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太田愛『ヨハネたちの冠』 #002

不可解な行動を繰り返す姉、同じ名前を名乗る2人の男……。この町で、何かが動き始めている

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第二章 自転車がつなぐ

 は枕元の時計が鳴り出す前に目を覚まし、アラームのスイッチを切った。午前五時四十五分。隣に敷いた小さな布団ではが健やかな寝息をたてている。当分のあいだ母さんには無理そうなので、夜はとうと交替で理久をみることにしていた。
 ゆうべは今日の計画のことを考えて寝つかれず、結局、午前二時近くまで理久の寝顔を眺めていた。今、カーテン越しの柔らかな光を受けた理久の寝顔を見つめながら、青明はとうとう夜が明けて今日が始まってしまったのだと強く思った。
 そっと抱き起こすと理久がぱっちり目を開けた。起きるときも寝つくときも、理久はほとんどぐずることがない。それだけで青明たちはどんなにか助けられているのだが、時おり、一歳半の幼児なりに周りを気遣っているようにも感じられてびんになることがある。
「さあ、お着替えですよ。また良いお天気でいいかげんき飽きしますねー」
 話しかけながらおむつを替え、ベビーローションを手に取る。理久はもともと乾燥肌なのだが空梅雨のカラカラの大気のせいでいつもよりひどく、入浴後と起床後にはローションを使うようにしている。青明はローションの容器を逆さに振って最後の一滴までしぼり出し、手のひらで温めて理久の全身に丹念に塗った。理久の着替えをすませ、空のローションの容器とスクールバッグを持って一緒に階下に向かう。
 一階は妙にしんと静まり返っていた。
「透矢?」
 声をかけながらリビングに入る。誰もいない。奥の台所の方にもひとけがない。さては寝坊したな、と思った途端、理久が「ぶぶぅ」と声をあげて縁側の方へ走り出した。「待て待て」とバッグを放り出して追いかけ、抱き上げる。すると理久が指さす先、庭の物干しいっぱいに洗濯物が揺れていた。理久お気に入りの車の柄のロンパースもあった。だが、透矢の姿はない。
 青明はとにかく理久を抱えてリビングに戻り、おもちゃ箱から積み木とボールを出して理久の前に置いた。五個セットの積み木は区からの出産祝いにもらったもの、ボールは保育園の懇親会でもらったもので、遠くに転がらないよう取っ手がついている。とりあえずこの二つを与えておけば、しばらくのあいだ理久はひとりで没入して遊んでいてくれる。
 立ち上がろうとして青明は初めてソファの上に理久の通園バッグと水筒が用意されているのに気がついた。急いで台所に行くと、テーブルの上にラップをした理久の朝ご飯と大判のハンカチで包んだ青明の弁当が並んでいた。これだけのことをすませるには、まだ暗いうちから起き出して準備したに違いない。しかし透矢はこんなに朝早くからどこに行ったのだろう。
 弁当箱に触れるとまだ温かかった。
 不意に透矢に悪いことをしたという自責の念にられた。ゆうべの鶏五目ご飯もカニかまクリームコロッケも手のかかるごそうでとても美味しかったのに、夕飯の時は今日の計画で頭がいっぱいで、透矢にそうと伝えそびれてしまった。
 水切りラックに目をやると、ゆうべ透矢が母さんの部屋へ運んだ食器が洗って伏せてあった。夜のうちに少しは手をつけてくれたのだろう。
 スクールバッグに入れておこうと弁当箱を手に取ると、下に二つ折りにした紙片が置かれていた。開くと次のようにあった。
『なにか伝染する病気で一週間くらい休むと学校に電話してください 透矢』
「なるほど」と、思わず青明は声をあげた。伝染する病気となれば、治るまでHASハスは家に来ない。おまけに母さんも透矢の看病を口実に仕事を休める。青明自身、母さんが今日も欠勤すればきっとHASが来るだろうとしていたから、これは名案としかいいようがなかった。
