様のワッペンがついた帽子の下から覗く結珠ちゃんの後ろ頭をそっと見てみると、三つ編みがたくさんのピンで押さえられていて、結珠ちゃんのお母さんは一本の髪の毛もはみ出させたくないんだな、と思った。

 団地の公園は私たちだけの秘密基地になった。全然秘密じゃないけど、誰にも邪魔されない内緒の遊び場。明るい午後の陽射しを、果遠ちゃんと一緒に浴びるのはとても気持ちがいい。鉄棒を触って金属くさくなった手のひらをかいだり、芝生でアリの巣を探したり、雑草をむしって縦にぴーっと裂いたり。ゲーム機やおやつがなくても楽しかった。ゆっくりと流れていく雲、忙しそうに首を振って歩く鳩、砂場の砂にたまに混じっているきらきらの粒。ふたりなら、何を見てもわくわくした。どんどん昼間が長くなっていくこの季節が、私は好き。
 果遠ちゃんのママは、スーパーで働いているらしい。
「『しぜんはしょくひん』っていうのばっかり置いてあって、うちのごはんは、全部そこで買ってくるやつ。茶色っぽいのばっかりなんだけど、それは『ちゃくしょくりょう』を使ってない証拠なんだって」
「じゃあ、学校から帰って来ても家に誰もいないの?」
「うん」
「習いごとは?」
「してない」
「いつも学校が終わったら、家で何してるの?」
「カレンダーに絵を描いてるよ」
 果遠ちゃんは続ける。
「毎日べりってがすの、わたしの役目だから。まず、数字が書いてある方に描くでしょ、いっぱいになったら裏返すの、そしたらすっごく真っ白な感じがして嬉しい」
 月の初めのほうが白い部分が多くて好き、休みの日は数字が赤くてきれいだから楽しい、たまに我慢して、二、三枚溜めて一気に落書きするとぜいたくしたって思う……果遠ちゃんの話は、全然わからないけれど面白い。ママっていうのはいつも家にいて、習いごとの送り迎えをし、宿題や連絡帳や翌日の時間割をチェックするものだと思っていた。私は自分のことを、スーパーのお菓子コーナーにある詰め放題の袋みたいに感じていた。ママはそこに自分が選んだものをぱんぱんに詰め込む。チャックの口さえ閉まれば、ぎちぎちのでこぼこではち切れそうになっても構わない、ちいさな透明の袋。
 でも、ママも知らない、果遠ちゃんという内緒の友達が今の私にはいる。ママの中にはママの秘密、私の中には私の秘密。卵みたいに抱いているのは怖くて、同時にわくわくした。ブランコをぐんぐん漕いで自分の身体が高く高く持ち上げられていく時の感覚に似ている。ここにブランコがあったらいいのに。
「いいなあ」
 果遠ちゃんが、私の制服のスカートを指先でつまんでつぶやく。
「わたしもこんな服が着てみたい。結珠ちゃんの学校に通ったらみんなもらえるの?」
「うん」
 頷いたけど制服はただじゃないし、私が幼稚園に入る時、パパとママと三人で面接を受けた記憶がうっすらある。果遠ちゃんちにはパパがいないし、お金もなさそう。でも「無理だよ」とは言えなかったので、代わりに「上の服だけ着てみる?」と尋ねた。
「ううん、いい」
 果遠ちゃんの、三つ編みのしっぽが揺れる。きょうは後ろで一本だけの太い編み方だった。果遠ちゃんの三つ編みがどんどん上達していくのを見ると嬉しい。
「だってそれ、『かせん』かもしれないでしょ」
「カセンって何?」
「わかんないけど、お母さん『かせん』嫌いだから。パンツも靴下も、全部『オーガニックコットン』っていうのじゃないとだめなんだって」
「何でだめなの?」
「いろいろ言われたけど難しくてわかんなかった」
 おなじみの、「嫌い」。私と果遠ちゃんは全然違って、よく似ていた。意味がわかるルールもわからないルールも、とにかくママが決めたことを守らなきゃいけなくて、ママの好きなものじゃなくて嫌いなものにばかり詳しいところ。

 結珠ちゃんのお母さんがやっている「ボランティア」というのが何なのか、何度団地に来ても結珠ちゃんにはわからないらしかった。
 ――504号室に行ったら知らないおじさんがいて、毎回あいさつだけするんだけど、何か怖いし、嫌い。おじさん、私のことちらっと見るだけだし。何で会わなきゃいけないのかな。
 ――結珠ちゃんのお母さんに訊いてみたら?
 ――前も言ったよ、そんなのできない。
 ――何で?
