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岩井圭也「われは熊楠」:第六章〈紫花〉——終幕、そして

民間人たる熊楠が天皇に御進講――
大いなる快挙に田辺は沸きに沸いた。神島を守り、探求を続けたその成果であった。
それから15年、74歳となった熊楠。「来るべき学問」を目指してひた走ってきた熊楠が辿り着いた場所とは? 圧巻の最終章!

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第六章 

 なかしきまちの邸宅の上には、今にも降り出しそうな分厚い雲がかかっていた。
 湿気た空気が漂う庭には、くすのきあんどう蜜柑みかんの木が植えられ、地面には一面枯葉が敷き詰められている。せんだんが藤色の花を咲かせていた。一九四一(昭和十六)年六月のことだった。
 戸を開け放した八畳の離れに、男女の人影があった。女のほうは、横たえたテングタケを肉眼で観察しながら、紙の上に絵筆を走らせている。その傍らで、老いた男は顕微鏡を覗きこんでいた。
 老人——よわい七十四のみなかたくまぐすは、るいけんきように集中していた。まだ夏には早いが、じゆばんに腰巻という出で立ちである。貫禄のあった腹回りは細くなり、顔はこけていた。短く刈った髪は残雪に似た色をしている。
 熊楠は時おり顔を上げ、横で絵を描いている娘——ふみの手元を見やる。
「もうちっと、黄味を濃く描きぃ」
 文枝は顔を上げずに頷き、筆先で絵具を溶く。二十九歳になった文枝は、今も実家に住んで両親の世話をしていた。熊楠の研究を手伝いながら、床に伏しがちなまつの面倒も見ている。
 熊楠は目が悪くなってからというもの、もっぱら菌類の描画を文枝に任せるようになった。見えないわけではないが、かつてのように明瞭な線を引くことができず、細かい彩色にも難渋するようになったためだ。文枝は絵が得意で、進んでこの役を引き受けてくれた。
 本棚の冊子を取るため、熊楠は立ち上がろうとする。膝を立て、座卓に手をつき、慎重に身体を持ち上げる。左膝に針を刺したような痛みが走り、うっ、と呻き声が漏れた。一、二分かけてようやく立ち、そろそろと歩く。元々足はよくなかったが、三年前、庭で粘菌の観察中に転倒してからはろくに動かなくなった。一歩歩み出すたび膝が痛み、顔が歪む。
 冊子を手にして顕微鏡の前に戻ると、文枝が庭のほうを見ながら言った。
「もうじき、降るんとちゃいます」
 ちょうど、庭では熊楠が実験をしている最中だった。生木の表面に粘菌を付着させたり、枯葉のなかに地衣類を移植したりして、正常に育つか確認するためだ。雨が降れば、この実験は無効になる。菌類は雨に弱い。
「家ンなか、入れときましょか」
「ええ。わえがやるさけ」
 熊楠は苦悶の表情を浮かべつつ、縁側へと歩を進めた。
 この期に及んで、他人が庭に触ることはきんだった。熊楠にとって、自宅の庭は貴重な実験場であり、他人の介入があってはならない場所だ。その意思は、七十を超えても何ら変わらない。
 熊楠は庭下駄を履いて、ゆっくり、一つ一つ菌を回収した。広げた風呂敷に、木の皮や枯葉をしまっていく。文枝は離れで作業を続けながら、時おり顔を上げ、庭の老父を心配そうに眺めていた。
 ——気遣いないわ。
 熊楠はそう心のなかで思うが、口にはしない。老境と呼ばれる年齢に差し掛かっていることはわかっていた。不安に思うのも無理はない。同世代の連中は、多くが鬼籍に入っていた。熊楠の脳裏に、この世を去った友人たちの面影が映し出される。
 身辺の世話をしてくれたいしともは、十年以上前に亡くなった。他の飲み友達も大半が他界した。盟友のもうせいは三年前にこの世を去った。
 和歌山中学からの付き合いだったはばたけさぶろうが亡くなったのは、三か月前のことだ。田辺の名医として知られた喜多幅の葬式は盛大であった。その日熊楠は式に参列せず、日暮れまで離れに籠って経を上げた。
 数年前、熊楠夫妻が医院に行った際、松枝が喜多幅にこう漏らしていた。
 ——この人だけ私らンとこ残されたら敵わんさけ、もしせんが先に逝ってもうたら、さっさと迎えに来てくださいね。
 任しとき、と喜多幅は快活に笑っていた。
 熊楠は、喜多幅が義理堅い男だと知っている。田辺に来るよう誘ってくれたのも、結婚の世話をしてくれたのも喜多幅だった。おそらく彼はそう遠くないうち、己を迎えに来るだろうと確信していた。
 実際、熊楠の体調は良好とは言いがたい。身体は重く、ちょっとした動作も大儀に感じる。数年前、医者からしゆくじんと診断された。酒も煙草も欲しいと思わなくなり、長い間断っていた。
 己に残された時がごくわずかであることは承知している。だからこそ、研究の手を止めたくはなかった。