 しかし、ここまで考えられるのなら『なにか伝染する病気』という雑なくくりでなく、もう少しもっともらしい病名くらい思いつきそうなものだろうに。青明は苦笑を堪えて透矢のメモを読み返した。このおおざつさが実に透矢らしかった。
 とりあえず病名は、以前に家族全員がかんしたことのある新型コロナにすることにした。理久が生まれる前だったが、高熱が出てゼリー飲料しか喉を通らずひどい目に遭った。コロナなら一週間近くはかせげる。透矢の学校と母さんの職場には、検査キットで陽性だったと言えばいい。
 電話をする前に空のローションの容器を不燃物用のゴミ箱に捨てようとふたを開けた。すると昨日の回収日に出したばかりなのに、ゴミ箱の底に、不透明な白いビニール袋に入った何かが捨てられていた。その袋のちぎれんばかりに引き絞られた固い結び目は、どこか尋常でない感情を想起させた。
 青明はそっとビニール袋を取り上げて流し台に置いた。それから結び目につめを立て、力を込めてほぐしていった。白いビニール袋の中にはスマホのざんがいが入っていた。まるで何度も何度も激しくかなづちを打ち下ろしたように破壊されており、ボディの背面のラベンダー色でようやく母さんのものとわかるほどバラバラにくだけていた。
 そういえば、しばらく前から母さんが寸暇を惜しむようにスマホを見ては、テキストを打ち続けていたのを思い出した。とても真剣な顔をして、時には数十分もかけて長い文章を打っていた。それまでは家事の手が空けばいつも理久と遊んでやっていたのに、人が変わったようにスマホを離さなくなっていた。
 それでも、母さんがここ数日のように荒れて何もかもほうてきしてしまうのは初めてのことだ。今回のことに、このスマホの件が関係しているのは間違いないと思った。
 青明は白いビニール袋を元のように結んで不燃物のゴミ箱に戻した。考えるのはあとだ。今朝は家を出る前に電話を合計四本かけなければならないのだから。
 リビングに取って返し、理久がボールに抱きついて遊んでいるのを横目で確かめて固定電話の受話器を取る。祖父母が生前に使っていたものだが、スーパー教育特区では学校への欠席の連絡は固定電話からと定められているのだ。まずひらぎたに小学校、次に母の職場に電話し、透矢が新型コロナに罹患したのでしばらく休む旨を伝えた。それからスクールバッグからノートを出すと、白いページの一枚を破りとり、母さんに宛てて一週間近くはHASも来ないし仕事も休めるという手紙を書いて、ふすまのあいだから部屋へ差し入れた。
 急いで身支度し、二階に駆け上がって制服に着替える。二階廊下の一方の端は透矢の部屋、もう一方の端は明かりとりの窓になっており、その下に子機を置いた電話台がある。残りの二本の電話はこの子機を使う。話すべき内容はすでにスマホに録音してある。
 子機を手に自室に戻り、時刻を確かめる。予定を少し過ぎているが、登校した教師たちが部活の朝練指導に向かう慌ただしい時間帯だ。そこを狙って電話をすれば、短いやりとりですむ。スマホには変声アプリで母親らしい大人の声に加工した青明の声が録音されている。中等部三年のこん青明の母親と、高等部一年のむらの母親の声が同じであっても、そもそも職員室が別なのだから教師に気づかれる恐れはない。それぞれの母親を名乗り、具合が悪いので今日は休ませるという録音の声を子機で流すと、案の定、どちらも「わかりました、お大事に」という短い応答で通話は終了した。第一段階完了。
 青明はサブバッグをつかんで部屋を出ると、子機を元に戻して階下に向かった。理久がおとなしく積み木をいじっているのを見てほっと胸をなで下ろす。
「ごめんねー、お腹空いたねー」
 弁当をスクールバッグに入れると理久を抱き上げ、エプロンをつけさせてご飯を食べるのを見守る。青明自身はさすがに今日は何も食べる気にならなかった。
 足元のサブバッグに目を落とす。中には私服が入っている。
 青明は頭の中で計画をはんすうした。