 ――できないからできないの。
 わたしの話なんか聞いてもくれないのは、うちのお母さんもそう。すぐ怒るし、怒り方がきつい時もある。でも、結珠ちゃんが結珠ちゃんのお母さんに感じている「怖い」は、わたしとは違うのかもしれない。
 うちのお母さんなら「ボランティア」知ってるかな。夜、豆と大根を煮たおかずで雑穀米を食べている時に訊いてみた。
「5号棟の504号室に住んでるおじさんのこと知ってる?」
 お母さんはテーブルの向かいから、じろっとわたしを見る。
「何でそんなこと訊くの」
「何となく」
「そのおじさんに何かされたの?」
「ううん、何となく気になっただけ」
 わたしは慌てて頭をぶんぶん振った。
「近づかないでよ。あいつ、アル中っぽいから。いっつも酒くさい息ぷんぷんさせてふらふら歩いてる。わけわかんないことわめいてる時もあるし」
「アル中って何?」
「知らなくていい。とにかく、昼間ひとりで家にいるなんて絶対言っちゃだめだからね」
「ねえ、じゃあ、ボランティアって何?」
「偽善者の暇つぶし」
 お母さんは面倒くさそうに答えた。
「『ぎぜんしゃ』って何?」
「うるさいなあ、大人になったらわかるからさっさとお風呂入んなさいよ」
 うちのお風呂は、お湯と水の蛇口を両方ひねって温度を確かめてから溜めないといけない。放っておくと溢れさせてしまうし、ぐずぐず入らないでいるとぬるくなってしまう。結珠ちゃんの家のお風呂はボタンひとつで勝手に溜まって止まって、準備ができたら音楽が鳴って、冷めてもまた温めてくれるから、いつでもちょうどいいお湯にかれると教えてくれた。しかも、足をいっぱいに伸ばしても届かないくらい湯船が広くて、シャワーは強いのとか弱いのとか霧みたいにもわっとしたのとか、いろいろ選べるらしい。結珠ちゃんちって魔法の家みたい、と狭くて深い湯船に座り込んで思った。結珠ちゃんは魔法みたいな家に住んでるから、結珠ちゃんのお母さんがしているという「ボランティア」も、呪文っぽく聞こえる。
 ぎぜんしゃのひまつぶし、とさっきのお母さんの言い方を真似してすこし笑う。言葉の意味はわからなくても、意地悪を言ったのはわかる。ちょっと口元をゆがめて意地悪を言う時のお母さんがいちばん美人だった。たぶん三歳か四歳の頃、「何でうちにはお父さんがいないの?」と訊いたら、「ろくでなしだから」と答えたお母さんの表情が今でも好き。
 よそのお母さんたちみたいにお化粧したり、髪型にあれこれ気を配ったりしないのに、お母さんはきれいだった。そばかすが多いし、髪なんかいつも自分で適当にざくざく切るだけ。それでも団地の男の人がお母さんをちらちら気にしているのをわたしは知っていた。団地の中をうろうろしていたら、いろんなうわさ話や悪口が耳に入ってくる。わたしに聞かれているかどうかは、誰も気にしていないみたいだった。きっとわたしを馬鹿だと思っているから。女の人たちが、校倉さんは頭がおかしいとか団地の行事をいっさい手伝わないとか言い合うと、男の人は妙ににやにやしながらお母さんをかばう。
 ――悪い人じゃないと思うんだけどなあ。
 ――女手ひとつでお子さん育てて、いろいろ大変なんだよ。
 中には、お母さんが働くスーパーまでわざわざ行って、「ゆうきのうほう」の高いお米を買ったせいで夫婦げんかになった人もいたらしい。大人なのに、そんなことをしたらますますお母さんがひとりぼっちになるだけだって、どうしてわからないんだろう。「ここにはいやな人しかいない」というのがお母さんの口癖で、時々お風呂で泣いていることもあった。誰のことも好きじゃなくて悲しいのかもしれない。
 大人は怖いか気持ち悪いかだし、男の子は「くさい」と言って消しゴムのかすを投げつけてくるし、女の子はわたしからぎりぎり見える場所でひそひそと笑い合っている。みんな嫌いだった。お母さんのことはまあまあ好き。お母さんがいなければごはんも食べられないしお風呂にも入れないから、好きでいるほうが楽。
 わたしが本当に、心から大好きなのはきみどりと結珠ちゃんだけ、とお湯の中でわかめみたいに揺れる自分の髪を見ながら考えた。きみどりの前には「ちゃいろ」がいたけど今はいない。
 わたしに両手を広げてくれた結珠ちゃん。週に一度、短い間だけおしゃべりできる結珠ちゃん。「ママ」が怖い結珠ちゃん。結珠ちゃんともっと一緒にいたい。結珠ちゃんとおんなじ小学校に通えたらいいのに。でも、そうしたら結珠ちゃんも他の子たちみたいにわたしの悪口を言うのかもしれない。わたしを馬鹿だと思うかもしれない。わたしは結珠ちゃんに分けてあげられるようなおいしいおやつも持っていないし、結珠ちゃんが三つ編みや時計の読み方を教えてくれたみたいに、何かを教えてあげることもできない。結珠ちゃんはすぐわたしに飽きて遊んでくれなくなるかもしれない。
