イナダシュンスケ|味噌煮のロマン
第9回 味噌煮のロマン
かつて日本の農村の標準的な食事はどのようなものであったか、という話を聞いたことがあります。
ご飯は雑穀米、しかも米より雑穀の割合が多いのが当たり前でした。おかずは野菜のみ。漁村でもなければ魚は滅多に食べられませんし、肉はそもそも食べる習慣自体がありませんでした。
その野菜は基本的に家の畑で採れたものです。何種類かの野菜を並行して育てていても、採れるときには1種類の野菜だけが大量に採れます。その野菜をまとめて味噌で煮込んだものが日々のおかず。それを一度に食べきるわけではなく、残ったら戸棚にしまい、時々は煮返して、なくなるまでは毎日それです。ようやくなくなる頃には次の野菜が採れ、それをまた味噌で煮て……その繰り返し。菜っぱ、なす、かぼちゃ、さやいんげん、大根、そういった野菜が季節ごとに登場します。冷蔵庫もない時代に何日も持たせるわけですから、味噌の味付けはかなり濃いめでしょう。貴重品だった砂糖や味醂で甘味が加えられているわけでもなく、ダシなんてもちろん入っていません。純粋な味噌味だけの味噌煮です。
それはあまりにも貧相な食事です。現代人にはとてもじゃないけど耐えられないでしょう。しかし同時にそこにはある種のロマンも漂います。想像してみてください。あなたは一日野良仕事を終えてクタクタです。目の前には朝炊いた冷や飯と、しっとりと落ち着いた三日越しの味噌煮。少し強張った飯を茶碗に山盛りよそい、しょっぱい味噌煮ちょびっとと共に、大量の飯をガツガツと食らいます。なんだか不思議と魅力的じゃないですか?
「その時代の野菜は全て有機無農薬で、野菜本来の力強い味わいに溢れていたに違いない」
なんてことを言うつもりはありません。
「味噌は当然自家製で、それこそが本物の味であり砂糖もダシも不要なのだ」
なんてことも言いません。
「家族団欒の食事はたとえ貧しくとも素晴らしいものです」
それはそうだけど、そういう話はしてません。
「日本人は今こそそういう粗食の素晴らしさに気付くべきである」
余計なお世話です。お帰りください。
その貧相な食事は、なぜか、ただただおいしそうなのです。ストレートに言えば、ぜひ食べてみたい。
これを料理として再現すること自体は簡単です。雑穀ミックスはスーパーで売っています。野菜も味噌ももちろん売っています。どうしてもこだわりたければ最近はオーガニック野菜コーナーもあるし、昔ながらの手作り味噌も通販でポチれます。
しかし実際はなかなか踏ん切りがつきません。夕刻が近づきお腹が減ってくると、やっぱり「普通においしいもの」を「いろいろと」食べたくなるのです。スーパーに行っても、ついついいつものように肉や魚をカゴに放り込んでしまいます。色とりどりのお惣菜にも目を奪われます。うっかりアイスクリームまで買っちゃったりします。
ましてこの「雑穀と味噌煮(だけの)ご膳」は「数日それだけを食べ続ける」というのも間違いなく重要ポイントです。ますますハードルは上がります。結局、スーパーでナスを買ってきて味噌で煮たものを、食卓の隅っこに脇役として配置する、そういう折衷案に落ち着きます。ひょいとつまむと「うん、たまにはこういうのも悪くないな」と思いますが、「いや、そういうことじゃない」というのもわかっています。おまけに家族の評判も芳しくなく、どちらかというと厄介者として扱われます。
結局「雑穀と味噌煮ご膳」は、「おいしそうだな」「食べてみたいな」というぼんやりとした憧憬の対象ではありながら、いつまでたっても実体化はされません。永遠のロマンとして心の中に生き続けるのみです。
最近ネットでひとりの青年のご飯写真が話題になりました。
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