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【全文無料公開中】大前粟生「チワワ・シンドローム」#001

全国800人に突然、チワワのピンバッジが付けられた――

人事部で働くなかこと
YouTuberリリとともに、この”チワワテロ”を追うことに……

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 なかことは、学生たちが退室するやいなや、スマホを確認した。面接官として学生たちの話を聞いている最中にポケットの中のスマホが小さく震えたので、もしかしてと思ったのだ。LINEを確認すると、やっぱり、三枝さえぐさあらからメッセージが来ていた。他の面接官たちの目を盗んで、返信を素早く打ち込む。
 新太とはマッチングアプリで知り合った。初めて会ったのが四月の終わりだったから、休みの日にお茶したり、電話をしたり、こうしたたわいのないメッセージのやりとりをするようになって、もう三か月近くが経つ。
 琴美は、私たちって良い感じなんじゃないか、とにやけた。なにせ、「暑くなってくるとついコンビニでアイス買っちゃいますよね」という話題だけで、もう三日もやりとりを続けているのだ。他の人が見たら呆れるくらい平凡な内容でこんなに盛り上がれるなんて、私と新太さんはきっと相性が良いんだ、と考えた。
 ノックの音が会議室に響いた。「失礼致します」という硬い声と共に、就活用のスーツを着た学生たちが入室してくる。琴美は腹に力を入れた。スーツ姿がぎこちない彼ら彼女らを前にすると、緊張がこちらにまでうつってくるようだった。
 浮かれるのもほどほどにして、今は、この人たちと向き合わなきゃ。
 今日はこれからまだ、何十名もの学生たちの選考が続くのだ。
 決済サービスを主な事業とする株式会社Gofeatゴーフイートの人事部に採用されてから三年になる。面接官として選考の場に立ち会うのは今年からだったが、その重責になかなか慣れることができないでいた。学生たちの将来を左右し得てしまうのだから、精神的にきつい仕事だ。でも、次のグループの面接を終える頃には、また新太からの返信が来ているかもしれないから、耐えられる。
「では、そちらの方から自己紹介をお願いします」

 一次面接は一七時近くになって終了した。
 優秀な学生もたくさんいたし、なぜだか一発芸のようなものを披露する人もいたが、強く印象に残った学生は三人だった。
 ひとり目の学生は、教授からパワハラを受けていた、と語った。
 ふたり目の学生は、中学でうつ病を患った、と。
 三人目の学生は、汚染された大気のことを考えると体調を崩してしまうそうだった。
 どの学生の訴えも真剣そのものに思えた。三年前まで大学生だった琴美には、彼らのエピソードは身近に感じられた。面接の席で学生たちと対面していると、昔の自分を見るような気持ちになってしまう。琴美自身、大学三年生の時、セクハラまがいのメールをゼミの教授から受け取ったことがあった。あの時の、恐怖で体がすくんでしまう感覚は今でも思い出せる。
 彼ら彼女らの話に、個人としては大いに共感できた。けれど、それらの話を面接官としてどう扱えばいいのか、わからなかった。Gofeat独自の採用メソッドで重要視されている項目——「主体性」「協調性」「独自性」「忍耐力」そして「改革力」、そのどれにもまりそうになかった。
 この日最後の面接が終わると、琴美は人事部の先輩社員であるせきを呼び止めた。
「あの、採用メソッドに当て嵌まらない時って、どうしてますか?」
 関は四十代前半の男性社員だ。りのものにやたらと敏感で、そのことをどこか鼻にかけているような節がある。琴美は関のことがなんとなく苦手だったが、仕事はできるので、困った時はあてにしていた。
「選考用のマニュアルは確認した?」
「確認したんですけど、流石さすがにその、ああいった話をどのように捉えるべきかまでは書いてなくて」
「ああいった話? ああ、パワハラとかね」
「そう、パワハラとか」
 胸がちくりと痛んだ。琴美は、本人のいない前で具体的な話をすることに後ろめたさを感じた。
「そういう戦略なんじゃないの?」
 関は半笑いでそう言った。
「戦略?」
「ああいう話をして、こっちの同情をひきたいのかもしれない」
「そんなことないと思いますけど」
 琴美は反射的にそう答えた。根拠などない、彼ら彼女らを身近に感じるが故の願望だった。なにより、いけないことのような気がしたのだ。無垢な学生たちに疑いの視線を向けてしまうということ、そのものが。
「それより田井中ちゃん、今年もまた〝例の作業〟の担当になっちゃったんでしょ? がんばって」
 関が、一発ギャグのように、中腰になって両手でサムズアップをしてくるので、琴美も苦笑いしながら親指を立てた。
 スマホが震えたので、関が去った後に見てみると、新太からだった。
「今日ここのお店で良いですか?」
 Googleマップのリンクが添えられていた。寿にある刺身が美味いと評判の居酒屋だった。
「もちろん! うおー、さかなだ~」
 それから琴美は、「やっぱり今日残業するので、ご飯ごいっしょした後にまた会社戻ることになりそうです。すいません」と続けた。