 想像したら、急に悲しくなって喉の奥の奥から涙がぐぐっとやってきてこぼれた。すぐ湯船に落ちて混ざってしまう。今まで、何を言われても何をされても、泣いたことなんてなかった。なのにどうしてだろう、結珠ちゃんに嫌われたらと思うだけで全部おしまいになる気がする。一年生の時「一九九九年になったら地球が滅亡するんだって!」とクラスの男子が騒いで女子の何人かが泣いて、先生が「そんなことはありません」と怒った。わたしは、先のことなんか誰にもわからないのにと思っただけだった。でも、今はわかる。結珠ちゃんがいなくなったら、わたしはきっと「めつぼう」してしまう。鼻水をすすっていると、天井にくっついた水滴が首の後ろにぽつっと落ちてきて、ひゃっと首を縮めた。
「果遠、いつまで入ってんの!」
 お母さんの苛立った声に、わたしは慌てて「いま出るよ」と返事した。涙が止まってよかった。

「わたし、504に行ってみようかな」
 公園のフェンスにもたれ、果遠ちゃんがいきなりそんなことを言い出したので、私は思わず果遠ちゃんの手をぎゅっと摑んだ。
「何で」
「だって、気になるもん。あ、今じゃないよ、結珠ちゃんがこない日に、こっそり偵察に行く」
 偵察、と言う時、ちょっと誇らしげだった。最近覚えたのかもしれない、でもそんなの今はどうでもいい。
「だめ」
 私は強い口調で言った。
「ピンポン押したりしないよ、ちょっと外から見に行くだけ」
「だめだってば」
 私は両手で果遠ちゃんの手を握りしめる。止めても行ってしまいそうで不安だった。隣のインコを覗くためにベランダの手すりから身を乗り出すような子だから。鉄棒からぱっと手を放せる子だから。ブランコの、いちばん高い地点から平気で飛び降りてしまいそうな怖さが果遠ちゃんにはあった。
「大丈夫だよ」
「だめって言ってるでしょ」
 もし果遠ちゃんがあのおじさんに会ったら、私のちいさな秘密がママにばれてしまうかもしれない。ううん、そうじゃない。おじさんの濁った目や乱暴な声に果遠ちゃんを触れさせたくなかった。お酢でも石けんでも落とせない汚れを果遠ちゃんにつけてしまう気がして、許せなかった。
「やめてよ」
 下のまぶたがじわっと熱くなるのを感じた。私が涙を浮かべると果遠ちゃんは慌てて「ごめんね」と繰り返す。
「行かない、行かないから」
「ほんとに?」
「うん」
 私はやっと果遠ちゃんの手を放し、ハンカチで目を押さえる。涙の波が収まると今度は急に恥ずかしくなり、ごまかすために両手で見えないピアノを弾いた。
「何やってるの?」
「ピアノの運指。おととい習ったところのおさらい」
「両手の指がばらばらに動かせるなんてすごいね」
 さっきのことなんてもう忘れたように果遠ちゃんがきらきらした目で手元を見つめる。「こんなの大したことないよ」と私は背中でフェンスをぎしぎし言わせた。
「そういえば、カノン、っていう曲があるんだよ」
 発表会で上級生が弾いていた、パッヘルベルのカノン。浅い水の中に裸足でそうっと踏み出すような出だしが好きだった。
「わたしの名前と一緒? ほんと? どんなの?」
 ハミングしてみたけれど、果遠ちゃんは首を傾げた。
「よくわかんない。結珠ちゃん弾けるの?」
「全然。まだ黄バイエルに入ったとこだもん」
「黄バイエルって?」
「ピアノの教科書みたいな本のことだよ」
 もう、おさらいでも何でもなく、でたらめに泳がせているだけの私の指を、果遠ちゃんはまだまぶしそうに見つめていた。今ここに鍵盤があったら、ひどい不協和音で私の噓はすぐにばれる。
「練習して弾けるようになったら、果遠ちゃんの前で弾いてあげるね」
 なのについ、噓に噓を重ねた。果遠ちゃんの家にピアノはないし、うちに呼べるはずがないし、通っている学校も違う。いつか私がカノンを覚えたって、果遠ちゃんに聴かせてあげられる日は来ない。
 あてのない約束なら、学校の友達ともする。いつかお泊まりしようね、とか、一緒にテーマパークに行こうね、とか。本当にならなくても、言い合うだけで楽しい。お店に並ぶケーキを眺めるのと同じだった。でも今、果遠ちゃんに噓をついた瞬間、薄い紙や草で指を切った時のような痛みが走った。切り口は目に見えないくらい細くてばんそうこうもいらないのに、いつまでもしくしく痛がゆい。
「うん」
 弾いてね、と果遠ちゃんがにこにこするので、いい加減な出まかせを言ったことを後悔した。ぎゅっと指を折りたたむと汗ばんで気持ち悪い。六月ももうすぐ終わる。私の制服は薄い生地の夏用に変わったけれど、果遠ちゃんの服は袖の長さしか違わない。七月になったら一学期が終わって夏休みがくる。休みの間もママはここに通うのかな、とふと思った。

