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大前粟生「チワワ・シンドローム」#002

マッチングアプリで出会った三枝さえぐさ新太あらたとの
次の一歩を踏み出すべく、花火大会デートを取り付けた琴美。
当日、会場で新太を待つ琴美が見たものは……

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 八月一九日、新卒採用の内定者が三十名決定した。高校生の時に自分たちで作り上げたサッカー部を県大会優勝に導いたという男子学生や、地域の図書館に子どもだけでなく大人までターゲットにした毎月の読み聞かせイベントの企画を持ち込み、時には著名なゲストを呼んで三年間運営したという女子学生など、今年の内定者は目を引く人が多かった。その中には、観月優香さんもいた。
〝傷〟を語った学生たちについては、社内から「かわいそうだから次に進めてあげるべきだ」という声も出たが、三名とも最終面接には残らなかった。
 その日は人事部のメンバーで会社近くの居酒屋に打ち上げに行くことになった。
「まあ後は、やっぱり他のところに就職します、って断られないかが懸念だけど、こればっかりはこっちがなんとかできるもんでもないしね」
 関はそう言って、勘弁してほしいよね、と笑った。
 琴美が、夜風にあたりたい気分から店の外に出て、ただ空をじっと眺めていると、灰皿目当ての関と出くわしたのだ。
 琴美は正直、人と話す気分ではなかったのだが、関の就活時代の話や、居酒屋のメニューの手書き風の文字読みづら過ぎないか、などという取り留めのない話につきあっていると、関がスマホを確認した。「お。今日はいつもより早いな」画面をタップすると、白い仮面の顔が現れた。関はコメント欄だけザッとチェックすると、スマホをスリープモードにした。
「えっと、MAIZUでしたっけ」
「別に好きでもないんだけど気になっちゃってさ」
「そういうのありますよね。私も、なんにもならないのにな、と思いつつ、ついスマホゲームとかやっちゃう」
「ところで、彼氏とはどう?」
「あーー。うん。どうなんですかね」
 琴美はとつにお茶を濁した。
 あの日以来、新太とは連絡がつかない。琴美は何十件とメッセージを送り、着信を残したが、反応は皆無だった。そんな状態なのだから、向こうが自分のことを好きでいるのだとは考えられなかった。それでも琴美は、未練を断ち切ることができなかった。自分と新太が、どこかでなにかを踏み外してしまったのだということを、まだ明確にしたくはなかった。
 それにしても、一体なにがまずかったのだろう。「会わないようにしよう。もう信じないでくれ」新太にそう言わせるほどのことを、自分はしたのだろうか。逆に、新太がなにかしてしまったのだろうか。
「もう信じないでくれ」とあの人は言った。ということは、私が一度は彼を信じたのだ、と彼自身が考えているということだ。これを愛情と呼ぶのは強引かもしれないけど、愛情はなかった、と決めつけることにもまた無理がある。
 彼は、なにか隠してるんじゃないか。
 だとしたら、その秘密を知りたいと思った。
 とはいえ、琴美には、アクションを起こす気力はなかった。ただでさえ仕事で忙しいのに、この上、探偵まがいのことを始める余裕はない。新太のことを忘れるための現実的な方法は、酒だった。
 琴美は、人事部の飲み会が終わった後、そのまま歩いて会社近くのしんせんにあるバーに出向いた。
 そのバーは雑居ビルの七階に居を構えていた。アルコールも料理も特別優れているわけではないけれど、深夜まで営業していて敷居が低く、半ばスナックのような賑わいを見せていた。