 午後七時に居酒屋に着くと、新太はもう席に着いていた。
「すいませんバタバタしちゃってて」
「いえ、全然」新太は、琴美のペースを落ち着かせようとするように、ゆっくりとそう言った。新太はジーパンに灰色のジャケット姿だったが、琴美が初めて見る服だった。いつもは、よりシンプルに無地のTシャツばかり着ているのだ。もしかしたら、私がスーツ姿だから合わせてくれたのだろうか。
「そういえば、スーツ着てる琴美さん見るの初めてだ。似合いますね」
 新太がにっこり微笑むと、やたらと白い歯が覗く。
 お世辞を言い慣れているようでもない分、照れてしまう。そして、やっぱりこの人お人形さんみたいな顔立ちだな、と考える。
 新太は琴美より七つ歳上の三二歳だったが、同い年と言っても違和感のない外見をしていた。
 マッチングアプリを介して新太と初めて会った時、だいかんやまのスタバで若さの秘訣を尋ねてみたのだった。曰く、新太は毎日欠かさず保湿をしているという。それだけではなく、絶対に一時間以上は長風呂をし、二日に一度はジムに通っているそうだ。「美容のためじゃなく、単に、ルーティーンを崩すのが気持ち悪くてそうしてるだけなんですけど」と彼は言った。フリーランスのプログラマーとして多忙にもかかわらず、そんな日々をもう何年も過ごしているようだった。
「徹底した自己管理の人間なんですよね」
 と彼は自ら語った。
「じゃあ、何で他人と出会おうと?」
 そう聞くのが自然な気がした。そしてそれは、新太によって用意された会話の流れのように思えた。
「僕は、ひとりで大丈夫過ぎるから」
 よくよく話を聞くと、完璧主義である自分に嫌気が差してきたのだという。ひとりで生きてしまえるし、今までひとりで生きてきた。でもそれだと、残りの人生、随分さびしくなるんじゃないか、と。
 琴美は、思わず首を傾げた。完璧であるに越したことはないんじゃないの?
 三枝さんの考え方、あまりわからないな、と思う。
 けれど、ネガティブに感じるわからなさではなかった。
 普段はドリップコーヒーしか頼まない、とレジに並んでいる時には話していた新太だったが、でもせっかくだし、と琴美に合わせて新作のドリンクに流行のトッピングを加えていた。そういうさいなところが、琴美には好ましかった。可愛い、と思うことができた。
 つきあいを重ねるうちに、新太の言う「自己管理」とは、不器用さの裏返しなのではないか、と思うようになってきた。
 今日の居酒屋の席でも、取り皿や、はし、おしぼり、コップの置き場所にマイルールでもあるかのように、新太はきちっきちっと整えた。そうしないと落ち着かないんだろうな、と思う。自分の持ち分にこだわるだけで、こちらには干渉してこないから、そんな新太の所作を微笑ましく眺めた。
「この魚の名前、店員さんなんて言ってましたっけ」
 新太が検索をしようと取り出したスマホも傷ひとつない。琴美はなんの気なしにスマホ画面を覗き込んだ。ちらりと見えたホーム画面では、いろいろなアプリがなんとアルファベット順に整理されているのだった。自分の知らない新太の生活がかいえるようで、スマホを見つめていると、新太が検索窓に文字を打ち込んだ拍子に、ブックマークしているページのURLが表示された。
「……MAIZUマイズ? 誰でしたっけそれ。どっかで聞いたことある」
 琴美がそう呟くと、新太は素早くスマホを伏せて裏返しにした。
「ミシマオコゼですって、この魚。僕、食べるの初めてです」
「暑いですか?」
「え?」
「新太さん、汗かいてる」
 新太はハンカチで額を拭うと、そうですね、と呟き、ジャケットを脱いだ。そして、にこにこと微笑みながら琴美に聞いた。
「今日はまだお忙しいんですか?」
 新太は琴美に合わせてノンアルコールを飲んでくれていた。
 琴美は、刺身をたんのうしながら仕事の話をした。学生のプライバシーを考慮し、話の大部分はぼかして伝える。だからこそ感情が乗るような気もした。抽象的な分だけ、仕事中に感じる「不満」や「困惑」に夢中になれるような。
 新太はただ「うん。うん」とあいづちを返し、あまり彼自身の価値判断などを挟まずに、話したいだけこちらに話をさせてくれる。新太といると楽だった。私は話をするのが好きなのかもしれない、と思うが、それは、相手が新太さんだからだ、と何度でも思い直されて、その度に琴美はゆったりとした、しあわせのようなものを感じた。
 胸の奥にあたたかいものを抱きながら、その話題に入る時は、努めて落ち着いた口調になるように意識した。
「良いとか悪いとかじゃないんですけど、自己PRの時に、つらい体験を話す学生さんが何人かいたんですよね」
「つらい体験、というのは。あ、すいません。具体的には話せないですよね。ハラスメントとか、そういった感じですか」
「ええ。何度も言うけど、良いとか悪いとかじゃないんです。ただ私、人事としてどうしたらいいのかなって。どう受け止めてあげればいいのかなって」
「話してるんだから、聞くしかないのかもしれませんね。聞いてあげることしか。よく知らない第三者の意見ですけど、そういう話って、あまり人にできないと思うんです。でも面接って、人に語る場じゃないですか。だから、熱が入っちゃうのかなって思います。話をした当人たちは、〝傷〟を言葉に、声にしたかったのかもしれません。琴美さんなりにちゃんと聞いてあげたのなら、それがベストなんじゃないですかね」

 ベストなんじゃないか、と言われて、なんだかめられたような気分になったし、新太さんにもなにか〝傷〟があったりするのかな、と考えた。そこまで踏み込むことはできず、「おやすみなさい」「仕事がんばってください」と駅前で交わして解散した。今日会えて良かったな、という気持ちは残った。新太と別れてから、彼の言葉をはんすうした。
 会社に戻り、〝例の作業〟にようやくひと段落ついたのは、深夜〇時頃だった。こんな時間まで残業をしているのは琴美ひとりだった。ひと息つくと、他部署と合同で使っているだだっ広いオフィスにひとりきりでいることへの虚しさがやってきた。
 琴美は給湯室へ向かい、箱ごとストックしてある栄養ドリンクの小瓶を二本手に取り、立て続けに飲み干した。
 Gofeatに入社した当初、先輩社員がこうして〝二本飲み〟しているのを見てドン引きしたものだった。けれどいつの間にか、自分もそうなってしまった。
 多忙に慣れてしまって、自分に新しく無理を課す度に、どこか笑えてきてしまう。

 その後は資料作りやメールの返信に追われ、帰宅したのは午前二時だった。メイクも落とさずベッドに倒れ込み、気絶するように眠った。目が覚めると、外すのを忘れていたコンタクトレンズがまぶたの裏側に回り込んでしまっていた。ごろごろする目を何度も搔きながら出社した。
「おおーーっす」
 オフィスに着くなり先輩社員がそう言ってくるから、琴美も「おおーーっす!」と返す。「おはようございます」という意味だ。いつからか縮めて発声されるようになって、おおーーっす。Gofeat内での慣例的なあいさつになっていた。琴美はこうした内輪ノリが嫌いじゃない。社員同士の親しさの表れという感じがする。親友のリリなんかは、なにそれキモいって言うだろうけれど。
 隣のデスクに座る関を見ると、イヤホンを片方だけ嵌めてタブレットで動画を見ていた。片方だけっていうことは話しかけても平気かなと、「なんですかそれ?」と聞いてみる。画面には、口元だけ出した白い仮面の男がうつっていた。
「これ? 田井中ちゃん知らない? 『正義の配信者MAIZU』」
 MAIZUって昨日の新太さんの——。
「正義の配信者?」
「MAIZUのキャッチフレーズ。一般人の迷惑行為をさらすスタイルで何年か前にブレイクして、当時は時の人だった。今じゃまあ、落ち目だけどね。最近また炎上してたから気になって」
 琴美は、関の解説に対しては気もそぞろで、新太さんがこういうの見てるの意外かも、と考えていた。
 別の同僚が、「ああ、そいつ、事務所クビになったんですっけ。ネットニュースになってましたよ。腹いせに事務所の人間のスキャンダル暴露してやるとか息巻いてるって」と話に加わる。
 琴美は「なんか、派手ですね」と苦笑いした。
 それから、リリならMAIZUのこと知ってるかな、と考える。
「ところで田井中ちゃん、資料まとまった?」
 関が動画を閉じて聞いてきた。
「あ、はい。今みなさんに送りますね」
 琴美は〝例の作業〟として深夜まで作成していたファイルを共有のクラウドにアップロードした。
「へえ。よく調べてあるね」
 関からそう言われて、うれしかったのだ。
 資料は、他の同僚からも好評だった。
 人事部で一番の若手である琴美は、選考中の学生たちのSNSをチェックし、資料としてまとめるよう指示されていた。
 この作業は去年も一昨年もこなしているが、正直、骨が折れる。困難な作業というわけではないが、心理的な負担が大きかった。
 ほとんどの学生のSNSからは、大した情報は出てこない。
 学生たちのFacebookには、恋人や家族の記念日、サークル活動の成果、資格試験の合否についてなど、ポジティブに受け取られる投稿が多く見受けられた。
 当然、学生たちも、面接先の人事がSNSをチェックするかもしれないということを意識しているのだ。
 アカウントに鍵をかけている学生や、検索してもヒットしない学生は少なくない。
 そうなってくると、資料にまとめることのできる情報も自然と限られてくる。
 琴美は、中身の薄い資料だと評価が下がってしまうんじゃないかと、学生たちのSNSを執拗にチェックした。Gofeatや業界のこと、学生たちの所属大学や学部、サークル、面接当日のオフィス近隣の喫茶店や沿線などについて細やかに検索をかけ、検索避けに用いられる語句も片端から入力して絞り込んだ。
 その甲斐あって、何人かの学生のとくめいアカウントを特定することに成功したのだが、そこにもまた、新太が言うところの〝傷〟が溢れていた。まず目についたのは、「どうして生きてんのかな」という、死にたさが含まれた、素朴とも言える書き込みだった。
 先輩社員と共に改めて資料を眺めながら、琴美の胸の中には、苦い気持ちがじんわりと広がっていった。
 私も、たった三年前まで学生だったんだ。この子たちと同じ、不安定な若者だった。それなのに今は、彼ら彼女らのプライベートまで調べ、値踏みしていく。私は一体、何様なんだろうか。申し訳なく思う。就活生だった過去の自分に対して、裏切り行為でもしている気持ちになった。