 結珠ちゃんにはああ言ったけれど、やっぱり、5号棟の504が気になって仕方がなかった。結珠ちゃんがどうしてあんなに必死で止めたのかわからなかったし、504のおじさんについて何かわかったら、結珠ちゃんだって喜んでくれるはず、と思った。お昼休みに学校の図書室で読んだ探偵の本がとても面白くて(特に「偵察ていさつ」という大人っぽい言葉が気に入った)、自分でも冒険をしてみたかったし、結珠ちゃんのために何かがしたかった。
 結珠ちゃんにすぐ話せるよう、偵察は火曜日にした。何もわからなければ、黙っておく。わたしは学校から帰ると、たまたま隣のベランダにいたきみどりにだけ「行ってくるね」と声をかけて家を出た。首から麻紐でぶら下げた家の鍵が、階段を降りるたびに弾み、肌にぺたりとくっつく。最初はひやっとして気持ちいいのに、あっという間に体温でぬるくなった。
 一階まで降りると、辺りに人がいないのを確かめてから、公園の横を一気にダッシュして5号棟の入り口に駆け込んだ。まず集合ポストを調べたけれど、「504」にはネームプレートがなく、おじさんの名前はわからなかった。団地は各階が1号室から6号室まであって、1と2、3と4、5と6の部屋がそれぞれ階段を挟んだ隣同士になっている。
 わたしは足音を立てないよう五階まで上がった。504のドアの前にも、やっぱり表札はない。そっと鉄の扉に片耳をくっつける。硬くて冷たい感触と、三つ編みにしていない髪の毛がざりっとこすれる音。他には何も感じない。わたしはさらに偵察を続けた。ドアの下のほうにある郵便受けをそろりと押すと、ぱこ、とちいさな音がして細く開き、部屋の中の空気が漏れてくる。気のせいかもしれないけれど、どろっと生ぬるくて、ちょっとくさい。それから、気のせいじゃない、声。
 女の人が泣いている声。ううん、泣いているような声。わたしは、きみどりを飼っているお姉さんの部屋からそれを聞くことがあった。ただ泣いているのとは違って、声が高くなったり低くなったりで、時々うなっているようにも聞こえる。その声に気づくと、わたしの口の中にはいつもつばがじゅわっと湧き、なぜか動物園に似たにおいを感じる――今みたいに。お姉さんのその声は、朝でも昼間でも晩でも関係なく、お母さんはいつも壁をにらみつけて「最悪」といやそうにつぶやいた。
 その、「最悪」の声が、504のおじさんの家からする。それも、お姉さんの部屋から聞こえるのよりもずっとはっきりと大きく。わたしは片手で郵便受けの蓋を押さえてしゃがんだまま動けなくなる。怖い、聞きたくない、心臓が膨らんでしぼんでめちゃくちゃに鳴りまくり、身体の外にまで聞こえてしまいそうで焦った。わたしの心臓の音と競い合うように声はどんどん大きくなり、悲鳴に近くなる。怖い。ぎゅっと目をつむると、急にぱたっと声が止んだ。今しかない。逃げなきゃ。
 わたしはぱっと立ち上がり、階段を駆け下り、また公園を横目に6号棟に駆け込み、駆け上がって自分の家を目指した。汗をかいているのに、すごく寒い日みたいに手が思うように動かなくてなかなか鍵を開けられず、その場でじたばた足踏みした。身体全部を使って変なダンスを踊っているみたいだった。やっと家の中に入り、鍵とチェーンをかけると一気に膝ががくがくして、お母さんのサンダルの上にへたり込んだ。おじさんが気づいて追いかけてきたらどうしよう。ベランダからわたしを見張っていたらどうしよう。汗で背中に張りつく服が気持ち悪い。
 きょうは火曜日、結珠ちゃんの来る日じゃないから、部屋の中にいたのは結珠ちゃんのお母さんじゃない。隣のお姉さんかもしれない。ひょっとすると、結珠ちゃんのお母さんも、毎週水曜日、あの部屋で「最悪」の声を出しているのかもしれない。わたしは、結珠ちゃんがとてもくろぐろとしたものに飲み込まれてしまうんじゃないかと怖くなった。結珠ちゃんは止めてくれていたのに、勝手に偵察に行ったせいで、何か悪いことが起きるような気がして心細かった。
 そして悪いことはすぐに起こった。どうやってパジャマに着替えたのか覚えていないけれど、ごはんもお風呂も無視してふとんにもぐっていたわたしは、翌朝熱を出した。お母さんは「これ、高いんだからね」と言いながらわたしの額にくさい軟膏なんこうをたっぷり塗りつけ、謎の粉をお湯で溶いてはちみつを混ぜた土みたいな味のドリンクを飲ませてから仕事に出かけた。変な軟膏を買うお金があるんなら、果物やアイスを買ってくれたらいいのに。わたしは頭の痛みと熱でぼんやりして、寝汗をびっしょりかいては起き、のろのろと台所に行って水道水をがぶがぶ飲んだ。口や喉を通り過ぎる水は驚くほど甘くておいしかった。きょうは水曜だから、結珠ちゃんを待ってなくちゃ。外に出られなくても、せめてベランダから手を振るつもりだったのに、お昼に冷蔵庫のおかゆ(いつもの雑穀米をどろどろに煮たもの)を食べたらすぐ寝てしまい、次に気がついた時には、おでこにつめたい手のひらがのっかっていた。
