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門井慶喜「天下の値段 享保のデリバティブ」#005

意気揚々と大坂に乗り込み、堂島米市場に御用会所を設立した江戸商人たち。春相場初日、彼らは我が目を疑った——

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第3章(承前)

 くにはその晩、むらおおさかとともにざきしんへ行き、「よし野」という料亭ののれんをくぐり、2階の座敷へ通された。
 ここで食事をしながらいつこんかたむけようと思ったのは、かつは気分転換のため、かつはじんの調査のためだった。もともと曽根崎という繁華街自体がどうじまから近く、市場関係者の多く集うところであるのに加えて、「よし野」は特に愛されていて、毎晩のように数人ないし数組のこめなかがいの客たちが来るため夜ふけまで灯りが絶えず、げんの音もつづくという。
 人気の秘訣は、いろいろある。
 わざわざ摂津国たみから取り寄せる酒のよろしさ、名物の蛸めしのうまさもあるけれど、何と言っても大きいのは女将おかみ以下、奉公人たちの口が堅い点で、これによって米仲買たちは女道楽にいそしむことも、同業者と密談することもできるのだとか。
 密談の中身は、ここでもやはり米の売り買い。なかには、
「昼に値段を決めるのは素人や。ほんまもんの商人は日暮れてから目が光る」
 などとうそぶく者もある由で、そういう店へ行ってみれば大坂という土地のがらについて、あるいは大坂商人の行動の傾向について、何かしらげる空気も、
(ある)
 紀伊国屋は、そう見込んだのである。
 2階の座敷に通されるや、床柱を背にする席を占めると、紀伊国屋から見て右に野村屋が、左に大坂屋が、それぞれ向かい合うように正座した。襖をあけて女将が来たので、紀伊国屋が、
「とりあえず刺身と、何か2鉢、3鉢見つくろってくれ。お銚子は2本ずつ、うんと熱くしてな。それっきり呼ぶまで入って来るな」
 すらすら言ったのは、江戸ではいつもそうしているからである。女将が、
「刺身いうんは、お造りのことで?」
「お造り?」
「お魚の、きのいいのを割きまして、生身のままお醬油で……」
「それだ、それ」
「かしこまりました」
 女将は、一礼して退室した。ほどなくして女中たちが来て、膳をならべ、しゆこうを置いて出て行った。
 座敷は、3人きりになる。
 浜辺の波のように他の席のさざめきが耳に入るが、気になるほどではなく、これならば自分たちも普通の声で話しても向こうには聞こえないだろうと紀伊国屋は思った。それでも野村屋が箸で刺身をつまんで、
「鯛というのは、何かぺらぺらしてますな。鮪のほうがよっぽど頼りがいがある」
 あるいは大坂屋が大根と錦糸卵の酢のものを口へ入れて、
「味が薄いな。醬油がほしい」
 などと他愛もない江戸との味くらべをしたのは、何となく場慣れがしたかったのにちがいない。大坂屋が1本目の銚子を置き、例の上っ調子で、
「きょうの寄り合い、みんな恐れ入ってましたねえ、紀伊国屋さん」
 と、ようやく本題に入ると、紀伊国屋も杯を置き、
「そうでしたか」
「そうですよ。せきとして声なし。まあ連中もあんまり堂々と逆らうわけにもいかないし、まずは様子見ってとこでしょうが」
「どうかな。あたしは大広間で話をしながら、肌で感じたんだが」
 と、そこで声をひそめて、
「連中はたぶん、あたしの話、前もって知ってた。もう何日も前にね」
「まさか」
「まさか」
 と野村屋も同時に目をいた。紀伊国屋は表情を変えず、
「知っていたから、事新しく質問する必要もなかった。そういうわけです」
「だとしたら、どうやって知ったんです。もしや、もしや、われらの奉公人のなかに裏切り者が……」