 いつもどおり柊谷駅で沙由未と待ち合わせて、普段と違う車両に乗る。登校の際、生徒はたいてい最短で乗り換えができる車両に乗るが、今日は万が一にも途中で同じ学校の生徒にそうぐうしたくない。しん宿じゆく駅で降りてトイレで私服に着替える。それから中高生に見えないように少しメイクをして、西口のスターバックスコーヒーで時間を潰す。去年の学園祭で使ったメイク道具を貸してとクラスメイトに頼んだら、裕福な彼女は気前よく「あげる」といって使いかけの道具一式をくれた。おかげで練習は充分。九時半にスタバを出て地下鉄でへ向かう。
 五月に事実がわかってから、一日一日、状況は悪くなる一方だった。
 でも、それも今日で終わる。
 予定どおり、今日決着をつける。あとはもう祈るだけだ。

 陽射しをさえぎるもののない造成地は、立っているだけで顔も腕もチリチリとして痛いほどだった。透矢は、かけが朝はここで食べると言っていたので早くから来て待っていた。リュックを背負って、靴も昨日のように学校の上履きではなく母さんがリサイクル通販で買っておいてくれた運動靴を履いてきた。体の成長を見越して少し大きめのを買っていたからブカブカしたが、そこはつま先にティッシュを詰めるという工夫で調節していた。
「おーい」と元気な声がして、翔流が嬉しそうに大きく手を振りながら走ってくるのが見えた。片手に小さな紙袋を握っている。翔流は飛び跳ねるように駆けてくると、そのまま透矢の腕を摑んで「こっち、こっち」と、造成地の奥の遊歩道の方へ引っ張っていった。
「ここが特等席。なんつっても唯一の日陰だからな」
 そう言って翔流は地べたに腰を下ろした。
 遊歩道の入り口はフェンスや板でふさがれていたが、その上に葉をいっぱいにしげらせた大きなきようちくとうが枝を伸ばし、テラコッタ色の造成地の地面にちょうどSサイズのピクニックシートほどの影を落としていた。透矢は初めて気づいて翔流の隣に座った。
「ひょっとしたら透矢が来てんじゃないかと思ったんだ。坂の下に自転車があったから」
 柊谷小学校に通う児童の自転車には、泥よけの部分に校章をかたどったステッカーがでかでかと貼られているのだ。それで翔流は、透矢かも、と思ったらしい。翔流が早速というように身を乗り出して尋ねた。
「で、ニセモノのふじくらのこと、どうすんだ?」
「とりあえず伝染する病気ってことで一週間くらい学校休むことにした。そのあいだになにか方法を考える」
「じゃあ自分も考える。ちょっと頼りにしてな」
 翔流がニッとほほんで紙袋の口を開いた。途端になんともいえない香ばしいパンのにおいが広がり、翔流が差し出した紙袋を透矢は思わずのぞき込んだ。パンの耳ばかりがたくさん入っていた。
「焼きたてなんでね、ビニール袋だと湿っちまう。そんで紙袋。これ全部で十円」
「十円⁉」
 駄菓子なみの値段に仰天した。
「だから早く行かないとなくなるんだ。なんにもつけなくても旨いからな」
 一本渡してくれたのを食べてみた。確かに独特の風味があってそのままで充分に美味しかった。
「でも、これをつけると、また別次元の旨さになる」
 翔流はカーゴパンツの数あるポケットのひとつから、ポーションタイプのガムシロップを取り出した。
「父さんがたまにコーヒーが飲みたいって言うんで、そんときにコンビニでがっつりもらって溜めとくんだ。コーヒーに同量のガムシロップを入れちゃいけないって法律はないからな。ま、ひとつやってみ」
 パンの耳をガムシロップに浸して食べてみた。焼きたての香ばしいパンにガムシロップのジャンクな甘味が溶け込み、禁断の旨さとなって透矢の脳を直撃した。
しびれるだろ」
 透矢は激しく頷くと、自分のリュックを開けてラップに包んだ特大の三角おにぎりを二つ取り出した。鶏五目炊き込みご飯で作ったおにぎりだった。
 翔流がびっくりした顔で訊いた。
「母さんが作ってくれたのか?」
 透矢は親指で自分を指したあと、リズミカルにおにぎりを握る仕草をしてみせた。
「透矢、おにぎり三角に握れるのか⁉ 超すげぇ」
 翔流はまるで透矢が三回宙返りを決めたかのようにきようたんした。透矢はすかさず提案した。
「な、俺のおにぎりとパンの耳、交換しないか」
「ディール!」
「なんだ? 『ディール』って」
「『交渉成立』ってやつ。海外の連ドラとかでよく出てくるだろ?」