「うん、下がってる。薬が効いたね」
 ああ、お母さんが帰ってきた。夜になっちゃった。「ごはん食べる?」と訊かれたけど、結珠ちゃんにあいさつもできなくてがっかりしていたので「いらない」と答え、また眠った。夢の中でも結珠ちゃんに会えなかった。
 お腹が空いて、朝早く目覚めた。枕元の時計はまだ六時前だった。わたしはパジャマのままこっそり外に出て、いつもの公園に向かう。もう外は明るく、新聞配達の人がぎっしり新聞を積んだ自転車を漕いで遠ざかっていくのが見えた。いるわけがないのはわかっていたけれど、それを自分の目で確かめなくちゃ、来週に気持ちを切り替えられない。軽く息を切らせてたどり着き、誰もいない公園をパトロールする。鉄棒、砂場、何本かの木。この時間はまだ涼しく、太陽の光は昼間より透明でやわらかい。何度か深呼吸すると、身体の中に残っていた熱のかけらがすっかり出て行った気がした。
 時計の下に行った時、白詰草シロツメクサの花束が地面に置いてあるのに気づいた。五、六本を茎でじょうずに束ねて結んである。結珠ちゃんだ、と思った。本当は違うかもしれない、でも、結珠ちゃんがここに来て、きょろきょろとわたしを待ち、うちのベランダをちらちら見上げながら花を摘む様子が一瞬で頭の中に浮かぶ。きっとそうだ、これは、結珠ちゃんがわたしのために置いてくれた花だ。
 ぐぐーっとお腹が鳴り、わたしは白詰草を口の中に入れた。渋くてすっぱい汁が細い茎から染み出して唾がじわわっと溢れる。全身がしびしびしてぶるっと首や肩を揺らすわたしを、時計だけが見下ろしていた。

 その日は、変に明るい曇り空だった。太陽は見えないけれど、白い雲の向こうに光が透けて、どんよりとはしていない。いつもどおり団地に向かう車のジュニアシートで、私はすこし緊張していた。先週、果遠ちゃんに会えなかったから。
「偵察」に行くという果遠ちゃんにきつく「だめ」って言ったから? 無理に決まってるピアノの話なんかしたから? 果遠ちゃんは怒って、もう私とは遊びたくないと思ったのかもしれない。ひとりであれこれ考えたけど、果遠ちゃんの家まで走って行ってチャイムを鳴らすことはできなかった。十分とかからないのに、その場を離れるのが怖かった。私は何ていくじなしなんだろう。
 せめて果遠ちゃんに何か届けたくて、公園に生えていた白詰草を急いで摘むと、束ねて茎でまとめ、時計のところに置いた。果遠ちゃんが気づいてくれますように。私に怒っていませんように。そんなふうに祈りながらひとりで過ごす三十分は長く退屈だった。果遠ちゃんがいないと寂しい。つまらない。
 きょうこそ会えるかなという期待と、きょうも会えなかったらどうしようという不安のせいで、つい足をぷらぷらさせてしまい、すかさずママが「お行儀の悪いことしないで」と注意する。
 だから、6号棟のベランダに果遠ちゃんの姿が見えた瞬間、大きく手を振ってしまいそうなほど嬉しかった。もちろん、ママと一緒だから我慢したけど、叶うなら大声で「果遠ちゃーん」と叫びたかった。果遠ちゃん、白詰草見てくれた? 先週は何してた? 白詰草でかんむり編めるの知ってる? 教えてあげるよ。
 ママと別れて、話すことをいくつも胸の中で温めながら階段を降り、二週間ぶりに近くで見た果遠ちゃんはでも、いつもと様子が違っていた。
「どうしたの?」
 身体の横でこぶしをぎゅっと握り、肩をちいさく上下させて泣いている。大粒の涙が次から次へと真っ赤なほっぺたをつるつる滑り落ちて、顎の先でひとつになる。ガラスについた雨粒みたいな果遠ちゃんの涙を、きれいだと思った。何でもけろっと話していた果遠ちゃんがこんなふうに泣くなんて。
「果遠ちゃん」
「死んじゃった」
 果遠ちゃんは食いしばった前歯の隙間から絞り出すように言った。
「きみどりが、死んじゃった……」
「インコ? 何で?」
「わかんない。さっき覗いたら、鳥籠の中で転がって動かなかった……呼んでも鳴かないし」
「そっか……」
 何て声をかけたらいいのかわからなかった。自分の家で飼ってたわけじゃないんでしょ、と思った。先週会えなかったぶん、きょうは楽しいことをいっぱいしたかったのに。でも果遠ちゃんはしゃくり上げ、蛇口を開けたままの水道みたいに涙を流し続けた。そんなに泣いたら、まつげや目玉まで流れ落ちちゃいそう。私がハンカチを差し出しても受け取ろうとせず、手のひらでごしごし目の周りをこする。
