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ピアニスト・藤田真央#11「ヴェルビエ音楽祭――アルゲリッチの代わりに立つ」

毎月語り下ろしでお届け! 連載「指先から旅をする」

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 夏の欧州は、各地で音楽祭が花盛り。7月にはロッケンハウス室内楽フェスティバルヴェルビエ音楽祭ラ・ロック・ダンテロン国際ピアノフェスティバルと、わたしもずいぶん飛び回って、あちらこちらで演奏をしてきました。

 音楽祭はその土地の空気や、その街ならではの音楽の楽しみ方を肌で感じられるのがいいですね。たとえばラ・ロック・ダンテロン国際ピアノフェスティバルは、南フランスのプロヴァンス地方に位置する自然豊かな小村で行われます。会場が森の中にあるので、空いた時間に散策したりして、伸びやかな気持ちで本番に臨むことができました。ピアノの音が自然と集まるように巧みに設計されている野外会場も素敵でしたね。会心の演奏となったので、思わずアンコールを4曲も披露してしまいました。

ロッケンハウス室内楽フェスティバル

 お祭りには思わぬアクシデントも付き物です。数え切れないほどの演奏会が企画されるので、体調などの問題でアーティストが舞台に立てず、別の演奏家が代わりに演奏するという事態もしばしば起こります。これを「jump-in」というそうで、この夏たくさんの代役を務めたわたしは、ピアニスト仲間から「ジャンパー・マオ」と呼ばれるようになりました。

 7月16日には、オーストリアのロッケンハウス室内楽フェスティバルでサー・アンドラーシュ・シフの代役を担いました。彼の代わりに演奏するのは、2021年9月のツィナンダリ音楽祭以来のことです。
 リサイタル前日の打診、しかもあの偉大なピアニストの代役ということで緊張しましたが、リストやブラームスを中心とするわたしの得意とするプログラムを用意して臨みました。

ロッケンハウス室内楽フェスティバル

 その翌日には、ヴェルビエ音楽祭のプロデューサーで旧知のマーティン・エングストロームから「至急連絡がほしい」とメッセージが。何かあったのかと電話をかけると、
「ベートーヴェンの1番か2番、どちらか弾けるか?」
と問われました。2番は一度コンサートで弾いたことがあると答えると、「ヴェルビエ音楽祭でアルゲリッチの代役を頼む」と。

 そうして、ガボール・タカーチ=ナジの指揮のもと、《ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 Op.19》を弾くことになったわけですが、公演は2日後に迫っています。急いで楽譜を用意してもらって、それから本番までは自分のリサイタル以外の時間ずっと、ベートーヴェン漬けです。

 しかし、わたしには強い味方もいました。ヴェルビエにはちょうど、わたしがベルリンで師事しているキリル・ゲルシュタインも招かれていたのです。キリルには練習にもリハーサルにも来てもらって、本番直前までアドバイスを受けることができたので、本当にありがたいことでした。おかげで、自分でも納得のいく演奏ができましたし、お客さんも喜んでくださって、スタンディングオベーションをいただくことができました。

 シフやアルゲリッチのような大御所の代役ともなると、プレッシャーがすごいでしょうと訊かれることもあります。もちろん責任は感じますし、なにより急遽依頼される代役は、みっちり準備期間をとることができないので、本番直前まで緊張し通しです。それでも、いちど舞台に上がってしまえば、あとはわたしのピアノを誠実にお届けするのみ。初めてわたしの演奏を聴くお客さんも多い中、会場が一体となって音楽を楽しむことができた日には、もう最高の気分です。

 これからも「ジャンパー・マオ」として、せっかくの貴重な機会を楽しんでいければと思っています。 

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