 琴美はカウンターに腰掛け、たまにカウンター内の店主と二言三言交わす他は、痛みをやり過ごすように何杯もカクテルを飲んだ。酔っていくほどに、どうしてだろう、と考えるのを止められなかった。どうしてだろう。どうしてだろう。そう思えば思うほど、落ち込んで、また酒を飲んだ。
 いつの間にか、眠ってしまっていた。客の大部分は帰ってしまったようで、店主がグラスを片付ける音がする。スマホを見ると、ちょうど日付が変わる瞬間だった。
「……マスター。お会計をお願いします」
 まだ眠たげな声で言うと、カウンターの端に座っていた女が口を開いた。
「可愛い顔して寝てたね」
 琴美はギョッとしたのだが、その少し低い声には聞き覚えがあった。
「リリ⁉」
「ひさしぶりだね、琴美」
 驚いた。リリと顔を合わせるのは、半年振りだった。琴美の方から距離を置いていたのだ。胸の内では気まずさとうれしさが混ざっていた。
「どうしてここに?」
「借りてるオフィスがこのあたりなんだ。動画の編集作業してたら、こんな時間になっちゃった」
 答えになっていないような気がしたが、リリの笑顔を見ているとそれ以上深く聞く気にはなれなかった。
「リリは、相変わらず眩しいね」
「ここのお店、薄暗いけど」
「そういう意味じゃなくてさ。いつ会っても華がある。オーラがあるっていうか、自分への自信が内側からにじみ出てる感じ」
 リリは、いつものジャージ姿よりはオシャレだった。薄手の青いワンピースと丈の短いあみあみのカーディガンを着ていて、「ユニクロと古着だけどね。でもありがとう」と笑った。
「琴美、なんかあったでしょ」
「別に、大丈夫だよ」
「わかるよ。大丈夫じゃないことくらい。不安になってる琴美は、人の顔を真正面から見れなくて、相手の肩のあたりをじっと見るんだ。私、わかるよ。琴美のことはなんだって」
 リリの物言いはどこか挑発的であったが、琴美は頰をゆるめていた。自分でも、一体どうして、と思う。リリといると、どうしてこんなに安心してしまうのか。
 リリは店に来てまだいくらも経っていないようだったが、琴美の手を取り、「どこ行こうか」と言った。店を出ても、手は繫がれたままだった。リリに引っ張られるように歩きながら、琴美は気持ちが軽やかになるのを感じた。涼しい夜のにおいが、リリの甘たるい香水と合わさって鼻腔をくすぐり、心地よかった。そのことで琴美は、自分がここ最近、五感に訴えてくる基本的な快楽さえ認識できないくらい疲れていたことに気づき、涙が溢れた。
「琴美どこ行きたい? ほんとにひさしぶりだよね。高校の頃さ、こうやってよくふたりで目的もなく歩いたよね」
「うん。そうだね。楽しかった」
 リリが振り返り、琴美を見つめる。
「泣かないで琴美。大丈夫だよ。琴美は大丈夫。だって、私が琴美のこと好きだから」
「どうして泣いてるか、聞かないの」
「聞いてほしい?」
 そう言いながら、歩道の真ん中で抱きしめてくる。琴美は赤ん坊のようにすべすべしたリリの首元に顔を埋め、一生このままで良いのに、と思う。
 恋のことも仕事のことも忘れて、自分を理解してくれるリリと、いつまでもこうしていられたら。
 そう思うから、リリと会いたくなかった。会わなかった。
 リリといると居心地がよ過ぎて、日常に戻るのが怖くなる。つらいことがあるのが当たり前の日々に。
「好きだった男の人が、突然消えたんだ」
 琴美が呟くと、リリは「ぎゅうう」と言いながら、琴美を抱く腕にさらに力を込めた。それからまた琴美を見つめ、「そっか。琴美は、どうしたいの?」と尋ねた。
「私は……私は、あの人、新太さんが、なんで私の前からいなくなったのか、ちゃんと知りたい。できればそれで、許したくない」
「許したくないの?」
「嫌いになりたい。もしもう会えないなら、嫌わないと、忘れられそうにないから」
「良いよ。手伝ってあげる。その新太さんって人のこと、いっしょに捜そ? 私も、琴美が好きになった人に興味あるし」
 リリは笑みを浮かべた。