 翔流におにぎりを手渡しながら、透矢はなにか少し引っかかるものを感じた。確か昨日、家のテレビは随分前に壊れたと翔流が言っていたからだ。
 翔流は鶏五目炊き込みおにぎりにかぶりつくと、目と鼻の穴を同時にまん丸にした。その表情が、しようげき的に旨いという感想をなにより雄弁に物語っていた。口の端に飯粒がついていたが、次の大きな一口でたちまち回収された。
 昨晩の夕食の時の青明はなんだかうわの空だったし、母さんは、部屋に夕食を運んでも布団の中で向こうを向いたまま小さく「ごめんね」と言っただけだった。
 透矢は、家族の誰よりも大喜びして夢中でおにぎりを頰張る翔流を見るうち、壊れたテレビのことなんてどうだっていい、つまらないことに思えてきた。そしてシロップつきのパンの耳を心ゆくまで味わうことにした。翔流はひたすらおにぎりをもぐもぐやりながらも、カーゴポケットから追加のシロップを出してくれた。
 木陰の朝食はまたたくまに終了し、透矢は水筒に入れてきた麦茶で、翔流はこれまたカーゴパンツから取り出した五百ミリリットル入りペットボトルの水で一息ついた。
「翔流、パン屋が休みの時はどうすんだ?」
「ま、月に一、二回だけどな、ちょっとぜいたくする。駅の反対側の立ち食いでミニカレー丼百五十円。昨日はパン屋、休みだったからそっち行ってた」
 一日違っていたら会えなかったんだと思うと、透矢は今日、休みでなかったパン屋に感謝したい気分だった。翔流が今度はポケットから一握りのキャンディを取り出した。
「好きなの取りな」
 透矢は昨日、翔流が顔をしかめて黒糖飴を食べていたのを覚えていたので、苦手な黒糖を取ってやるのがいいのではないかと手を伸ばしかけたが、翔流に「それはやめとけ」と言われてグレープ味のキャンディを取った。それから、「そんじゃ、俺も」とリュックからちょっと得意な気分で、昨日買ったさくらんぼ餅を出してみせた。『サンキュー』という言葉を期待していたのだが、返ってきたのは予想外の反応だった。
「透矢、ひょっとしてそれ、店で買ったのか⁉」
 翔流はとんきような声で訊いた。店以外のどこで売っているのだろうといぶかりながらも頷くと、翔流は急に真面目な顔になって透矢に向き直った。
「いいか、このキャンディは全部ただ。ゼロ円。だから透矢も無駄に金使わなくていいんだ」
 翔流によると、キャンディは駅前の調剤薬局に行けば無料で入手できるのだという。扉を入ってすぐ、健康食品などの陳列ケースの上にキャンディを盛ったカゴが置かれており、『ご自由にお取りください』と紙に書いてあるらしい。
「もちろんこいつを手に入れるにはちょっとしたコツがいる。薬局の前、それもカウンターから死角になる場所に立って、向かいの耳鼻科から出てくる人を待つ。十中八九、処方箋を持って薬局に直行するから、その人のすぐ後ろについて入って、カゴからパッと一摑みしたら即、逃げる。自分、あそこの若い女の薬剤師に目の敵にされてるから、ぐずぐずしてるとカウンターの向こうからキーッてなって出てくるんだ」
 それで選ぶ暇がなくて黒糖飴が交じってしまうのだと得心した。翔流は今日は黒糖飴を避けてレモン味のキャンディを口に放り込んだ。
「なんか処方箋もらえるような病気になれば楽なんだけど、自分、病気とか全然なんないんだよなぁ」
 残念そうな顔で言う翔流が透矢にはなんだかおかしかった。
 翔流はほかにもただで水を飲める場所などをいくつも知っていた。空のペットボトルを水筒代わりに持ち歩いて補給するのだという。
「自分ち生活保護だから、自販機でジュースとか買ってると暇な奴がネチネチ言うしな」
 生活保護と聞いて透矢は尋ねた。
「もしかして、翔流んとこも俺んちみたく母子家庭なのか?」
 教室の〈ひそひそ〉で、『母子家庭だから貧乏で生活保護を受けてるんだって』と嫌というほど聞かされてきたからだ。翔流は奇遇だといわんばかりに明るい声で答えた。
「へぇ、透矢のとこもひとり親なんだ」
「父親に若い恋人ができたみたいでさ。よくわかんないけど、あっという間に父さんが抜けて、母さんと青明、あ、青明って中三の姉貴な、それと俺と一歳半の理久が余ったって感じ」