「ねえ、ハンカチ使って」
「いい……きみどりを、埋めたい」
「え?」
「公園に埋めてあげたい。木が生えてるあたりなら、土もやわらかいから」
「よその家のペットでしょ? お願いするの?」
「たぶん無理」
 果遠ちゃんは言った。
「だから、ベランダ越えて、きみどりを持ってくる」
「え、だめだよ、そんなの」
 死んだ鳥でも、勝手に持ち出したら泥棒になるのかな? わからないけれど、怒られるだろうし、第一危ない。
「果遠ちゃん、やめよう。絶対だめ」
 肩を軽く揺さぶっても、果遠ちゃんは唇を嚙みしめて首を横に振る。涙につやつや濡れた瞳が光っている。砂場の砂の中にあるきらきらの粒が果遠ちゃんの目に飛び込んだみたいだった。
「きみどりの前には、ちゃいろがいたの」
「ちゃいろ?」
「ハムスターのちゃいろ。やっぱり、ある日死んでて、どうするんだろうって心配してたら、次の日にお姉さんがベランダに出てくる音がしたの。それで、わたしもベランダで耳を澄ませてたら、お姉さん、はーってため息ついて、ケースの蓋をかしゃんって開けて、部屋の中に戻って……トイレの水を流す音がした」
 私の小学校では、飼育小屋の動物や教室の水槽で飼っている魚が死んだら、学校の庭にあるペット専用のお墓に埋める。トイレに流してしまうなんて、考えたこともなかった。ひどい、と思うのと同時に、もうひとりの自分が「でも何で?」と問う。死ぬっていうのは、もう生きてないってこと。動かないししゃべらないし、痛いとも苦しいとも思わない。パパがそう言ってた。パパはお医者さんだから正しい。埋めるのはよくてトイレに流したらだめっていうのは、誰が決めたの?
 でも、そんなの、果遠ちゃんの前で言えない。この子が悲しいのなら、それだけでだめなことだ、と私は思った。ママのルールよりもっと強く確かな「だめ」がそこにある気がした。果遠ちゃんを泣かせないためなら何をしてもいい、何でもできる。私は「うん」と頷いた。
「埋めてあげよう」
 それから、初めて果遠ちゃんの家に入った。木とは違う、てかてかした床の部屋がひとつと、畳の部屋がふたつ。ふたり用のテーブル、壁際にたたまれた二組のふとん。冷蔵庫のドアもふたつだけだった。ソファもベッドも勉強机もない。これで困らないのかな、と思った。果遠ちゃんは壁にぴったり耳をくっつけ「お姉さん、起きてるみたい」と小声で言う。
「テレビの音がする」
「ほんと?」
 私も果遠ちゃんの真似をすると、壁の向こうから人の話し声がした。たぶん、ドラマか何かの会話。それから、冷蔵庫を開けてバタンと閉める音、足音も。こんなに全部聞こえちゃうものなの? ベランダを乗り越え、こっそりきみどりを盗み出すなんてできるだろうか。私は急に怖くなってきたけれど、もう後には引けなかった。
 果遠ちゃんがそうっとサッシを開ける。靴下のままベランダに出た時、こんなことがママにばれたら叱られる、と不安になったのに、ふしぎと同じくらい気持ちよかった。秘密の「こんなこと」、果遠ちゃんのためにする「こんなこと」。
「行ってくるね」
 果遠ちゃんは靴下を穿いていなかったので、裸足でぺたんと踏み出す。緊張してるけど怖がってはいない、そんな表情。
「きみどりを鳥籠から出したら渡すから、受け取って」
「うん、あ、ちょっと待って」
 私はスカートのポケットから防犯ブザーを取り出した。
「これ、持って行って」
「なに? たまごっち?」
「違うよ、防犯ブザー。紐を引っ張ったら、おっきな音がするから、あ、今はだめ! ……もし、お姉さんがベランダに出てきちゃったら、これで音鳴らして、びっくりさせて、その間に逃げて」
「うん」
 果遠ちゃんはストラップに手首を通してブザーをぶら下げると、なぜか部屋の中に戻って行った。でもすぐ飛び出してきて、私に鳥の羽を差し出す。
「きみどりの羽、結珠ちゃんにあげる。わたし、何も持ってないから」
 黄緑から黄色、そして白へだんだん色が変わっていく羽、これがきみどりの色。私は別に欲しくなかったし、ブザーは貸しただけでプレゼントしたわけじゃない。でも、果遠ちゃんの大切なものをもらえたのが嬉しかった。誰かの「気持ち」を嬉しく思ったのは、初めてかもしれない。
「ありがとう、果遠ちゃん」
 私はそれをブラウスの胸ポケットに入れた。果遠ちゃんはまだ涙でふやけたような目で私を見て笑い、両手を手すりにかけてするりと身体を持ち上げると、まず片足、それから両足で手すりの上に立ち、ベランダの間の壁に摑まってバランスを取る。身軽さに却ってはらはらした。もっとゆっくり、そうっと、と声をかけたかったけれど、果遠ちゃんの気が散るかもしれない。