「『三枝新太』っと。だめだね。検索しても、特にヒットしない。読みは同じで字の違うサッカー選手が出てくるくらいで、本人の情報はなさそう。この人、Facebookもやってないんだ?」
 そう言うとリリは、カラオケルームのソファ席に胡座あぐらをかきながら、メロンソーダとオレンジジュースを混ぜた不可解な液体をストローで勢い良く吸った。
 カラオケに行こう、と提案したのは琴美だった。リリ以外の第三者に、新太についての話を聞かれたくなかった。飽きたら、歌えば良い。
「この人、フリーランスなんでしょ? それなのにSNSなにもしてないって、めずらしいよね」
「新太さん、人の噂話とか好きじゃないって言ってたから、そういうの関係あるのかもしれない」
「琴美どうした?」
「ううん。リリがいてくれて助かった。私、新太さんの名前を検索するのさえ、新太さんに悪いような気がして、できなかったから」
「やっぱり、やめとく? さっきは『許したくない』なんて琴美言ってたけど、許す許さない以前に、いなくなった理由によっては、琴美が傷ついちゃうかもしれないよ?」
「それは問題ない。私は、踏ん切りをつけたいだけ」
「そっか。ねえ、三枝さんの仕事の取引先とかは知らないの」
「あー。なんか、何年か前に、そこそこ有名な企業のホームページのリニューアルに携わったとか聞いたことあるけどね」
「思い出せる?」
 琴美は、あー、と唸るような声を出し、違うかもだけど、と前置きをしてから、とあるアパレルブランドの名を挙げた。リリはiPhoneを素早く操作し、「リニューアルは五年前だね」と告げた。それからTwitterを起動して検索を重ね、当時その案件に関わったという投稿をしていたイラストレーターを突き止めた。
「この人、イケるかもね」
 リリは微笑みながらイラストレーターのTwitterを見せてきた。琴美はその人の名前は知らなかったが、絵柄は見たことがあった。
「イケるって? 私でも絵を見たことあるから、有名な人だよね」
「企業ホームページのリニューアルって、このイラストレーターさんとのコラボ製品の発売に伴ってのことらしい。つまりこの人は、三枝さんが関わっていたプロジェクトのキーパーソンだね。この人に三枝さんの行方突き止めて貰おう」
「どういうこと」
「プロジェクトの別の関係者に繫いで貰うんだよ。プログラマーに近い人だったら、三枝さんのこと知ってるかもしれない」
「理屈はわかるけど、繫いで貰うったって」
「お願いすれば良いだけ」
 リリは、自分のTwitterアカウントからイラストレーター宛にダイレクトメッセージを送るため、三枝新太という人物を捜しているという旨の文章を打ち込み始めた。五年前のホームページリニューアルの担当の方か、それに類する人に繫いでくれないか、と。その末尾は、署名として、リリの本名である「穂波莉里」で締めくくられていた。
「出来た。送信っと」
「それ、うまくいく?」
 琴美は半信半疑でそう聞いた。
「琴美は、私のこと誰だと思ってる?」
「リリだけど」
「向こうも当然、わかるよね。私がリリだって。インフルエンサーだっていうことが。そんな私がいきなり不躾なお願いをしているっていうことは、それなりのリスクを負っているんだって向こうも理解するはず」
「リスクって」
「炎上とか、ね。今のご時世、誰がなにを晒すかわかったもんじゃないじゃんか。そんな中で、顔出して活動してる私が、リリが、人を捜すために本名を差し出した、っていうのは、けっこう響くはず。イラストレーターも人気商売だし、そういうことはわかるでしょ」
 それに、とリリは微笑みながらiPhoneをタップし、Twitterに投稿されたイラストを表示した。
「この人が描く女の子さ。私にそっくりじゃない?」
 こいつ私みたいな顔が好きなんだよ、絶対返事来るって、と彼女は微笑んだ。