 と野村屋が紀伊国屋のほうへ体を向けるのへ、
「それはないでしょう。よく考えれば簡単なことです。このたびのお触れは江戸ではもう出してるわけだから、誰かが筆で書き取って、東海道をずんずん走りだせば、あたしたちよりも先に着くわけで」
「おことばですが、紀伊国屋さん。おかみの早馬じゃあるまいし、はたしてそこまでやりますかねえ。どのみちお触れは大坂でも出るんだ、それを待てばいい話じゃありませんか。たかだか何日か早く知るために……」
「その『何日か』が大事なのだろうね。それに連中にしてみれば、実際には、そんなに手間にもならんと思う。たとえばみつこうのいけのごときなら、江戸にも大坂にもおおだながある。もとから人の往来はしばしばだから」
「……」
「少なくともあたしたちは、これからは、連中がすべての定めを知っていると思うほうがいい。そうして策も講じている。すべての定めに対してね」
 最後のところを強調すると、大坂屋が、
「あっ」
 箸を持ったまま両手をあげ、すっとんきょうな声を出して、
「ってことは、紀伊国屋さん、きょうはわざと話さなかったくだりがある。そのことも……」
「むろん」
 と紀伊国屋は冷静に言い、杯を取って口に運び、
「むろん、知っているでしょう。こっちがいちばん知られたくないことだ」
 杯を置いた。
 いちばん知られたくないこととは、集めた金の使い道だった。というのも、このたびの定めにより、紀伊国屋たちのようかいしよは、いろいろな仕掛けで大坂の米仲買から金を集めることができる。
 集める手段は、前述[二]および[三]によるこうせん(手数料)やら預け入れやらの規則である。まとまれば決して少なくない額になるはずだけれども、その金は、じつは紀伊国屋たち3人のふところを直接あたためてくれるわけではない。
 なぜなら3人は、幕府より別の義務を課せられているからである。このたびの口銭や預け入れの規定は、実際には、その義務で生じると思われる損失をあらかじめてんするという意味あいが強いのである。
 ならばその別の義務とは何か。まいである。具体的には、3人は、大坂で口銭等を徴収しつつ、これから江戸市中で10万俵の米を買い集めることもしなければならないのだ。
 10万俵というのは、単純にこくだかに換算すれば35000石。小さな大名の所領に匹敵するほどであり、そのために費すお金は約30000両にものぼるだろう。
 手間もぼうだいになるだろう。その買い集めがようやく終わって、10万俵の現物をそっくり浅草御蔵(幕府の米蔵)へ納めたら、その後はどうなるか。まずは御蔵の役人が米切手を発行する。
 そう、江戸にも米切手はあるのである。ただし江戸の場合には、そもそも街のなかに大坂のような開かれた市場が存在せず、米の値段は基本的に少数の米問屋たちによる密室での談合によって決まるので、米切手も投機の材料にはなりにくく、どちらかと言えば単なる引換券に近いような性格のものになる。とにかく役人が発行したら、それら引換券の紙束はただちに大坂へ送り届けられ、そこで入札に付せられる。
 ぜんぶ売れれば、その代金は紀伊国屋たちの収入になる。こうして全体的に見れば江戸の市中から10万俵が消え、そのぶんの米がそっくり大坂に放出されることになり、江戸の米価は上昇する。大坂の米価は下落する。少なくともそれを期待することができる。
 これが幕府の目的なのである。江戸の米価が上昇すれば、それはすなわち旗本、御家人の実質的な給与の上昇につながるのである。幕府としては現金、現銀の輸送もせず、もちろん米の現物の輸送もせず、ただ紀伊国屋らにせっせと江戸で米を集めて大坂で売らせるだけで部下の忠誠を強化できるわけだからあんばいがいい。大きな計画の絵はなかなかうまく描けているわけだった。
