岩井圭也「われは熊楠」:第五章〈風雪〉——天皇への御進講
第五章 風雪
和歌山の町の空を、黒灰色の雲が塞いでいる。一昨日から降りはじめた雨は昨日の朝に止んだものの、依然、分厚い雨雲は居座っていた。漂う空気は存分に湿り気を帯びており、いつまた降り出すかわからぬ気配である。
一九二五(大正一四)年一月。
和歌山城からほど近い湊紺屋町の屋敷の一室では、差し向かいに座した兄弟が互いに沈黙を守っていた。障子と襖は閉ざされ、外から他者が様子を窺うことはできない。
兄は南方熊楠五十七歳、弟は南方常楠五十四歳であった。
熊楠も常楠も、土色の顔を伏せている。もはや双方、くたびれきっていた。この一年余、兄弟は金のことでずいぶんと揉めた。今日の話し合いでは二人きりで決着をつける見込みだったが、どれだけ話しても解決の糸口すら見出せずにいた。
「常楠」
先に沈黙を破ったのは、熊楠だった。
「まずは宅地だけでも、我に売却する。こっからやらんか」
「なんぼで?」
常楠は三白眼で兄を睨む。田辺にある熊楠の宅地は、常楠が購入したものであった。その宅地をいくらで熊楠に売り渡すかというのが、諍いの種の一つだった。今やその問題は、松枝の実家の田村家をも巻き込んだ厄介事となっている。
それから兄弟は少しだけ話したが、やはり堂々巡りで結論は出なかった。常楠は世を儚むようなため息を吐き、左右に首を振った。
「噓だけは許せない」
それはこの一年、数えきれないほど常楠の口から発せられた台詞だった。
「我はもう、一銭たりとも兄やんに出資する気ぃはない」
「噓吐いたんはお前のほうじゃ!」
激高する熊楠を、常楠は氷雨よりも冷たい目で見やる。その視線が、さらに熊楠の怒りを搔き立てる。
「奉加帳に名前書いちゃある者が、その通りに金を出さん。これが噓と違うかったら、何が噓か!」
この諍いは、熊楠が研究所設立のために寄附金を募ったことに発端がある。熊楠が指摘しているのはその点であった。
熊楠たちは、寄附者またはその予定者の一覧を奉加帳——本来は寺社へ寄進を行った者を書き記す帳面を指す——と呼んでいた。その奉加帳には、自筆で常楠の名前が記されている。金二万円という誰よりも高い寄附額とともに。
常楠は目をすがめ、口を尖らせた。
「何遍言わす。そいは毛利に言われて、見せ金として書いたんじゃ。我は心からそがな大金、拠出するつもりはなかった。せやさけ捺印もしとらん。法律家に訊いてみ、誰でも我が正しい言うわ」
「法律やない。人の情の問題じゃ」
「人の情ならなおのこと。弟に噓を吐くなんぞ、人道を外れちゃある」
常楠は一歩も退かない。もはや、決心は固いようであった。
三年前の十一月から、常楠は兄への送金を止めている。そのため熊楠の生活は困窮し、研究もままならぬ状況であった。それを知ってなお、常楠は態度を改めようとはしない。その憂い顔は、十代の頃から続く兄への奉仕に疲れきったようにも見える。
熊楠は拳を握りしめ、「情の薄いやっちゃ」と唾を飛ばした。
「我らたった二人、残された兄と弟じゃ。協力しおうて生き延びなあかんと思わんか」
女遊びと相場の末に破産した兄弥兵衛は、昨年、移り住んだ広島で亡くなった。和歌山の他家に嫁いだ姉くまが亡くなったのも昨年だった。末弟の楠次郎も四年前に故人となった。熊楠の兄弟姉妹のなかで、存命なのは常楠ただ一人である。
兄の哀願に対して、常楠の視線は冷たかった。
「協力しおうて? 兄やんは、南方酒造の商いにいっぺんでも協力してくれたか?」
「お父はんが遺した、我の遺産を使い尽くしといてよう言う」
「言いがかりはやめぇ。うちの家が何十年、兄やんに金を工面しとると思とんじゃ。どう頼まれても、出す金はない。去んでくれ」
野良犬を追い払うように、常楠は手を振った。己は獣だと宣告されたような気分であった。
「常楠、貴様ぁ!」
理性で抑え込んでいたものが一気に噴き出し、熊楠は弟に飛びかかった。ぶるぶると震える手で、袷の襟をつかんで引き寄せる。常楠は少し後ずさりつつ、目の前で歯嚙みしている兄の顔をじっと見据えた。
「兄やんに殴れんのか。ええ?」
反問する常楠は、肝が据わっていた。熊楠の足元にちらと視線を落とす。
「足、悪いんやろ」
熊楠の顔が赤らむ。実際のところ、常楠を殴れないのは良心の呵責というより、足の痛みのせいだった。酷使してきたせいか、十年ほど前から足が痛むようになった。日によって調子の善し悪しはあるが、今日は朝から膝が痛んでいる。熊楠は弟の襟をつかんだまま、身動きが取れなかった。
——我は、兄やんが一途に研究するためなら、家計を切り崩したってもええ。
かつて常楠は確かにそう言っていた。その弟が今では、兄へのあらゆる援助を拒んでいる。頑ななほどに。
——我らは、どっから間違えたんじゃ。
熊楠は強情な弟の顔を凝視しつつ、この十五年ほどの出来事を思い返していた。
神社合祀反対運動が落ち着いたのは、一九一三(大正二)年頃のことであった。この年までに、熊楠は合祀を止めるためあらゆる手段を講じた。
記事執筆の場は、牟婁新報から、大阪毎日や大阪朝日といった大手紙へ広げた。熊楠の存在は和歌山だけでなく、全国で知られるようになっていった。
並行して、著名な学者たちに反対意見を書き送り、運動を盛り上げるため腐心した。なかでも最も熊楠に協力的だったのは、民俗学者の柳田國男である。柳田は熊楠の執筆した長文の書簡二通に『南方二書』という題を付して印刷し、役人や学者たちに配った。
一九一八(大正七)年三月には、貴族院で神社合祀の廃止が決議され、名実ともに神社合祀は終結した。熊楠が運動をはじめて約九年が経過していた。決議の翌日にこの報を知った熊楠は、拳を掲げ、歓声を上げた。
——これで壊乱は終いじゃ! 神島は守られた!
熊楠の知るいくつもの神社が合祀の憂き目に遭った一方、田辺湾の神島は正式に魚付保安林に指定され、辛くも破壊を免れた。貴重な生態系を持つ神島を保護できたことは、熊楠にとって何よりの成果であった。
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