「うちは同じひとり親でも父子家庭。けど父さん、普通に働けないんでね」
 翔流は初めて少し寂しそうな苦笑を浮かべた。しかし、すぐさま何かをばんかいしようとするように一気に喋り始めた。
「でも父さんは勉強が好きで学校の成績なんか凄く良かったんだぜ。だから本当は大学まで行って医者になりたかったみたいなんだけど、七人兄弟の四番目でさ、貧乏人の子だくさんってやつ。とにかく親が早く自立してくれってんで、中卒で仕立屋の見習いになったんだ。そこからめっちゃ頑張って、三十ちょいでオーダースーツをまるごと任されるくらい腕のいい職人になったわけよ。ちょうど自分が誕生したあたりな。その頃はじゆんぷうまんぱんって感じで、そのうち独立して小さい店を持とうか、なんて話が出始めたところで人生暗転したっつーか。父さん、運が悪いのな。ありえねーような災難が降ってきた」
 翔流の父さんは建設現場脇の道を歩いて、鉄骨が落ちてくるという事故に遭遇したらしい。目の前をベビーカーを押した女の人が歩いており、とつにその人を突き飛ばして、鉄骨の下敷きになってしまったという。ちょうど翔流が幼稚園の年長組の時のことだったそうだ。
せきずいってのをやられて左脚にが残って、右手は親指から中指まで三本ともけんが切れて結局、動かなくなっちまった。はさみもミシンも使えないんじゃテーラーはおしまいだ」
「それって、事故を起こした会社がなんかして責任取らないとおかしいだろ」
「だよな。園児の頃はわかんなかったけど、大きくなって自分も父さんに同じこと訊いた」
 事故を起こしたのは保険にも入っていない小さな下請け会社で、親会社は偉そうな弁護士をよこして、事故は親会社が指示しておいた安全対策を下請けが勝手に無視したせいで起こったものであり、当方は無関係という立場を貫いたらしい。下請けは親会社に逆らえないから事実は違うとも言えず、しまいには、一度に賠償金を払ったら会社が潰れて社員とその家族が路頭に迷うと泣きついてきた。翔流の父さんは月々に払えるだけの分割でいいと承知したという。
「それでも母さんがいた頃は、父さん、リハビリとか気合い入れてやってたんだけど、あれってちっとも良くならないと無駄に心折れるのな。そんなだから母さん、具合悪くても無理して元気そうにしてたんだと思う。病気がわかった時はもう手遅れでさ。母さんの通夜で父さん初めて酒をんでね。それまでは全然吞めないってやつだったんだけど、今は毎晩吞まれてる」
「吞まれるって、誰に?」
「酒に」
「ああ……」
 間抜けなことを訊いてしまったとほぞんだ。
 翔流は母さんが死んだあと、父さんと二人でこの町に越してきたのだと言った。
「父さんはたまにシール貼りとかの仕事もするけど、基本、障害年金とか色んな手当とか、それでも最低生活費に届かないぶんは生活保護ってわけ。でも、金がないのを恥ずかしいとは思ってない。自分は大人になったら働けるし、第一、金なくて恥ずかしいなんて思ったら、あいつらの思うつぼだからな」
「あいつらって?」
「HASみたいな連中だ」
 翔流は短くなった夾竹桃の影を睨んでいた。乾いた大気に今年初めてのニイニイゼミの声が響いていた。
「あいつらは、自分たちより下の人間は心が弱くてだらしがないから、こんな生活をする羽目になったんだと信じてる。だから、他人の家にズカズカ踏み込んできて、人の心を拳でボコボコにぶん殴るみたいにして自分らの思いどおりの形に矯正しようとする」
「……俺んちにも来てる」
 透矢はHASが何の前触れもなく突然、現れた日のことを生々しく思い出した。
「なんか不思議だよな。嫌なことって、何十回も観た動画みたいに隅々まで覚えてんの。死んだちゃんちに越してきて二週目の土曜日で、母さんが久しぶりにキャロットケーキを作ってて、青明が理久のおむつを替えてて、俺は母さんの履歴書に写真を貼ってた。隣の駅にある洋菓子店の厨房の仕事で、もう面接の日も決まってたんだ」

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