大前粟生「チワワ・シンドローム」#003
琴美は突然連絡を絶った新太の行方を探るため、
親友でYouTuberのリリとともに“チワワテロ”の謎を追い始めた。
そこに第二、さらには第三の事件が起きる——
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三日後の九月十日、琴美は仕事中にリリからメッセージを受け取った。リリのオフィス宛に、先日の男たちから脱出ゲームのチケットが送られてきたという。「優香ちゃんの分と三人分あるけど、行く?」
「どうしようかな」
琴美はリスのキャラクターが頭を捻っているスタンプを返す。
「けっこう盛況みたいだよ。当日券待ちの長い列まで出来てる」
続いてリリがオフィスの窓から撮影した、イベントスペースへと並ぶ行列の写真が届いた。
「へえー。すごい」
「なんたって『脱出ゲームから脱出できなかった男たち』だもんね」
「なにそれ」
「知らない? かなりバズってるよ」
パソコンで検索窓に「だ」と打ち込むと、すぐに検索候補の一番上に「脱出ゲームから脱出できなかった男たち」と出てきた。
どうやら、口髭の男のツイートが話題になっているようだった。「脱出ゲーム会場から脱出できなかったんだけど」と自虐する投稿を、Y・トゥギャザーに所属するインフルエンサーたちが拡散していた。
「あっ。『チカメイ』じゃん。田井中ちゃんもしかしてチケット取れたの?」
先輩社員の関が、後ろから画面を覗き込んできた。脱出ゲームは「地下迷宮からの脱出」というシンプルこの上ないタイトルだったが、「チカメイ」と略されるほど人気のようだ。
「関さんもご存じなんですね」
「俺、新しいもの好きだからね」
「自分で言うんだ」
琴美は苦笑いしたが、関はウケたと勘違いしたのか、うれしそうだった。「あれ? それなんです?」
と琴美は聞いた。関が首から下げている社員証のストラップにはボールペンが挟んであったのだが、ノック部分に施されたアイコンに既視感があった。
——チワワだ。
「ああこれ。良いよね」関はチワワの顔を指で摘んだ。「今めっちゃ流行ってるよね」
「流行ってるって、不気味じゃないですか?」
「不気味? みんな持ってるじゃん。ほら、見てみなよ」
関はだだっ広いワンフロアのオフィスをあごで指した。
そこここで、チワワがこちらを向いていた。胸ポケットに差し込まれたボールペンに、机の上に放置されたマグカップに、ファイルに貼られたステッカーに、充電器用のケーブルホルダーに。視界の端に影がさしたので見ると、ビル清掃の業者がフロアの窓の掃除を始めるところだった。彼が腰から下げている作業用ポーチにも、チワワのキーホルダーが付いていた。ストラップの先端で愛くるしい顔がくるくると回転している。
「なんなんですか、これ」
悪い夢でも見ているようだった。
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チワワは至るところで増殖していた。家の近くのトンネルにでかでかと落書きされていたかと思うと、〝リリ部屋〟へ向かう道中の電柱や廃ビルの壁にも描かれていた。ショッピングモールの中の雑貨屋には、チワワの箸置きや会社で見たマグカップなども並んでいた。関が持っていたボールペンは、ゴミ袋を買いに入った百均で見かけた。
なにかおかしなことが起きている——。
琴美は、リリ部屋に集まった際、「なにが起きてるのかな」と漠然とした不安を吐露した。するとリリはこう言うのだった。
「あやかりだね」
「あやかり?」
「世間はいつだって話題性を求めてるんだよ」
「なんの話?」
「だから、チワワテロのこと。『誰がなんの目的で』ってここ最近バズり続けてるじゃんか。それにあやかろうとしていろいろなグッズが作られてるんだ。流行りに乗っかりたいだけの人が、まんまとそういうのを買っちゃうわけ」
「あやかるったって、あのチワワは、ありがたいものでもなんでもないじゃんか」
「でも、話題にはなった。SNSのトレンドを賑わせた。テレビでもニュースになって。それで充分なんだよ。幸いチワワには肖像権ないし、いろんなグッズ作り放題ときてる」
「そういうもんかなあ」
「そういうもんだよ」
「ところでさ、『チカメイ』かなり順調みたいだね。今日ここに来る時も、びっくりするほど長い当日券待ちの列が出来てた」
リリはソファの上で体育座りしてiPhoneを弄りながら「どうかな」と答えた。冷めているようにも、わくわくしているようにも見える、不思議な目つきをしていた。
「これ見て」
リリのiPhoneに表示されていたのは、ワイドショーでコメンテーターを務める人気落語家のSNSだった。「閉じ込められたのって関心を集めるための自作自演なのでは」というコメントに賛同する意見が相次いでいた。「チカメイ」が人気であることをやっかむような言葉も数多く見受けられた。どうやら、流行っているということ自体が批判の対象になり始めているようだった。
「なんか、世知辛いね」
そう言いながら琴美は、少しばつが悪かった。自分も、あの三人と知り合っていなければ、ただなにか言っておきたい、流行り物がなんとなく癪に障る、くらいの気持ちで「チカメイ」について否定的なコメントをインターネットの海に残していたかもしれない。
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流行っているから行きたい、という意見。流行ってるから行ってみたけど大したことなかったな、という意見。行列に並んでる人の顔って全部まぬけに見えるよな、という意見。閉じ込められたとか普通に警察行けよ、という意見。こういうマーケティング見かけると失笑してしまう、という意見。
反応の全てを吸収し、チカメイは話題になり続け、会期も延長されることとなった。