 その日の退勤時間は夜十時前だった。このところ忙殺される毎日が続いていた琴美にとっては、早めの退社だ。閉店間際のドラッグストアで冷凍の餃子とビタミン剤を買って帰路に就いた。
 近くで花火大会があったらしく、地下鉄は随分と混んでいた。琴美は会社用のシンプルなかばんをななめ掛けし、吊り革をつかんでいる手に通すようにしてエコバッグを提げた。数年前、まだ学生だった時に推しのライブで買ったグッズだった。働き始めてからは、ろくにライブにも行けていなかった。
 すぐ前に座る客がじっと見ているスマホには、今朝関が話題にしていたMAIZUがうつっていた。どうやら、琴美が思っているより、MAIZUの人気は高いようだ。乗客は消音で見ていたが、動画にはテロップが付けられていた。琴美はしばらく、その動画をちらちら眺めた。近頃の炎上に対しての謝罪と銘打ってはいるが、その実、視聴者を煽る動画のようだった。前の乗客は、「炎上商法しかできないならさっさと死ね」というコメントを打ち込んでいて、琴美はどす黒い悪意を感じ、すぐに目を逸らした。少し先の席が空いたので、鼓動が速くなるのを感じながら、慌ててそちらに腰掛けた。
 見ると、向かいの座席に、満員の車内にもかかわらず、座席を何人分も占領して缶チューハイを飲んでいる初老の男性がいた。
 琴美は、苛立つわけでもなく、どちらかというと、その男性のことが羨ましくなる。いっそのこと、あれくらい図太くなってしまった方が楽なんだろう。社会の荒波に呑まれ切ってしまえば、就活生のSNSをチェックすることや、彼ら彼女らの一生を左右してしまうことにも、何も感じなくなるのかもしれない。
 ダメだ私、病んでるのかな。
 琴美は、ここ数か月ブラウザに開いたままにしているいくつかの転職サイトを閲覧した。転職サイトを巡ることは、日課になっていた。今の仕事を辞める決心が付いているわけではない。転職の道を選ぶとして、新しい環境への不安の方が大きい。それでも、求人の一覧は、自分の選択肢なんだと思っていたかった。自分にはまだ、未来があるのだ、と。
 車内の冷房は人混みの熱気であまり効いていなかった。膝の上に乗せたエコバッグの底に、冷凍餃子のパッケージの結露が溜まり、しずくが徐々に、琴美のスーツまで沁みていこうとする。とにかく、不快だった。
 スマホが震え、画面にポップアップが表示された。反射的にタップすると、親友のなみ莉里りりがYouTubeでライブ配信をはじめたところだった。

 画面に現れたリリの顔を見て、琴美は頰をゆるませた。チャット欄には、「今日も綺麗」「尊い……」「枠取りありがとう」「雑談感謝」「リリの顔を見たら今日も気持ちよく眠れそう」「リリはいつだって尊いな」などというコメントが溢れていた。琴美は、リリとはもう七年近いつきあいで、お互いに親友だと称し合っているというのに、ファンたちと同じ意見だった。
「音量どう? みんな今日どうしてた? 『もっと顔近くで見せて』? うん、良いよ」
 リリはコメントを読み上げると、片手で前髪を押さえながら、前のめりになってカメラに近づいた。猫のような大きな目や口元が画面いっぱいにうつったかと思うと、リリは顔を離し、小気味良く笑いながら「びっくりした?」と言った。
 琴美は、こういうのってファンはたまらないんだろうな、と思う。リリはパッと見はクールなのに、笑う時は大きく口を開け、どこか子どもっぽいというか、隙がある印象を与える。リリは、あーおもしろ、と呟くと次のコメントを読み上げた。
「『リリちゃんはいつもジャージだったり、上下スウェットだったりしますね。オシャレな服は着ないんですか? 絶対似合うと思います!』」
「絶対似合うからだよ。そしたら、みんなまぶしくて私のこと見えなくなっちゃうからね」
 琴美は、リリがラフな格好をしているのは、単に服装のセンスがないからだ、と知っている分、リリの噓が微笑ましかった。
 彼女は、大学時代から「リリ」としてSNS上で人気を博している。大学卒業後、映像編集の会社に勤めていたが、去年退職して、今では動画配信で生計を立てている。特に、四年前からYouTubeやインスタグラムで定期開催しているライブ配信は好評で、先日、各種SNSの総フォロワー数が六十万人を越えたばかりだった。
 この数字はきっと、世に数多あまたいるインフルエンサーの中では多くもないのだろう。けれどリリには、熱狂的とも言えるファンがたくさんついていた。私も、そのひとりなのかもしれなかった。
 リリは、なんでも肯定してくれる。
 初めてリリと出会ったのは高校生の頃だ。好きな人が友だちと付き合うことになって、友だちを呪うためにわらにんぎようを作ってやろうかと本気で考えていた痛々しい私を、「人間らしいね」と言って笑ってくれた。そのどこか達観した物言いに、私も笑った。
 なんだこいつ、と物珍しいものでも見るようにして、リリに近づいた。実際、高校三年の半端な時期に転校してきたリリは浮いていた。その頭の良さと優れた容姿がやっかまれ、一部のクラスメイトたちからいじめを受けていた。にもかかわらず、リリは強かった。それに、優しかった。失恋からになっていた私を、叱るでもなく、間違った方向へいかないように見守ってくれていた。
 今も、ほら、リリはこんなに優しい。
「今日、誕生日なんです。祝ってくれませんか? 幸せな気持ちになれたら、日付が変わる前に死のうと思います。最後に、『大好き』って言って欲しいです」
 という視聴者のチャットコメントに、リリは即座にこう返した。
「大好き。大好き。大好き。誕生日、おめでとうね。明日もここに来てくれたら、明日もまた大好きって私が言ってあげる。どういう理由で死にたいのか、私は知らないし、私にはなにも解決できないけど、あなたが自分自身を好きになれるまでは、代わりに私がいくらでもあなたのことを、愛してあげる」
 大きな目は瞬きもせずまっすぐにカメラを見つめ続けていて、薄い唇から発せられた言葉は、リリの言葉だけが真実であるみたいによどみなく、力強かった。
 チャット欄には、
「俺も泣いた」「おめでとうな。来年の誕生日もみんなで祝ってやるよ」「リリ、ありがとう」「生きよう!」「事情は知らないけど、ここに集まった連中はみんなおまえの味方だぞ」「わたしもコメ主に毎日言ってあげるから、わたしもリリに言ってほしいな」「リリがいる世界で良かった。それはそうと、誕生日おめでとう」なんてコメントと共に投げ銭が溢れた。
 もうすぐ、自宅の最寄り駅であるみぞくちだった。琴美は、泣きそうになってしまい、慌ててアプリを閉じた。
 リリの言葉は、居心地がよい。
 もう半年近くリリと会っていないのは、まさにそのためだった。