 果遠ちゃんは楽々と手すりを渡って壁の向こうにひょいと飛び降り、私は精いっぱい背伸びをして、しゃがみ込んだ背中を見守った。きょうは三つ編みにしていないから、長い髪がばさっと広がっている。かしゃん、と軽い音がした後、果遠ちゃんが立ち上がり、振り返る。お椀のかたちにした両手の中に、ぴくりともしない小鳥がいた。
「……結珠ちゃん」
「うん」
 両手を出し、きみどりを受け取ると生き物と思えないほどかちかちで、ぞわっと鳥肌が立つ。果遠ちゃんのためでなければ、悲鳴を上げて放り出していたと思う。でも私は気持ち悪さを顔に出さないよう我慢した。果遠ちゃんは素早く戻ってきて、私たちの作戦はあっさり成功した。部屋の中に戻ると、隣からは変わらずテレビの音が漏れていて、お姉さんは何にも気づいていないようだった。
「はい、きみどり返すね」
「うん」
 すぐに手を洗いたいけれど、まだやることが残っている。公園にこの子を埋めてあげなくちゃ。階段を降り、建物の外まで出たところで果遠ちゃんが「あっ」と立ち止まった。
「どうしたの?」
「スコップ、持ってこなきゃ」
 そうだ、手で土を掘って埋めるのは大変だし、汚れる。果遠ちゃんはきみどりを持ったまま駆け出し、階段の手前でくるっと振り返ると「結珠ちゃんはそこで待ってて」と言った。
「そこの、光のとこにいてね」
 その時、ちょうど私の立っているあたりだけぽっかりと雲が晴れ、小さな陽だまりができていた。私は「うん」と答えた。
「待ってる」
 果遠ちゃんがぱたぱたと階段を駆け上がり、家の中に入る。私はドアの閉まる音を聞き、次に開く音を聞き逃さないよう耳を澄ませていた。
 ふっと、足下が暗くなる。あ、影になっちゃった、お日さまが雲で隠れたからだ。そう思うのと同時に声がした。
「結珠」
 真後ろにママがいた。声は静かだったけれど、何だか目がきょろきょろしていて、ふだんのママとは違っていた。何で。まだいつもの時間じゃないのに。凍りつく私の手を取ってママは歩き出す。
「勝手にうろちょろしないで」
 待ってママ、友達と約束したの。光のとこに、光のところにいなきゃ。でももう、光は消えた。ママはいつもよりもっと早足で、手をほどいたら私を置き去りにしたまま走って行ってしまいそうだった。
 それでもいい、心の中の私が言う。置いて行ってくれたら、果遠ちゃんのところに戻れる。一緒にきみどりを埋めて、果遠ちゃんと遊ぶんだ。暗くなっても、あしたになっても、ずっと。でもママは私の手を強く握って離さなかったし、私はママに逆らわなかった――いつもどおりに。
「何それ」
 車に乗る直前、ママは私の胸ポケットに気づき立ち止まった。果遠ちゃんがくれたきみどりの羽がはみ出している。
「拾ったの? 汚いから、ここで捨てなさい」
 ママはいつもそうだった。取り上げるんじゃなく、私の手で捨てさせる。どんぐりやたんぽぽ、遠くに引っ越した友達がくれた手紙や折り紙の風船。私は何も言えないまま、果遠ちゃんの大事な羽を道に捨てた。これまでにない怒りを感じた。ママじゃなく、言いなりの自分に。どうして私は、あの子みたいにまっすぐ行動できないんだろう。
「乗って」
 ジュニアシートに座り、果遠ちゃんが今頃どうしているのか想像した。私を捜してる? 諦めてひとりできみどりを埋めている? 先週みたいに白詰草だけでも残せたらよかったのに。そうだ、果遠ちゃんは白詰草に気づいてくれたかな。私からだってわかってくれたかな。
 来週、謝ろう。窓の外の街並みを見ながら思った。来週こそ、たくさん話そう。きみどりの羽のことは打ち明けられないかもしれないけど、光のとこにいられなくてごめんね、って。

 うちにはスコップが見当たらなくて、わたしは結局、大きな木のスプーンを選んだ。片手にきみどり、もう片方の手にスプーンを持ち、急いで一階まで降りると、結珠ちゃんがいなくなっていた。結珠ちゃんの足下に陣地のように広がっていた光も消えていた。何で? 約束したのに。まだいつもの時間じゃないのに。公園のどこにも、5号棟の階段のところにもいなかった。
 他に思いつくのは、5号棟の504だけだった。わたしはうんと迷ったけれど、きみどりとスプーンを木の根っこのでこぼこしたところに隠して5号棟に入った。急いで五階まで上がり、前と同じように郵便受けの隙間から中を偵察する。静かだった。結珠ちゃんの声も、「最悪」の声もしない。