主催である三人の男たちは、メディアから相次いでインタビューを受けたりと話題を集めている一方で、黒縁眼鏡の男は、閉じ込められたことをいつまでも根に持っているようだった。連日のようにSNSでMAIZUの名を出し、「全部あいつにめちゃくちゃにされた」と言い続けるのだった。
当のMAIZUはというと、この件については沈黙を貫いていた。SNSに書き込むのも、乗っている新幹線が止まった、とか、もう夏も終わりか、なんていう素朴なことばかりだった。「黙ってるってことは疾しいことがあるってことだろ」などのコメントを呼び、MAIZUへの疑念の声は日増しに溢れていった。
琴美は正直、ついていけなかった。誰が犯人なのかという噂は二、三日でころころと変わり続け、なにがなにやらわからない混沌状態だった。悪いのはこの人みたいだぞ、という噂が流れると、相対的に「悪くない人」も決まる。逆も然りだった。良いか悪いか、必ず、どちらかの立場に押し込まれた。
琴美は、リリがその騒動をチェックしながら発したひと言にぎょっとした。
リリは、「ぴーぴー騒いでるこの人たち、可愛いね」と言ったのだ。
「みんながみんな、『悪い』かもしれないのにね」
第三の事件が起きたのは、そんな折だった。
ようやく暑さが和らぎ始めた九月二三日、全国各地で無数のインコが、「オマエハ、ソレデイイノカナ」と喋り出したのだった。
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明日に内定式を控えた九月三十日。琴美は準備で忙しく、夜九時になってようやく会社を出ることができた。「待ってましょうか。それともお店変えた方が都合良いですかね?」と観月さんからメッセージが来ていたので、駅へと小走りで向かいながら、「ごめん今会社出たとこ。後二十分くらいで着く」と送る。これだけだと曖昧だな、と思って、「二軒目向かっててもらって良い?」と追加で打ち込む。やってきた電車にはドアが閉まるぎりぎりに乗り込むことができた。「ここに行こうと思ってます」とGoogleマップのリンクが送られてくる。「オッケー。駅出たら向かいます」と返信して、ようやくひと息吐いた。すると、右足の裏に妙な感触を覚えた。人目を憚りながら、スーツを着ない日用の地味なスニーカーをサッと脱いで裏返してみると、靴底の溝になにかが挟まっていた。そのままにしておくのも気持ち悪かったので、おそるおそる摘んでみる。
誰かの付け爪の破片を、踏んづけてしまっていたようだった。爪の先端には、白いビーズが接着されている。その丸みを指でなぞりながら、琴美は得体の知れない不安に襲われた。
「びっくりしたよ。私もなにかのターゲットにされたのかなって」
待ち合わせのもつ焼き屋に着くなり、琴美はリリと観月さんにそう話した。
一般家庭だけでなく、ペットショップや学校など、全国各地のインコが「オマエハ、ソレデイイノカナ」と喋り出してから、一週間が経っていた。この出来事は、〝インコテロ〟と呼ばれていた。
「確かに、ちょっと気味が悪いですね」と観月さん。
「それ、ほんとになんともないやつなの?」
リリの言葉に、琴美は自信なげに「たぶんね」と返した。
「それより、用事ってなにかな」
「琴美も来たしさ、そろそろ教えてよ」
琴美とリリは、見せたいものがある、と観月さんから呼び出されていた。
観月さんは、緊張しているのか、それともすでに酔っているのか、「はい。はい」としきりに頷いた後、
「やっぱり、あの動画のことは知らないんですね」と言った。
「動画?」
「もしかして、インコテロに関係ある話かな」とリリ。
「それなんですけど〝笑うキズさん〟ってご存じですか?」
「笑うキズさん?」
「TikTokで話題になってるんですよ」
観月さんはTikTokのアプリを開き、「#笑うキズさん」で検索した。すると、微笑む女性が真正面を向いている動画が現れた。彼女は二十代か三十代か、年齢不詳の素朴な顔立ちをしていて、印象に残りづらかった。
「これ、ディープフェイクで作ったアバターなんですよ」
「えっ、マジ。普通に本物の人にしか見えないね。この人がキズさん?」
「はい。見ててください」
キズさんは真正面を向いたまま、「そこらへんの偽善者ヅラしたインフルエンサーよりよっぽど見応えがある」「もうこういう奴らは殺せ」「人に迷惑かけるやつに限って開き直るんだよな」などとまくし立て始めた。過激な言葉とは裏腹に、微笑みは決して崩さなかった。
「え。なに、これ」
「こうした動画が何十本かあって、七月くらいから流行ってるんですよね。キズさんの不気味さと台詞は一体なんなんだ、って話題になってるんです。考察動画なんかも結構出回ってて、それによると、キズさんが話してるのは、MAIZUのYouTubeにファンが残したコメントみたいなんです」
「マジ?」
「マジですマジです」
「その、キズさんはなにが目的なのかな」
「見たまんまだと思いますよ。MAIZUとそのファンに恨みでも持ってるんじゃないですかね。彼らを脅す意図でもあるのかも」
「でも、こういうの流行ったら、かえってMAIZUのページにアクセス増えない?」
「わざわざチェックしにいくのは一部の考察界隈の人だけみたいで、ほとんどの人は、若い女性の口から悪口が出てくるのを楽しんでるだけだと思いますよ。もしかしたら、キズさんがアバターであることにすら気づいてないかも」
琴美は、なんだかすごいね、と呟きながら、キズさんのことを知らなかったということは、もう自分は若者ではないのか、と苦笑いした。
「実は昨日の深夜、正確には今日、九月三十日に日付が変わった瞬間に、TikTokに新しい動画が投稿されたんですよね」
見てもらっていいですか? と言って観月さんはタブレットをタップし、動画を再生した。
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