 ワンルーム九帖の部屋に帰ると、会社とは異なる疲労感に襲われた。ここ二週間、ゴミを収集日に出すのを忘れてしまっていた。出す気力がなかった、と言った方が正しいだろうか。初めのうちは、ゴミ袋を冷凍室に詰め込んでいたが、それも間に合わなくなり、何重にも袋を重ねてキッチンの隅に置くようになった。この暑さでは、ベランダに置くのははばかられた。次こそ出さなきゃな、と思いながら、家中に念入りに消臭剤を散布した。
 琴美は最近、風呂で何でも済ませることにハマっていた。YouTubeで紹介されていたバスタブ用のテーブルを試みに買ってみたら、案外と快適だったのだ。バスタブテーブルの上に食器を並べ、温めた餃子を湯に浸かりながら食べ、常備している缶ビールを開けた。「ぷはぁー」とそれらしく言ってみると、浴室に響いて心地よかった。赤ら顔で、こういうのが一番の贅沢だな、と考える。
 湯から上がり、保湿パックをしながらテレビを点けると特番が放送されていた。ひと昔前のレギュラー番組の復活特番のようだった。MCである五十代の女性タレントが各ジャンルの著名人と向かい合って座り、一対一でトークする、というシンプルな番組だ。子役出身の高校生の俳優が「僕には好きな人がいて、」と思いの丈をぶつけていた。今度自分は生まれて初めてキスシーンのある役を演じるのだが、そのことを相手に伝えようか迷っている、伝えたいのかどうかも、伝えたとして相手にどういう反応を期待しているのかさえもうまくわからない。相手のことは好きだけど、好きの気持ちがどんどん燃えていくばかりで、相手とどうなっていきたいとかも、僕は本当はなんにもわからないんです、と彼は涙ぐんでいた。「でも僕、こういうこと今まで誰にも話せなくて、」と声を震わせた。MCは、「私もここのスタッフも、ちゃんと話聞くから。もういちれんたくしようだから、ね」と言い、感動的なナレーションが挿入されてそのコーナーは終わった。
 琴美は思わず見入ってしまった。なんか、良かったな、と思う。適切な時間をとうに過ぎた保湿パックを剝がした。
 誰にでも、話を聞いてもらう相手は必要だ。
 琴美は、あの高校生の俳優がいろんな人にいろんな話ができるようになったら良いな、と思うし、死のうと思う、とコメントを残した人にとっては、リリがその相手なのだろう。
 今の琴美にとっては、三枝新太がそうだった。

