Bar California 雨とマルガリータ/ 西山健太郎
第二夜 マルガリータ
中洲川端駅で地下鉄を降り地上に出ると、菜種梅雨特有の、暖かさを感じる雨が路面を静かに叩いていた。
住まいのある西新から中洲の店まで、普段は運動を兼ねて自転車で30分ほどかけて通っているが、雨の日は地下鉄やタクシーを利用している。
中洲は雨が似合う町、というのが私の持論だ。
雨で濡れた路面にきらびやかなネオンサインが映り込み、中洲大通りやそこから枝分かれする細い路地に様々な色彩があふれ、この町の情緒をより煽る。
衣服や靴が濡れるのは気持ちのよいものではないが、雨降りの日に中洲の夜を歩くのは決して悪くない。
中洲川端駅から7分ほど歩き、那珂川沿いのビルの4階にある、自分の店の扉を開く。
店の奥には那珂川が見下ろせる大きな窓があり、窓一面に付いた水滴の向こうに、ネオンのきらめきが揺れている。
照明を点け、CDプレイヤーのボタンを押すと、「Hotel California」の長い長い前奏が店内に流れ、仕込みの時間の始まりを告げる。
西新から提げてきた竹製の買い物かごの中から、果物を取り出して冷蔵庫に仕舞い、ライムだけを厨房の台の上に残す。
カクテル用のジュースとして、買ってきたライムの半分は開店前に搾り、半分はカウンターの上の果物鉢に入れておくのが毎日のルーティーンになっている。
鮮やかなグリーンの果皮にナイフを入れると、店内に瑞々しい芳香が漂う。
「ライムやレモンの房の中央に詰まった白いワタは、付いたままだと苦味の元だから、綺麗に取り除いてから搾るんだ」
ホテルのバーでアルバイトをしていたとき、師匠が学生だった私に教えてくれた、そのときの光景が、20年近く経ったいまでも思い出される。
◇
雨のせいで、口明けからの来客は、1人、2人、2人の計3組。
日付が変わる頃には、音楽が流れ、適度な室温が保たれた、この贅沢な空間を私一人で独占する時間が訪れた。
シンクの脇に置いた木製の折りたたみ椅子に腰を掛け、ここ数日没頭している歴史小説の単行本を開く。
この商売、なるようにしかならない。
焦りや不安を覚えるよりも、港に停泊する風待ちの船のように、ただじっとして、その時が来るのを待つしかないのだ。
あと数ページで読み終わるという頃、入口の扉が静かに開き、スーツ姿の女性が入ってきた。
常連客の真理さんは、「中洲の不動産王」と称される父と「中洲一のマダム」と名高い母、その二人の間に生まれ、大学在学中に税理士の資格を取得。大学卒業後、福岡市内の税理士事務所に数年勤めたのち独立して間もなく20年。現在は社員十数名を抱え、中洲内外の店舗や企業の税務を担っている。
今日も今まで仕事だったようで、隣の椅子の上に置かれたバーキンの口からは、ノートパソコンと数冊のファイルに閉じられた書類の束がのぞいている。
「いつものを」という真理さんの手短なオーダーに、「承知いたしました」と返答しながら、シェイカーとショートカクテルグラス、冷凍庫から取り出したテキーラ、コアントロー、ライムジュースを並べていく。
カットしたライムでグラスの縁を湿らせ、塩を盛った皿の上で回すと、グラスの縁が白く彩られる。
日本では「スノースタイル」と称されるが、これは和製英語で、海外では「リムド」と呼ばれるのが一般的だ。
シェイカーに材料を注ぎ、素早くシェイクし、そっとグラスの脚を持ってコースターに載せる。
真理さんは一口味わい、「美味しいわ……」と言って、今夜初めての笑みを浮かべた。
「マルガリータ」は世界中のバーで飲まれているスタンダードカクテルの一つであり、テキーラをベースとしたカクテルの代表格といえるだろう。
メキシコ原産の多肉植物「竜舌蘭」の根元にある、デンプンを多く含んだその茎は、パイナップルを大きくしたような形なので、スペイン語でパイナップルを指す「ピニャ」という名称で呼ばれ、糖化・発酵ののち蒸留されてテキーラとなる。
厳密には、竜舌蘭を原料とする蒸留酒は「メスカル」と呼ばれ、その一種である「アガベ・アスール・テキラーナ」のみを使用し、テキーラ村のあるハリスコ州及び近隣の4州で生産されたものだけが「テキーラ」と称することができる。
近年では木樽熟成されたテキーラやメスカルへの注目度が上がっており、テキーラを主力に置くバーも全国的に増えている。
また、オレンジの果皮の風味を付けたリキュールのことを「キュラソー」といい、無色透明のホワイトキュラソー、木樽熟成したオレンジキュラソー、色素を加えたブルーキュラソーなど、いくつかの種類があり、そのうちホワイトキュラソーの代表格がフランス生まれの「コアントロー」で、カクテルだけでなく、料理や菓子を作る際にも広く使われている。
そのカクテル名の由来について特に有名なのが、1900年代半ばに開かれた全米カクテルコンテストで入賞したジャン・デュレッサー氏が、若くして亡くなった恋人の名前を付け、彼女に捧げるカクテルとして発表したという悲恋と情愛に満ちた物語である。
◇
不慮の事故で早世した私の師匠と真理さんが恋仲だったことは、中洲で長く働く人たちの間でも、ほとんど知られていない事実だろう。
マルガリータの最後の一口を飲み干した真理さんは、おもむろに果物鉢の中にあったライムを1つ手に取り、自分の前に置いた。
それを見た私は、真理さんのコースターから空になったカクテルグラスを引き、代わりにスコッチのシングルモルト「アードベッグ」のオン・ザ・ロックスを置いた。
そして、カウンターの上のライムの横に、ショットグラスに注いだアードベッグを添えた。
今日から彼岸の入り。真理さんと一緒にこの儀式を取り交わすのは、何度目になるだろう。
真理さんの目に浮かぶ涙に気づいて、私は入口脇の看板を照らすライトにつながるスイッチをOFFにした。
誰にでも思い出の酒がある。そしてバーとは、その思い出を味わう場所なのだ。
私は、自分の手元に置いたショットグラスに指を添えながら、雨に濡れた窓の外の煌めきを、静かに見つめた。
第二夜・了
[次回: 2022年4月下旬に更新します]
西山健太郎(にしやま・けんたろう)
1978年、福岡・赤坂の寿司屋の長男として生まれ、食と器、職人の技に魅せられ成長。大学進学で上京し、下町文化を満喫したのち帰郷。日々街を歩き、酒と食、アートや祭りを通して人の営みを愛す。
2017年2月、樋口一幸氏(Bar Higuchi 代表)と非営利団体「福博ツナグ文藝社」を設立。「ウイスキートーク福岡」「アートフェアアジア福岡」「フクオカコーヒーフェスティバル」をはじめ、市民が主催する演奏会・展覧会・講演会・演劇公演・映画上映会などの企画・広報に年間50件以上関わる。
福岡の食文化やBAR文化の魅力を発信する活動も精力的に行い、現在は福岡の“うまい”を探求するWEBマガジン「UMAGA/ウマガ」(https://umaga.net/)にて、福岡市内のBARを紹介するコラム「福岡フルーツカクテル紀行」を連載中。
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