 しかしながらこの仕掛けは、構造的に、1つ大きな弱点がある。
 それは東西の価格差である。何しろ全体で10万俵などという派手な買いものをしでかしたら、いくら閉鎖的な江戸の市場でも、敏感に反応するのは当然である。
 要するに、値段が上がる。かりに1万俵ずつとか、2万俵ずつとかいうふうに分割したとしても結果はあまり変わらないだろう。ところがそのぶんの米切手を大坂で売れば、逆の事情により、こんどは値段が下がってしまう。
 下がると知りつつ売り払わなければならないので、紀伊国屋たちは、差し引き0というわけにはいかない。損が出る。その損害の規模がどれほどになるかを予測するのはむつかしいけれども、幕府はそれを、まずざっと総予算の1割ほど、金額にして3000両かと見込んだ。
 その上で、制度を設計した。例の[二][三]における利息、すなわち口銭が1石につき銀2分だの、預け入れの手数料が銀1貫目あたり1日4分だのいう数字は、この3000両の損を埋めるものとして設定されている。ちゃんと根拠があるのである。
 とはいえこれは、まあほうさくである。大きな絵のすみっこに黒い穴のあいたのへ、ぴったり布を当てるようなもの。これもおおおかただすけに言わせれば、
「おかみの格別の温情をもって、収支あいつぐなうよう配慮してやる」
 というところなのかもしれないが、しかし紀伊国屋たちの側からすれば、この制度下では、収支相償うどころか大損をこうむる恐れがある。
 早い話が、例の東西の米価の差、総予算の「1割」という予測である。もしもこれが実際2割になったとしたら、とてもとても、これしきの利息収入では補いきれない。逆にもし0割(価格差なし)になれば利息はまるまる取り分になるわけで、紀伊国屋たちには、かくして明確な損益分岐点がある。
 たしかに幕府は「配慮」したのである。難儀な大坂出張をあえて引き受けた理由の1つはこのへんにあるのだが、ただしこういう事情をあんまり最初から大坂商人に対して細かく呈示してしまったら、それはそれで藪蛇というか、足をすくう材料をみすみす与えることになりかねない。
「そんなわけだから、あの寄り合いでは、わざと話すことはしなかった」
 紀伊国屋はそう言うと、また杯を口に運んだ。箸を取り、鯛の刺身をひときれ口へ入れてから、
「何しろ前例のない政策おしおきだしね。もちろんこのからくりは、或る程度まではお触れにも出ているし、連中は、騒ごうとすればいくらでも騒げるのだが。『何やねん、俺らは江戸の侍のかねづるかいな』とか何とか」
「そうですな」
 とつぶやいたのは、野村屋だった。
 野村屋は、まだ紀伊国屋へ体を向けているのだ。苦笑いして、
「こっちとしちゃあ言い返しにくい。事実そうだから」
「いずれ騒ぐんじゃありませんかね」
 と口を挟んだのは大坂屋である。本人としては冷静な意見のつもりなのだろうが、こんなときでも口調が軽いので、紀伊国屋はむっとした。大坂屋のほうへ向き直って、
「そうかもしれない。だとしてもあたしはその『いずれ』がほしいんだ。とにかくいまは大過なく、滞りなく、この新しい規則さだめをしっかり船出させることが一大事だ」
「なるほどねえ」
 大坂屋はあっさりしゆこうすると、膳の上の徳利を取り、手酌で杯へ注ごうとした。
 ただの一しずくも垂れて来なかった。それでも大坂屋は徳利をさかさにして、まるで叩きつけるようにして未練がましく何度も下へ振りながら、
「いや、うん、わかりました、紀伊国屋さん。あたしはどこまでもついて行きますよ、うん。江戸の侍ばかりじゃない、われらも長者になりましょうよ。とはいえ、せっかく来たんだ、ときには少し上方のはなしを聞きに行く日があってもいいかも」