 新太とは、定期的にお茶をしたり、呑みにいく関係を続けている。会う間隔はどんどん短くなってきていて、お互いに好意を抱いているのは確実に思えた。琴美は次の一歩を踏み出すタイミングを見計らっていた。例えば、夜景の見えるレストランとか、遊園地とか。そういったベタなデートスポットに行きたくて仕方がない、というわけでもなかったが、関係の発展のためには、このあたりでベタをこなしておくべきだと思った。でないと、新太とは今のお茶友だちのような関係が続いてしまいそうだった。
「明日の土曜、お暇ですか? もう日付変わってるから、正確には今日ですけど」
 夏の夜の熱気に寝苦しさを感じながら、琴美はベッドの中でスマホを打った。いつもだったら、琴美がこんな風に突然連絡をすることはない。少なくとも、三日以上前に打診をするのが常だった。けれど、今回は違った。どうしてだか、自分でもうまくわからない。
 ただ会いたい。それだけなのかもしれない。
 恋なんだろうか。
 そのつもりで彼と接して良いだろうか。
 勢いが必要な気がした。彼の、「ひとりで大丈夫」な部分を崩すことのできる勢いが。
「オッケーです。ちょうど今日は暇だったから。いつもの場所に一五時はどうですか?」
 そう返事がきたのは、朝六時のことだった。通知音で一瞬目を覚ました琴美は、新太からの連絡に安心し、もうしばらく眠ろうと目を閉じた。新太さんらしいな、と思う。この前聞いた話では、平日休日問わず、必ず朝五時半に起床するのだという。電動歯ブラシと歯間ブラシで歯を磨き、昨日あったことや仕事の進捗を振り返りながら、豆から挽いた一杯のコーヒーをゆっくりと飲む。六時になると、夜のあいだに溜まったメールやLINEの返信をするらしい。聞いていた通りの時間に返信が来て、琴美は目を瞑りながら微笑んだ。彼の生活の隙の無さは、今のところ、彼ひとりのものだ。もしつきあったり、いっしょに暮らすようになったりすれば、私もその生活リズムに組み込まれるのだろうか。毎朝、私もいっしょに五時半に起きる? そんなの無理だ。想像するだけで、笑ってしまいそうになる。でも不思議と、嫌な感じはしなかった。
 今日こそはベタなデートに誘おう。
 そう思って、待ち合わせ場所であるいつものスタバに向かった。
 約束の数分前に着くと、ちょうど新太も来たところらしく、注文待ちの列に並んでいた。肩を叩いて、「席取っておきますね」と言う。注文は、新太がふたり分頼んでくれた。出会った当初は、ドリップコーヒー以外を頼むのにもいちいち緊張していたらしい。そんな新太だったが、今ではトレンドに敏感な十代の女子みたいに、毎回新しいトッピングを試している。琴美は、うれしかった。これは、私が彼に与えた影響だ。
「どうしたんですか? にやにやして」
 唇の端にクリームをつけた新太が聞いてくる。
「いや、別に?」
 琴美は、余計ににやにやしながら答えた。
「そうだ。このあいだはありがとうございました。お刺身、おいしかったです」
 そう言いながらも、琴美の話の中心は、先日と同じようにやはり仕事のことになってしまった。新太が嫌な顔ひとつせず相槌を打ってくれるから、どうしても、愚痴を話してしまう。
 そもそも人事部に希望を出したわけじゃなかった、という毎度の話。面接の選考では、人に点数をつけているみたいで、つらくなってしまう。でも、それを面白いと感じることもある自分が嫌だ。
 どうしてか、こちらがネガティブな感情をあらわにするほどに、新太は楽しそうだった。
 彼相手に愚痴をこぼしていると、自分は恵まれている、という気持ちになってくる。
 話を聞いてくれる相手がいるのだから、これで充分なのかもしれない。
 でもだからこそ、この関係から進展させなければ。
「そういえばこの間、花火大会だったんですよね。おかしいな、学生の頃は毎年行ってたのに、最近は仕事にかかりっきりで、何年も行ってないな。これから開催するところってあるのかな。新太さんは、花火ってお好きですか?」
 そっちから誘ってこいよ——という男女関係のコードを充分におわせた発言だった。こうした些細な駆け引きは、ふたりの間ではめずらしかった。琴美としてはかなり攻めたつもりで、内心ドキドキしていた。
 新太は、ゆっくり頷いたかと思うと、無言でスマホをいじりはじめた。
 え……。
 琴美は思わず固まってしまった。
 すると、新太がスマホの画面を見せてきた。
「これとかどうです? 二週間後なんですけど、ご予定どうですか?」
 表示されているのは、花火大会の情報をまとめたサイトだった。
 八月一六日、都内の野球場で開催されるようだ。
「あ。行きましょう行きましょう! 絶対! 絶対予定空けとくんで。よろしくどうぞ!」
「はい。よろしくどうぞ」
 妙にかしこまった物言いにふたりして笑った。
 新太がお手洗いに席を立つと、琴美は「25歳 浴衣」と検索し、出てきたコーデを急いでチェックしたり、浴衣レンタル店のレビューをざっと眺めたりした。
 来るべき花火大会に向けて緊張する気持ちはあったが、当日までのスケジュール調整や、家に似合うかばんあったっけ、などと考えていると、タスクに向かっているような気持ちになった。
 こうなると、欲が出てきた。
 できたら向こうから告白させるか、向こうのリードで行為に及ぶ流れに持ち込みたい。クリスマスまでにそうなるようにしよう。そのために、花火大会の後も濃いめのデートを重ねないと。金銭感覚もお互いそこまで差があるわけではないし、普段のお茶する店も、今後はスタバじゃなくて一回一回吟味して特別感のあるところに変えてもいいかもしれない。でも無理は禁物だ。新太さんは、しっかりとしたライフサイクルを持っている。そこに、うまく私を侵入させていかないと。彼が、四六時中、私のことを考えるようにしないと。
 俄然、恋へのモチベーションが出てきた。というか、新太と会うことの目的がよりはっきりしてきた、そのことにやり甲斐を感じるのだった。
 新太が日課とするジムの時間が来るギリギリまでいっしょに過ごした。ひとりでテンションを上げ過ぎないようにしよう、と意識しても、琴美の言動の端々によろこびが溢れた。

 帰りの電車でふと思い出し、琴美は、大学時代にリリと行った花火大会の写真を見返した。リリとふたり、ピースをしながら写真にうつる自分は垢抜けておらず、白地にやたら明るい水色の流線模様が施された、安っぽい浴衣を着ている。リリはというと上下黒ずくめ、ジャージにパーカーという、風情も何もない格好をしていた。せっかくの花火大会だというのに、空気を読まない格好の人と連れ立って歩くのは、琴美の価値観からすれば少し恥ずかしいことだった。けれど、リリだから特別だった。リリは、なんでも着こなしてしまうし、リリが身につけているものはなんでも輝いて見える。リリは着こなしやオシャレが特段に上手というわけでもない。好意の目がそうさせた。琴美だけでなく、周りの連中もみんなリリのことが大好きだったから、リリが身につけるものだけでなく、やることなすこと、眩しかった。
 琴美には、いつも輪の中心であるリリといっしょにいられることがちょっとした誇りだった。
 時々、不安になったものだ。一体どうして、リリは自分を親友だなんて言ってくれるのか。
 全ての花火が打ち上がった後に、琴美はその気持ちを直接伝えてみた。
「私なんてさ、普通じゃん。リリみたいに人気者じゃないし、なんなら、ちょっと嫌なやつだ。友だちが人気者であることに価値があるだなんて思ってるんだから。リリはさあ、どうして私といっしょにいてくれるわけ」
 琴美としては、かなり勇気を出した発言だった。自分の弱みを見せるような、自分の心をさらけ出すような気持ちだった。
 リリは突然、琴美を抱きしめた。
「だからだよ。琴美は可愛いね」
 可愛い?
 琴美は、馬鹿にされている、と感じた。顔がカッと熱くなる。けれども、同時に底知れない安らぎを覚えた。リリは、嫌な部分や汚い部分全部ひっくるめて、私のことを肯定してくれている。可愛いと言ってくれている。妙な意地を張るよりも、リリの胸の中に自分を預けてしまった方が、楽だった。
 あれから五年も経った。懐かしいな、と思う。あの頃よりも自分は、もうちょっとだけ嫌なやつになった。具体的に何がというわけではない。ただ、社会の荒波の中で生き延びようと必死なだけだ。それだけで、心のどこかはささくれ立って、治らないままずっと痛い。
 リリのインスタグラムをチェックすると、最新の投稿がアップされたばかりだった。
 リリを中心に、五十人ほどの人が集合写真に収まっていた。添えられたテキストによると、「あい会の第六回目が無事に終了しました!」とのことだった。
〝あい会〟こと〈自分を愛する会〉は、リリが自身のファンに向けて今年の二月から始めた月額制のスクールだった。文字通り、自分を愛する方法をリリが受講生たちの前で語るのだ。その中には、自分自身をうまくアピールする方法や、人を惹きつけるしやべかた、なんていう項目もあるようで、就活生たちのSNSをチェックしていると、あい会の話が出てくることもあった。