 きみどりを手に入れたことで、わたしはちょっと調子に乗っていた。背伸びして玄関のピンポンを押すとちゃんと鳴ったのに誰も出てこず、扉の向こうはしいんとしている。思い切ってドアノブに手をかけ、回してみるとあっさり開いた。中からは何の反応もない。わたしはさっと入り込み、ドアを閉めながら恐る恐る「こんにちは」と声をかけた。
「小鳥を埋めたいので、スコップを貸してください」
 一生懸命考えた「怪しまれない言い訳」だった。靴を脱いで上がると、部屋じゅう足の踏み場もないくらいゴミ袋やペットボトルやお酒の空き缶でいっぱいだった。女の人の裸が表紙の雑誌も。結珠ちゃんのママはこんなところで「ボランティア」するのかな、とふしぎだった。結珠ちゃんはお手伝いや片づけをしないと怒られるって言ってたのに、ここに住んでいる人のことは怒らないのかな。
 きょろきょろしていたら、奥の和室から、うう、と変な声が聞こえてきて、飛び上がりそうになる。でもわたしはそのまま進んでいった。どこかに結珠ちゃんがいるかもしれないし、声の正体を確かめたい気持ちが、怖さより勝っていた。結珠ちゃんが貸してくれた防犯ブザーがあるから、怖い人に会っても、紐を引いてびっくりさせてやったらいいんだ。
 半分開いたふすまから中を覗き込むと、知らないおじさんがふとんの上で寝ていた。足をこっちに向けて、膝から下は畳にはみ出している。おじさんは寝ているけど眠ってはいなかった。すごく怖い顔をして手で胸を押さえ、足で見えない何かを蹴る動きをして、それが畳にこすれてざりっと音を立てている。
 おじさんが「う」と喉を詰まらせたようにぐわっと目を見開き、わたしのほうを見た――わたしに気づいた。わたしはダッシュでその家を飛び出し、階段を二段飛ばしで駆け下りた。前より怖かった。
 きみどりのところまで戻ると、しゃがみ込んで肩で息をする。おじさんの様子がおかしいのは、わたしにもわかった。110、119、の番号が頭の中をぐるぐるする。こういう時は「ちゃんとした大人」を呼ばなきゃいけない。でも「ちゃんとした大人」がおじさんのところに来たら、結珠ちゃんにとってよくないことが起こる気がした。結珠ちゃんのママがあそこに行っていて、でもいなくて、結珠ちゃんもいなくて、知らないおじさんはあそこで、たぶん苦しんでいて――。
 何だか目が回りそう。わたしはやっぱり馬鹿なんだ、どうすればいいのかわからない。教えてもらいたくても、結珠ちゃんはここにいない。わたしはスプーンをしっかり握ると土の地面に突き刺した。自分が確実にできること、やらなきゃいけないことはそれしかなかった。何度も繰り返してやわらかく崩れた土を手で掘り、かき分け、浅い穴にきみどりを入れて土をかぶせた。それから、その辺の白詰草を何本か摘んでお供えした。
 汚れた手とスプーンを家の洗面台でじゃぶじゃぶ洗うと、壁にもたれて座り、隣のテレビの音を聞いた。あのおじさんをどうすればいいのかなんて、「人気の冷凍食品ランキング」は教えてくれない。きみどりのこと、結珠ちゃんのこと、504のこと。きょうのできごとが目の前にちかちかと現れたり消えたりしてわたしをぼうっとさせた。お酒に酔うってこんな感じかな、と思った。
 そのうちに部屋の中が薄暗くなり、わたしは立ち上がってベランダに出た。空いちめんに細長い雲がいくつもいくつも並んで、夕陽を受けて煮えるように赤く光っていた。空はいつでもあるのに、太陽は毎日沈むのに、この日は特別にきれいだった。わたしの目にはそう見えた。きのうはこんな景色じゃなかった、あしたもきっとこんな景色じゃない。きょうだけ、きれいできれいで、ただ見ているだけでいい、何も考えなくていいよ、と夕暮れの空に言われた気がした。雲の間からちらちら顔を覗かせながら、太陽が沈んでいく。結珠ちゃんを照らしてくれたのと同じ光が行ってしまう。わたしには追いかけることも止めることもできない。
 結珠ちゃんはもう、ここには来ない。とてもはっきりそう思った。


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一穂ミチ(いちほ・みち)
2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。ボーイズラブ小説を中心に作品を発表して読者の絶大な支持を集める。21年に刊行した、初の単行本一般文芸作品『スモールワールズ』が本屋大賞第3位、吉川英治文学新人賞を受賞したほか大きな話題に。主な著書に『ふったらどしゃぶり When it rains, it pours』『パラソルでパラシュート』『砂嵐に星屑』など多数。

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