 作業をはじめて二時間ほど経った頃、玄関の方角から物音がした。熊楠の耳ではよく聞き取れなかったが、誰か客人が来たらしい。すぐに文枝が飛んでいった。
「ああ、さいさん」
 応対に出た文枝が、そう言うのが聞こえた。耳はずいぶん遠くなったが、不思議と聞こえる時がある。熊楠は「通しぃ」と叫ぶが、しわがれた小さな声は届いていないのか、しばらく誰も現れなかった。
 客人が離れにやってきたのは、来訪から三十分ほど経った頃だった。
「雑賀君。久しぶりやな」
 しんぽうの記者だった雑賀ていろうは、村会議員を経て、長らく田辺町会議員を務めている。出会った時二十代だった雑賀も、すでに五十代後半に差し掛かっていた。
「具合はどないですか、せん
 母屋から庭下駄を履いてきた雑賀は、離れに上がるなり目尻を下げた。その左目には眼球が入っていない。元来左目に眼病を患っていた雑賀だが、右目が白内障になったことから大阪帝大で手術を受けた。手術の甲斐あって右目は治り、左目はその際に除去したという。
 雑賀は若い時分から今まで、断続的に熊楠のもとを訪れている。熊楠のほうも雑賀はとりわけ気に入りで、来訪のたびに町内の様子を聞いたり、学問上の議論を戦わせたりしていた。雑賀に嫌がるそぶりは一切なく、頻度は落ちたが、今でも彼は熊楠のもとをたびたび訪問している。
「なんや。文枝かだえかと話しとったんか」
「まあ、少し」
「水臭い。隠し事か」
 熊楠はむくれてみせるが、雑賀の来訪に喜びが隠しきれず、頰が緩んでいた。雑賀は少し迷っているようだったが、促されると素直に話した。
くまさんの看護人のこた、気になったもんで」
 緩んでいた熊楠の頰が、幾分引き締まった。
 京都いわくら病院に入院していた熊弥は、四年前、看護人が引退するのに合わせてかいなんふじしろへと転居していた。家を借り、そこに住み込みの看護人と一緒に住むようにしたのだ。居宅があるのは、熊楠の命名の由来となったもりくすのきじんじやのほど近くである。
 転居の手配は、懇意にしているぐちという陶器商がすべて担ってくれた。岩倉にいた時分を含めて、熊楠が熊弥のもとに足を運んだことは一度もない。代わりに、野口が見舞いに行くたびに熊弥の様子を聞いていた。
 熊弥の看護人が急死したという報が入ったのは、昨年末のことだった。代わりの看護人を探して手配したのも野口である。
「引き続き、熊弥さんは藤白に住まわれるとか」
「そうみたいやな」
 熊楠は淡白な口ぶりで応じた。
 息子のことが気にかからないわけではない。ただ、無邪気には語れない、というのが本音だった。所詮、己は熊弥を理解できなかった父である。親として堂々としていることへの罪深さは、胸の奥に巣食っていた。すでに一度、己は熊弥を見放している。この上でどのような面を下げて会えばいいというのか。
 微妙な空気を察した雑賀が、「そういえば」と話題を転じた。
「男色研究の彼からは、まだ手紙が来ますか」
いわ君か」
「そう。岩田じゆんいち君でしたっけね」
 に住む男色研究家の岩田とは、十年来文通をしている。きっかけは、岩田が雑誌に連載していた「本朝男色考」を熊楠が一読、興味を持ったことにあった。以来、時おり書簡のやり取りを行っている。
「半年ばかり来とらんな」
 熊楠はぽつりとつぶやいた。かねてから、男色関連の文献目録を作成していることは聞き及んでいた。その作業が佳境に入っているのかもしれない。
 仮に岩田からの手紙があったとして、返事の確約はできなかった。最近は手紙が送られてきても返さないことが増えた。目がかすみ、神経痛を患う熊楠にとって、書状一つ書くのも楽ではない。
「男色には浄と不浄がある」
 熊楠は思いつくまま言葉を口にする。それは、かつて岩田への書状のなかで記したことだった。
しおの出で、やましげろうはんろうちゅう兄弟がおってな。それはまあ美しく優秀な兄弟やった。我は米国に行く前、二人と契りを交わしたんじゃ。あら、浄のだんどうやった。二人とも若くして結核で亡くなった……」
 すでに幾度も聞かされているはずの話を、雑賀は真剣な面持ちで聞いていた。話している傍から、いつも通り「ときの声」が聞こえる。
 ——浄の男道やなんや言うちゃあるが、己を弁護しとるだけのこと違うか。
 ——そこに恋情は、淫欲は、欠片もなかったんか。
 ——兄弟と寝たんは、ほんまに友情のためだけやったんかのぉ。
 熊楠は、声々の喚くに任せていた。耳が遠くなり、他人の声を聞き取りにくくなった今、己の内側に響く声だけが透き通って聞こえた。

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