 彼女の自信も、リリに影響されたものだろうか。
 八月八日、Gofeatの新卒採用も終盤に差しかかっていた。
 づきゆうさんは、三次面接に残った五十名の学生の中でもひと際印象が良かった。わざわざマナー教室に通って身につけたという所作やグループ面接の際の機転の利いた受け答えは申し分がなかった。彼女は自身のことを、「常に何かを学んでいないと落ち着かないんです」と語った。観月さんのFacebookの最新の投稿は、あい会での集合写真だった。やたらと小綺麗な室内で、他の参加者たちと共に笑みを見せている。どうやら、半年前に開かれた第一回目から通っているようだ。琴美は、親友であるリリと、選考を受けている学生との間に接点があることに少なからず驚いた。仕事の領域にリリというプライベートが紛れ込んできたようで、何となく、疲れるような気分だった。
 とは言え、そんなことは観月さんには関係がない。自分だけが彼女とリリの関係を知っていることは、一方的に優位な立場にいるということではないか? でもまあ、講師と生徒だ。「関係」というほどのことでもないか。
 無意識のうちにひいしてしまわないよう、意識して観月さんの面接にあたったが、同僚たちの評価と同様に、この人が落ちることはまずないだろう、と期待は高まるばかりだった。
 グループ面接が終わり、学生たちが退出しようとしていた時である。
 椅子の脇に置かれた観月さんの就活用かばんが目に入った。一般的な黒色の就活かばんだが、こちらを向いた狭い方の側面、マチ部分に、親指大の、白い犬のピンバッジのようなものがついていたのだった。
 琴美は不意に、デジャブのような感覚に襲われた。
 同じようなものを、つい最近目にしたように思う。
 そうだ。つい最近どころか、昨日の話だ。
 デジャブでもなんでもない。昨日の夜、琴美は退勤後に三枝新太と呑みに行ったのだが、別れ際、彼がバッジをズボンの裾に付けているのが見えた。しかも、踵の側だった。見えづらい位置だったから、彼が乗る電車のドアが閉まる寸前になって、ようやく気づいたのだ。
 それにしても新太さんは、どうして、あんなところに。
 しかも、どうして、チワワのピンバッジを?
 琴美は、観月さんのかばんに付いているそれを、改めて凝視する。
 やっぱり、彼女のも、チワワだ。
 チワワの顔面だ。
 もしかして、手作りなのかな。
 ビーズで作られているように見える。白を基調として、目鼻を表す黒と、耳の内側を担うピンク色。
 けっこう、可愛いな。
「あの、なにか」
 観月さんが、琴美の視線に気づいたようだった。
「あ、いや、えーっと。そういうの、流行ってるんですか?」
 琴美は観月さんのかばんを指差した。
 観月さんは、一瞬、何を言われているのかわからないという表情をした後、きょろきょろと、緊張したような様子で、身の回りを探る。琴美は、申し訳ないな、と思いながら、「それですそれ。かばんの」と努めて明るい声を出した。
 観月さんは、ゆっくりとかばんを手に取った。凶器にでも触れているように慎重にかばんの外側を見る。そして数秒黙った後、琴美の顔を見てこう言った。
「これ、なんですか?」

「これ、なんでしょうか?」
 観月さんは胸の高さまでかばんを持ち上げ、面接官や他の学生たちにゆっくりと回し見せた。その仕草は、なにかのショーでPR用の看板を頭上に掲げるキャンペーンガールを思い起こさせた。観月さんは自分でもシュールな光景だと感じたのか、ごく控えめな咳払いをした後、かばんを椅子の上に置き、ピンバッジを外した。
「なんでしょうか」
 気まずい空気を執り成すように観月さんが笑うと、琴美含め、周囲の人たちも合わせて笑った。これ以上なにか言うべきではないような気がして、昨日、自分の知り合いが似たバッジを付けていたということは、喋らなかった。