 果たしてその言葉通り、翌八月二十日の朝にはイラストレーターから返信が来たのだった。リリは、ダイレクトメッセージのスクリーンショットを琴美に送ってくれた。そのメッセージには、企業の担当者と、五年前にその案件の打ち合わせで名刺をもらったエンジニアに問い合わせ中だということが記されていた。それから、リリの配信をいくつか見てファンになりました、ということが。
 琴美は通勤電車に乗りながら、「いや、なんというか、流石っす」と、震えているたぬきのスタンプを添えて送った。
「それにしても、良かったの? 本名まで書いちゃって。なにかトラブルに巻き込まれたりしない?」
「だーいじょうぶだよ。大事な琴美のためだもん」
 琴美は、言葉だけでリリにでてもらっている気分になった。

 イラストレーターからの返信は二日後に届いた。ふたりは先日のようにカラオケに集まっていて、リリは届いたメッセージを読み上げてくれた。
「『まず、企業の方はだめでした。今現在の連絡先は把握していないですし、把握していてもプライバシー保護の観点上、教えるわけにはいかないそうです』。まあ、ここまでは妥当だよね。でね、ここからが大事なんだけど、『エンジニアの方は好感触で、三枝さんとも直接の知り合いみたいです』だって」
 リリが読み上げてくれた文面に「おおー」とかいさいの声を上げた。リリとふたり、謎解きゲームでもしているような気分だった。
「そのエンジニアのメールアドレス書いてくれてるから、連絡してみるね」

 その翌日に、エンジニアからの返信が来た。「私の方でも三枝くんに連絡してみたのですが、今のところ返信はないですね」と。そのエンジニアは都内在住で明日は休みだというので、リリの提案で、三人で会うことになった。

 指定されたのはまるうちにあるホテルのラウンジだった。
 当日、琴美は、他のふたりよりも早く店に着いた。
 もしかしてドッキリなんじゃないか、という変な期待があった。もしかしたら、これから現れるのは、エンジニアではなくて新太で、リリも含め、みんなぐるになって私を驚かせようとしているんじゃないか、と。
 そんなことありえない。そうわかっているからこそ、わずかでも湧いた希望に縋っていたかった。
 まず、リリが現れた。いつかの花火大会のように、黒のジャージとパーカーという格好で、爪を黒く塗っていた。
 そして待ち合わせの時間を五分過ぎて、三十代後半くらいの坊主頭の男性が現れた。
「お待たせしました。がわです」と彼は名刺を差し出した。
 琴美は、長谷川さんのことを、たぶん良い人だ、と考えた。とにかく、突然姿を消してしまったものだから、とこちらが新太を捜している経緯などを説明している最中も、長谷川さんはしきりに、「いやあ、心配ですねえ」と口にした。
「それで、少しでもなにか、新太さんの行方について手がかりを摑めないかと思いまして」
 琴美がそう言うと、長谷川さんは、コーヒーをひと口すすり、
「なにか、お力になれることはあるでしょうか」と低音楽器のような声で言った。「メールでもお伝えしましたが、三枝くんとは、久しく顔を合わせてないのです。懐かしいですね。あのプロジェクトからもう五年になりますか。あれが三枝くんとは初めての仕事だったんですが、恐ろしく腕の良いプログラマーでしたよ。それからもちょこちょこと一緒になることがあってね。まあこんな職業ですから、腰痛とか肩こりに効く健康グッズの情報を交換し合ったりね、あとお互い、アウトドアが好きで、たまにキャンプに行ったりね。でも、そうだなあ、確か、ちょうど三年前くらいに、三枝くんからの連絡がばったりと途絶えてね。それこそ、今みたく、音信不通になったみたいに。でもまあ、プログラマーとして仕事を続けているのは業界の人間から漏れ聞こえてきましたから、元気でやってると良いな、なんて思っていたのですが」
 琴美は、長谷川さんがまたコーヒーを口に運んだタイミングで、こう聞いた。
「新太さん、アウトドアが好きなんですか?」
 琴美からすれば、寝耳に水だった。そういう一面もあったんだな、というより、私がそれ知らないのありえない、という傲慢なショックだった。
「あの、長谷川さんから見て、新太さんってどんな人でした」
「そりゃあもう、負けん気が強くて根性のある、やんちゃな男でしたよ」