 と言ったので、野村屋が顔をしかめて、
「また、あんたは。遊ぶことばかり」
「いやいや、大坂屋さんの言うとおりだ」
 と紀伊国屋が苦笑して、杯の酒を飲みほしてから、
「あたしたちはあくまでもごこうの看板で大商いがしたいのであって、ご公儀のために命を投げ出したいのではない。働きづめは体に毒だ。さあさあ、剣呑な話は終わりにしよう」
 杯を置き、手を打って女将を呼んで、
「待たせたな。話は終わりだ。酒を……そうだな、もう2本ずつ持って来てくれ。肴も2、3品。げいも呼べ」
「かしこまりました」
 しばらくして紀伊国屋、野村屋、大坂屋それぞれに芸妓がついて、手酌の必要がなくなり、他愛ない話に花が咲いた。大坂屋は杯を重ねるうちそうごうをくずし、自分の芸妓の肩を抱いて、
「なあ、なあ、きんつるさんや、きん鶴さん。ここに芸人呼べないかな。江戸のもん一門もおもしろいが、やっぱり芸事は何でも上方だよ。上方の噺が聞きたい」
 野村屋ははじめ、
「何です、あんた。調子いい」
 とか、
「江戸にいたときはかたばなしはやっぱり江戸流に限る、武左衛門に限るって」
 などといちいち口を出していたが、それにも飽きたのだろう、ひとりでぶつぶつ、
「これが名物の蛸めしかね。ふん、やっぱり味が薄い。こんなのばっかり食ってるから大坂のやつらは人間まで芯がないんだ」
 と、それでも4膳たいらげて腹をでた。
 紀伊国屋は、もう少しまじめである。芸妓のほかに女将もそばに座らせて、
「野村屋さんは意地張りだからああ言うが、大坂で首尾よくやろうとするなら、大坂の気分を知らんとな。あたしたちのここまでのふるまいで、何か変というか、大坂らしくないところがあったら遠慮なく教えておくれ」
 を低くして問うた。女将はあごに指をあてて、小首をかしげ、
「どうやろ……あ、あれ」
「何だね」
「はじめのとき、呼ぶまで入って来るな言うて、うちら追い出しましたやろ。あれはお人払いいうんかな」
「江戸では当たり前のことだがね」
「大坂のお客さんは、あんまりやらん気ぃしますな。何かしらん、水くさい」
「大坂にだって内輪話はあるだろう」
「もちろんあります。せやけどみんな、そんなもん、どっかの道ばたのてんすいおけの陰でちゃちゃっと済ませて来はるんとちがうかな」
 と女将が言う。決してきよごうな口調ではなかったけれども、紀伊国屋は目を細め、大きな音を立てて杯を膳に置いて、
「何を申す」
「えっ」
おもては、大坂とはちがう」
 赤い顔をぐらぐらさせつつ、とうとうと説教しだした。
「江戸表には、お武家様がたくさんいる。商人もそのふうを受けて、起居の折目正しさを重んじている。ただ用に立てばいいというようなずぼらな暮らしはしておらんのだ」
「あ、それは、えろすんまへん」
 女将はあわてて腰を浮かし、頭を下げる。顔で恐縮の意を表しながらも、2、3分ほど笑みを残して、
「そらもう、お江戸はとくがわ様のお膝元ですよって。みなさんしゃんと歩いてはる。立派なもんや。うちらみたいなあしの散り葉とはちがいますな。それはもう」
「行ったことは?」
「ありまへん」
「なら何も言えんではないか」
「すんまへん」
「酒を」
「はい」
 夜がふけて、3人は「よし野」をあとにした。
 ほかの茶屋ではまだ笑い声やきようせいが響いていて、その声は、7、8分ほど歩いて堂島ふなだいまちの御用会所に帰ってからも聞こえて来た。
 やっぱり大坂はうるさい街である、という確たる結論を抱きつつ、3人は夜具にもぐりこんだ。
 3人とも、明け方にたくさん水を飲んだ。酔いざましのためもあるけれど、元来が、大坂は江戸より暖かいのである。

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