 その日の帰りの電車内で、一枚のステッカーが目についた。「これを読めば天才になれる」と銘打たれた自己啓発本の広告。ずっと、もう何年も、ドア脇の見やすい位置にある。調べたことはないけれど、人を食い物にするタイプの新興宗教だとか、マルチだとかに近い団体だろう。白黒でななめを向いている著者近影の上に、愛や家族のあり方についてさとす文言が、やけにころころとした白地のゴシック体で書かれていて、どう見ても怪しいのだ。怪しいけれど、毎日の通勤で必ず目にするので、もう見慣れてしまった。この男を慕ってだまされたり、騙したりするのはどういう人だろう。案外みんな、普通で、善良な人なんだろうか。
 もしかしたら、あのピンバッジも、そっち系なのかもしれない。危なげな団体とか、陰謀論とか。バッジとは、所属や信念を表すものだろう。
 だとしたら、それがどういうものであれ、人の信じるものに口を出す権利はない気がした。知ってしまうと、きっと、何かを持て余す。琴美はメモアプリを開き、「自分が知るべきじゃない」と書き込んだ。同じ文字列を、何行も続け、全範囲を青い枠で囲んで、全て消した。その後に「面倒臭いし」と書いた。本心はこれだ、とはっきりわかって、少し笑えた。
 最寄り駅で降りると、家とは反対の方向に数十メートル離れたところにある小さなスーパーに入った。目当ての中華調味料がなかったので、「鶏がらスープの素でも代用できますかね」と新太にメッセージを送る。するとすぐに、「鶏がらスープの素を使うんだったら、レシピよりも一・五倍多めに入れると良いですよ」と、調味料の代用時の分量比率をまとめたウェブサイトのリンクが送られてくる。
 昨夜会った時に、新太は、料理研究家のYouTubeチャンネルをよく見ているということを、なぜか少し恥ずかしそうに教えてくれた。二日に一度、ジムに行かない日に自炊をしはじめたそうだ。「じゃあ、明日は自炊の日ですね。なに作るんですか?」と琴美は聞いた。あんかけ焼きそばと彼が答えた流れで、「私も同じものを作っていいですか? それで、一緒に食べながら電話しましょう」と取り付けたのだ。
 花火大会に行く約束をして以来、毎日電話をしていた。琴美の帰りが遅い日は、新太は就寝時間を延ばし、待っていてくれた。彼のルーティーンに自分を食い込ませていくのは、ちょっとした快感だった。
「今スーパーですか?」
 新太から続けざまにメッセージがきて、スーパーを出たあと、通話をつなぎながら帰宅した。雨が上がって少し経つからか、犬の散歩をしている人とよくすれ違った。その中にチワワもいた。踏んづけそうなほど小さく、琴美は余分に迂回するように避けた。後で、あのピンバッジの話をしようかな、と思う。頭の片隅に置きながら、新太とは主に夏休みの予定について話した。琴美は、新卒採用の選考や諸々の手続きにひと段落がついた後に、もう夏とは呼べない時期になってしまうけれど、有給を繫げて数日の休みを取ることができそうだった。フリーランスである新太も、それに合わせて調節したい、と言ってくれた。
「じゃー旅行でも行っちゃいます?」
 かなえばいいなと願いながら、冗談半分と受け取られてもいいような明るい口調で言ってみると、「はい。ぜひ」と返ってきた。琴美は、今すぐほど良い度数の酒を飲みたいし、リリに報告したい、と思った。
 帰宅すると、どうせなら、ということで、同時に料理を開始することになった。「なんだかゲームみたいですね」と琴美は言う。普段から自炊をするわけではないが、琴美の方が手際が良いようだった。琴美は新太が食材を切り終えるのを待つあいだ、「どこに行きましょうか」と話を広げてみる。「景色が良いところかなあって思うんですけど」
 いくつか候補を挙げ、しまが悪くないんじゃないか、という話に落ち着いた。「嫌じゃなかったら、泊まり、どうですか?」「良いですね。二泊くらい」「うん。二泊くらいで」画面を非表示にして通話だけ繫いだまま、共に遅めの夕食を食べる。
「ポイント貯まってるんで、宿泊先は私が予約しちゃって良いですか?」
 ホテル、という単語を出すと下心が透けそうだった。宿泊先の候補のリンクをメッセージアプリで送り合い、千二百円安い、ということを強調するように、大きなベッドがひとつの部屋ではなく、普通サイズが横並びの部屋を予約した。予約完了のメールに〈お気に入り〉のチェックをつけ、スクリーンショットを撮った。これから何回も見返しちゃうな、と思う。自分で予約したのはポイント云々よりも、当日までのこのうれしさを、手元に置いておきたかったから。
「楽しみ、ですね」琴美はこらえきれなくなって、「あードキドキするどうしよう」早口でまくし立てた。
「僕もです」と返ってきた。
 琴美が入浴するまで通話を続け、風呂から上がってドライヤーを済ませた後、また画面非表示で通話を繫いだ。パックをしていることを話すと、「見たいな」と新太が言った。どうしようか悩んだが、タイマーが鳴ったのでパックを捨て、せめて良く映えるように照明を調節し、画面を表示した。
 新太のいつもつやつやしている顔は、画面越しに見るとより一層潤って見えた。そのものが、細かい、という表現を超え、もはやないように思えた。シンメトリーな顔立ちの中で目がぱっちり開き、こちらを見ている。がっしりした印象を与える頰骨のあたりは筋肉が詰まっていて、新太が喋るのに合わせ、ぷくぷく膨れた。
「どうかしました?」
「昔の映画を、何だっけ、『ターミネーター』を思い出してます。新太さん、あれに出てそうですよね」
 琴美の言葉にネガティブな意味はなく、むしろ、可愛いと思う気持ちと面白さが混ざったものを表現したかったのだ。琴美は、そのニュアンスは新太さんにも伝わっている、と思うことができた。新太の気持ちを察してというのではなく、ふたりの関係の経験値が溜まってきたことへの信頼なのだった。
「ちょっとこれから仕事したいんですけど、見えるところに琴美さんがいてくれたら助かるなって」
「助かる?」
「がんばれるなって」
「じゃあ私、なにしてましょうか」
 そういえば、はじめてすっぴんの顔を見せる。そこに過度に反応する人ではないこともわかっていた。
 普通にしていてほしい、と新太が言うので、琴美はかえって鎖骨のあたりに力が入る。
 スマホを本棚に立てかけ、部屋が映るようにする。そうしてから、なにかマズいものは映ってないかと室内を見回した。
 邪魔になるかな、と音を立てないよう、スローモーションで歯を磨く。
 ベッドに腰掛け、去年買った雑誌を開いたり閉じたりしながら、新太の様子を気にした。仕事に集中しているようだった。しばらくの間、お互い声をかけなかったが、見られているし、見ていた。琴美は、若干エロいな、と思いながら、緊張が徐々に解けていくのを感じる。
 気がつくと、うとうとと舟を漕いでいた。
「琴美さん、大丈夫ですか」
「あ……」
 一時間ほど眠ってしまっていた。
「僕も寝ようかな」
 新太はいつの間にか着替えていて、上下白のスウェット姿になっていた。映像が揺れた。ホルダーかなにかで机に固定していたスマホを手に取ったのだろう。
 その拍子に、棚の上に置かれている、なにか白い、小さなものがうつった。
 画像はブレていたが、琴美には、あのチワワのピンバッジに思えた。
 それって、と聞こうとしたが、緊張でそれどころではなくなった。
 新太がベッドに入り、画面に彼の横顔が至近距離でうつっていたのだ。前髪が片側に寄り、いつもと雰囲気が違って見える。
 私もベッドに入るべきか。入らないという選択肢はなかった。きっと今新太さんは恥ずかしくて、だったら、私も恥ずかしくなるのは良いことだ。
 廊下でTシャツと短パンに着替え、スマホを握ったまま夏季用の薄いかけ布団にくるまった。
 新太の息がスマホのマイクにぶつかり、くぐもった音になる。
 琴美は、「江ノ島楽しみですね」と今日何度も口にした言葉を持ち出し、囁き声で、子どもの頃の遠足、どこに行きましたか? と尋ねた。
「幼い頃僕は体が弱くて、あまり行けなかったんです。けど、繰り返し見る夢があって、その夢の中では、いつも、おにぎりや、お菓子や、水筒や、果てには、学校の先生や、友だちが、童話か何かみたいに、山の斜面をぐるぐる転がっていく。僕だけ頂上に残されるんですけど、麓の方で小さくなっていくみんなを見てると、僕も転がらなきゃって気になって、しゃがみ込んで前のめりになって、両手の指でざらざらする土の地面に触れたところで、いつも目が覚める」
「それは、大変ですね?」
「そう思うじゃないですか。案外、楽しいんですよ」
 そうか。ならよかった。料理を作った。旅行の約束もした。たくさん話した。今日一日に満足感があった。その余韻として、琴美はまだなにか話していたかった。
 琴美は、なにか会話のネタが欲しい時の常として、「私の親友がYouTuberやってるんですけど」とリリのことを口にした。
 リリはもっともっと多くの人に知られるべきだし、知られていくだろう、と彼女の活動を応援したい気持ちがまずあった。そしてその中には、そんなリリと自分が親友であるということを自慢したいという欲も含まれていた。
「リリはなんでも肯定してくれるんです。ファンの人がこの前『天使みたいだ』ってコメント残してたんですけど、まさにリリはそんな感じ。リリは天使なんですよね」
 琴美がリリの話をする間、新太は黙って聞いていた。いつものような相槌はなく、その表情は、なにかを耐えているようにも見えた。琴美がひと息つくと、新太は、「YouTuberか」と呟いた。それから、
「自由じゃないんだな」と。
 琴美にはその意味がよくわからなかったが、
「あれ、なんか私、地雷踏んじゃいました?」
 おそるおそる言うと、新太はハッとした様子で「いえ、そんなことは」と答えた。
 琴美は、話題を変えようと、慌ててこう口にした。
「今日会社で不思議なことがあって」
「不思議なこと?」
「学生さんのかばんに、妙なものが付いてたんですよね。その子が言うには、身に覚えのない」
「身に覚えのないって、それ、大丈夫なんですか? なんていうか、盗聴器だったり、盗撮用のカメラだったり」
「そんな物騒なものではないんじゃないですかね。可愛いチワワのピンバッジ。その場にいたみんなで見てたけど。まさか」
「今、なんて言いました?」
「チワワのピンバッジだったんですよ」
 琴美は、「そういえば、さっき」と続けた。
「部屋にあった白いのもチワワのピンバッジですよね。新太さん、昨日もそれ、ズボンに付けてましたよね」と。
 新太の両まぶたが、ビョロロ、と震えたかと思うと、画面が真っ暗になった。
 あれ、通話が切れちゃったか。
 琴美はかけ直したが、繫がらず、何度か試みている内に、眠気に負けた。
 新太からメッセージがきたのは、翌朝九時になってだった。
「Wi-Fiの調子がおかしかったみたいで、何とかしようと思ったんだけど、ついそのまま、眠っちゃいました」
 いつものルーティーンの時間を過ぎていた。