「私が知ってる新太さんと全然違うんだってば。負けん気が強くて根性のあるやんちゃな男? 違うよ。違う。もっと新太さんは枯れてるって。隠居したジジイみたいだったって。規則正しくて、落ち着いてて、よく人の話聞いてくれて。いつもどこかしら虚しそうで。でもなんかエロい雰囲気があって。新太さんって、そういう人だよ。あの長谷川さんって人、なんなの? ムカつかない?」
 約束からの帰り、琴美はリリ相手に声を荒らげた。
 リリは、まあまあ、と琴美を執り成しながらも、どこかうれしそうだった。
「なに? リリまで、なんで笑ってんの? 人の不幸がうれしい?」
「いや、そうじゃなくてさ。琴美がそういう風に荒れることあんまりないからさ、おもしろくて」
「自分でも理不尽に怒ってるってわかってるよ? でもさあ、」
「あまりに三枝さんのイメージが違う?」
「イメージっていうか、別人みたいだって思った」
「同姓同名ってことは考えにくいよね。職業まで一致してるんだし」
「うーん。結局長谷川さんからは、手がかりらしきことは聞けなかったね」
「でも、長谷川さんの方でもツテを当たってみてくれるって。良い人じゃん」
「どこが」
 琴美が吐き捨てると、リリはまた笑った。

 長谷川さんとビデオ通話をすることになったのは、その翌週のことだった。
 琴美とリリはカラオケルームに集まり、パソコンを広げて応答した。
「このあいだはありがとうございました。ね、琴美」
「それで今日は、なんの用ですか」
「いやね、プログラマーの三枝新太のこと知らないか、って方々に聞いて回ったんですよ」
 長谷川さんのバリトンボイスは、タブレット越しだとより低く重たく聞こえるのだった。「そしたら、私が今関わってる案件のUIデザイナーが、三枝くんと同級生だって言うんですよ」
「えっ」と琴美。
「その人もIT関連なもんだから、たまたま会う機会があって。私、聞いてみたんですよ。三枝くんの行方の手がかりだったり、あと、三枝くんってどういう奴だったかって。どうも、田井中さんは私の三枝くん像が不服らしいから」
 言い当てられて、琴美は顔が真っ赤になった。
「で、どうでした?」とリリが促した。
「結論から言うと、行方は知らないって。それから彼ね、興味深いこと言ったんですよね。『あいつ、あんなに人好きのする奴だったのに、三年前に急にいなくなりやがって』って」
 長谷川さんが決め台詞かなにかのようにそう言うと、三人は少しの間黙った。
 じゃあ僕はこれで、なにかわかったら情報くださいね、と言って長谷川さんが通話を切ると、隣の部屋から歌謡曲の熱唱が漏れ聞こえてきた。
「三年前」リリが口を開いた。
「三年前に、なにかあったのかな」
「ひとつわかったのは、三枝さんがSNSもなにもしてないのは、痕跡を残したくないからかもしれないね」
「過去を断ちたいってこと?」
「かもしれない」
 そしてリリは、「あっ!」と大きな声を出した。
 にやけながら、
「えー。我ら美少女探偵団は、とんでもないミスを犯してしまいました」
 と、ふるはたにんざぶろうの真似をしながら言うのだった。
「少女ではないね。探偵でもない」
「美女だとは思ってるんだ」
「うるさ」
「私たちさ、肝心な、一番大事なこと、やってなかった」
「一番大事なこと?」
「三枝さんの家、まだ行ってない!」
 リリの言葉に、琴美は苦笑いし、なぜかカタコトになって答える。
「私、家、行ったことない。新太さんがどこに住んでるか、知らない。たちかわに住んでるって言ってたけど、詳しい住所までは知らない」
「そうか~」
「あの、言い訳みたいだけど、これって適切な距離感じゃない? まだ、つきあってもないんだから、住所なんて知らないし。仲が良くても、そんなもんでしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
 リリは、言葉とは裏腹に、彼の家すら知らなかったことに落ち込んでいる琴美の背中を叩いた。
「じゃあ、その立川で待ち伏せしてみよう。ほら、いくよ!」

