ピアニスト・藤田真央#21エッセイ〈幻となったピアノ・デュオ〉
▼藤田さん連載「指先から旅をする」はこちら
2023年1月25日のカーネギーホールでの公演後、私は東京へとんぼ返りして、日本各地で演奏会を行った。ハイライトはやはり、全5回にわたる〈モーツァルト:ピアノ・ソナタ全曲演奏会〉の最終章を完遂できたことだろう。
このツィクルスは21年3月から始動した。当時は感染症対策の為に客席は1席ずつ間隔を空け、会場には定員の半数しかお客様を集められないという、非常に厳重な態勢で行われた。
第1回のプログラムは、全てドの音を基調としたハ長調のソナタで構成した。このアイディアは今思えばいささか悪手だったように感じるが、当時の私はそれが優れたアイディアだと思ったのだろう。
21年秋に行われた第2回公演では全て短調の曲を並べるという、いわば暴挙に出た。モーツァルトにおいて短調の曲は極めて稀なのだから、貴重な短調のソナタを一回の公演で終わらせてしまうとは、なんとも惜しいことをしたものだ。今の私であれば、絶対にしないだろう。
22年3月から始まった第3回は《KV284》と《KV331》のソナタを並べるという、我ながら良いプログラミングが出来た。この曲はどちらも曲中に変奏曲が含まれている。
《KV331》はソナタ形式の楽章が存在しないソナタとして有名だ。私はその第1から第3までの各楽章を変奏曲(第1楽章)、メヌエット(第2楽章)、そして行進曲(第3楽章)というそれぞれ独立した楽曲として捉えた。3つの別々の小品として演奏することで、短く性格の違うアリアが次々と現れるモーツァルトのオペラの世界を表現したかったのだ。こうして、典型的なソナタ形式を用い、オーケストラの響きを意識したであろ《KV284》とは対照的な演奏ができた。
第4回と第5回のプログラムの詳細は前にこの連載で詳しく述べたと記憶しているので割愛させて頂く。
この5回のツィクルスを通して、モーツァルトを演奏することとは、まさに綱渡りをしているようだと感じた。ゆっくり慎重に歩いてしまっては、スリルに欠け、お客様を失望させてしまう。そう、誰が弾いても同じではないかと。だが綱から落ちるか落ちないかのぎりぎりを攻めることにより、作品に新たな命を吹き込み、新たな世界に誘える、そんな境地に達するのだ。
一度足を滑らせたら命を落としてしまう綱渡りと同じように、モーツァルトの演奏においては、音に対するジャッジを一つたりとも間違えてはいけない。たった一音でも、その音のクオリティ、輝き方、響き方、音色、全て間違ってはならないのだ。どこかで誤った音色を出したその瞬間、自分の思い描く音楽を届けることができないという意味で、命を落としたも同然だ。
さらに、モーツァルトを人前で演奏する恐怖も、綱渡りのそれに似ている。実際、私も恐怖に負け、安全で月並みで表面的な演奏をしてしまったことがある。もっと深い音楽を今ここで奏でるべきなのに、ライトに照らされたステージの上で恐怖に怯え、攻めるはずだった音楽表現に自分でストップをかけてしまった。幸い綱から落ちることはなかったが、ピアニストとしての満足はそこにはない。
感染対策の制限緩和により、今年2月のツィクルス最終章は満員の観客の中で開催された。そして2月20日、21日には、務川慧悟氏とのピアノ・デュオのコンサートが行われるはずだった。はずだったのだ――。
だが、今なおウイルスの猛威が健在なことを私は思い知ることになる。
デュオ・コンサート本番当日。会場の東京芸術劇場に到着し、調律が仕上がるのを待とうと楽屋に向かっていた私に、公演中止の報せが舞い込んだ。関係者がコロナウイルス陽性になったという。
ピアノ・デュオというジャンルは私にとって極めて演奏機会が少ないため、この公演の準備を昨年の11月から始めていた。務川氏とは公演2日前から濃密なリハーサルを行い、初日は7時間、公演前日はステージ上にて3時間、休むことなく音を重ね合わせた。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!