 八月八日のこの日から、新太の雰囲気が変わった気がする。
 様子がおかしい、というほどのことではない。ただ、毎日の些細なメッセージに対する返信に時間がかかるようになった。メッセージに添えられる絵文字やスタンプの数が減った。電話の途中で彼の沈黙が増えた。
 琴美は不穏さを感じたが、つついてほじくり返すほどのことではない、と判断した。実際、客観的に見れば、大したことじゃない。絵文字やスタンプの数が減ったのだって、それはむしろ、私に気を許してくれている証かもしれない。気にしてしまいそうな時には、目先のことを考えた。私たちには、花火大会も旅行もある。まだ訪れていない未来のことがモチベーションになって、琴美の好意を底上げしてくれた。
 八月一五日の金曜日に新卒採用の最終面接があり、翌土曜日が花火大会だった。会場の野球場に、琴美は一時間早く到着した。大きな仕事にまずはひと段落がついた、という高揚感が昨日から続いていた。
 レンタルした浴衣は、薄ピンク色をした綿麻生地に大小の朝顔を散らした柄だった。浴衣だけで見た時よりも、着てみると可愛いらしい印象だった。どうかな、と着付けをしてもらいながら思ったが、同年代と思しき店員さんがしきりに可愛いと連呼するので、どうするか決めかねていた琴美は、「こういうの着られるの今のうちだけですしね」と話を合わせた。まあ、悪くないんじゃないかな、と琴美は、鏡や窓を目にする度に思い、何度も繰り返してみるうちに、悪くない、とスムーズに思えるようになった。後は、新太から「可愛い」と言ってもらえるかだった。
 このあたりに来るのは久しぶりだった。Gofeatに入社したばかりの頃、どうしてか関に野球観戦に連れてきてもらったのだ。当時と比べて景観に大きな変化は見られないものの、球場に隣接した大きな公園内には、球団マスコットの派手な立像が建っていた。一年程前に設置されたそれはネットでバズり、フォトスポットとして人気になっていた。二足歩行で、野球ボール模様の手裏剣を投げている、眼帯をしたカワウソ。二メートルもあるのだった。特別に興味があるわけでもないが、せっかくなので見ておきたい気もした。下駄を鳴らしながら立像のところへといくと、皆がべたべたと触ったせいで足の部分の塗装が剝げていて、何かご利益でもあるのか、両足の間のスペースには小銭が何十枚と置かれていた。立像の周りには、カップルや女の子たちが自撮りのための順番待ちをしていた。すいませんすいません、と言いながら琴美はスッとカワウソへ近づき、五円玉を置いた。新太さんと長続きしますように、と願い、あとで時間があったら、ふたりで来て写真を撮ろう、と思った。
 ひとりで楽しむのはもったいない気がして、琴美はにやけながら、人の流れに逆らって待ち合わせ場所である駅前まで戻っていった。

 待ち合わせ時刻から三十分を過ぎても、新太は現れなかった。彼は、遅れる前には必ず連絡をしてくれる。「すいません。遅れてしまいます」からはじまるメッセージが、いつも到着予定時刻の四十分前に送られてくるのだ。どういうルールかはわからないが、決まって四十分前だ。琴美はそのこだわりを新太さんらしいな、と思い、気に入っていた。ところが、今日は未だなんの連絡もない。「大丈夫ですか?」「もし、何かトラブルに巻き込まれたりしてるんなら、慌てなくて良いんで。全然、ゆっくり来てくださいね」琴美は既読の付かないメッセージを見つめる。
 待ち合わせの時間から一時間が過ぎた。もうすぐ、花火の打ち上げが始まってしまう。駅前から球場にかけての道は人混みでごった返していた。琴美の目には、誰も彼もが楽しそうに見え、胸の内が焦げ付くようだった。ねたましいというより、早く安心したかった。新太さんがもし来られないとしても、せめて、無事かどうかだけでも確かめたい。彼は、私にとって大切な人だ。琴美は、自分がそう確信していることに気づいて、涙目になった。もっと、良いシチュエーションで思えたら良いのに。「早く来てよ」そう呟いた時、琴美はある声に話しかけられた。
「お姉さん、ひょっとして暇してる? ひとりなの? いやー俺友だちとはぐれちゃってさあ。ちょうどここに、ジャーン! からあげ棒あるんだけど、花火見ながらいっしょに食わない?」
 見た感じ、同い年くらいの男だった。琴美は、こんなタイミングでナンパかよ、とため息を吐いた。琴美は、男の言葉を無視し、存在にさえ気づいていない、という素ぶりでスマホを弄った。
 ちょうどその時、空に甲高い音が昇っていき、轟音と共に花火が弾けた。周囲から、おお、という歓声が上がる。ナンパ男は「たーまやー! ハハッ。俺の名前かーじやー。どうも、かじです」と陽気に笑っていた。「ん? お姉さん、どうかした?」
 琴美の目は、次々と打ち上げられる花火ではなく、スマホに釘付けになっていた。新太から、メッセージが来たのだ。
 琴美は、ホーム画面に表示されたポップアップをゆっくりとタップした。
「これから、会わないようにしよう。僕のことはもう信じないでくれ」
 どういうことだろう。血の気が引くのを全身で感じ、花火の音が怖かった。「どういうことだろうな」声に出すと、理由もなにもわからないというのに、フラれたし、嫌われたのだという事実だけは確かにあるのだ、と自分に突きつけてしまった。その場にしゃがみ込んだ。「最悪だ」鼻緒にこすれた足の指が目に入った。もうすぐ血が出そうだった。

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▼大前粟生さんの短篇『サウナとシャツさん、ふつうの男』はこちら


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