 琴美はリリに促され、店を出た。待ち伏せすることに若干の後ろめたさはあったが、誰かに引っ張っていってもらえると楽だった。
 リリとはここ最近、毎日のように会っていた。
 新太の行方を捜すという体ではあったが、買い物をしたり、カラオケをしたり、ゲームセンターで遊んだり、ボウリングをしたり、リリが配信するのを画角の外から覗かせてもらったり。琴美は、これでいい気がする、とも考え始めていた。こんな風に、それなりに楽しく日々を過ごしているうちに、彼のことを考える時間が減っていけば、それで。
 四十分ほど電車に乗り、新太が暮らす立川の街に着いた。百貨店や映画館、美術館などが駅前にギュッと集合しており、人通りは多かった。琴美は新太から、駅前から少し離れた静かなところにマンションを借りている、と聞いていたが、その情報だけではあまりに手がかりが少なかった。
 琴美とリリは、ほとんど博打のような心持ちで、駅前の人通りを見渡せるカフェに居座ることにした。
 窓側のカウンター席に並んで腰掛け、日曜午後の人通りを見つめる。琴美はつい、カップルと思しきふたり組や、親子連れの姿を目で追ってしまう。新太と共に、あんな風に休日を楽しむ未来もあったのだろうか、と。
「懐かしいよね」
 アイスコーヒーを啜りながらリリが言った。
「ここ何日かさ、私らずっとふたりでいるじゃん。学生時代に戻ったみたい」
「ね。覚えてる? 高校の卒業式の日さ、式に出るのがだる過ぎて、迷子のハサミを捜したの」
「あったね。懐かしい。電柱に写真が貼ってあったんだよね。まるで迷子の犬みたいに、このハサミを捜してます、って。名前はコンちゃん、七歳で、特徴は取手が青いことです、いつもなら家出しても一日で戻ってくるのに、もう一週間も帰ってきません、って。それで琴美が、どうしても捜したいって言って、卒業式ほっぽり出して」
「いやいや、言い出したのリリだし」
「そうだっけ。まあ、私ならそういうこと言いそうだね。あれ、なんだったのかな」
「変だったよね。悪ふざけなのかガチなのかもわからなかった。成人式の日にさ、そのことクラスの人たちに話したんだよね。そしたら、自分は迷子のクレヨンの写真を見かけた、って言う人がいたり、迷子のおはじきの写真見かけた、って人がいたり」
「えーなにそれ」
「でね、続きがあるんだけど、去年ね、高一の時同じクラスだった子の結婚式に出席したの。そしたらね、小学校の先生をやってる同級生も出席してて。彼女が、『そういえばあれ、〝消えたお道具箱〟っていう名前で地元の小学生の間で七不思議になってる』って」
「それ、不思議過ぎん?」とリリは笑った。
「この話はオチがあるんだけどね、実は、結婚式の三次会でべろべろになった彼女が教えてくれたんだ。『あの七不思議、全部私の自作自演なんだ』って。昔から小学校の先生になろうと思ってて、将来受け持つ子どもたちを楽しませようと思ってやってしまったって」
「高校の時に、何年後かに七不思議になるのを見越して計画したの? やばいね」
「でも、ここ一年くらい、そうやって迷子っていう設定にさせたお道具箱の道具たちに襲われる夢を毎日見るんだって」
「なんだそれ。急に落語みたいな話になったな」
 あっ、
 と声を出した時には、琴美は席から腰を浮かせていた。駅から出てきた人波の中に、新太によく似た後ろ姿があったのだ。「ちょっとごめん」と言い残すと、琴美は店を出て、走り始めた。新太がいたらいいのに、と願っていたというのに、本当に彼がいるかもしれないことに驚いていて、自分がどうして走っているのかも、よくわからなかった。体は軽くて、すぐに、彼へと近づいていく。近づくと、怖さがやってきた。もし新太さんだったとしたら、なにを言う? 私は、新太さんになにを言ってもらいたい? いなくなった彼を見つけて、どうなりたいんだ?

 琴美の手は、彼の肩に触れなかった。ギリギリのところで、自分から、ひっこめてしまった。立ち止まって、よく似た後ろ姿から目を逸らす。それでも、なにかしらの気配を感じたのか、彼は数歩進むと、振り返った。

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