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ピアニスト・藤田真央#12「ミハイル・プレトニョフ――ヴェルビエの夜、憧れのひとと邂逅する」

毎月語り下ろしでお届け! 連載「指先から旅をする」

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#14     11月5日(土)正午

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 7月20日、ヴェルビエ音楽祭でヴァイオリニストのマルク・ブシュコフ、チェリストのズラトミール・ファンと室内楽を演奏する機会に恵まれました。彼らとは、2019年のチャイコフスキー国際コンクールでともに入賞したときからの縁です。

 この日のプログラムは、ラヴェルの《ピアノ三重奏曲 イ短調》とアントン・アレンスキーの《ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 Op.32》でした。
 アレンスキーをプログラムに入れることを提案したのはマルクです。リハーサル中、マルクはアレンスキーの一生について熱心に解説してくれました。アレンスキーが生きたのは、19世紀後半、ロシアが周辺諸国との軋轢を強めていく時代。当時、ロシアに生きる庶民たちは政治に対してやるせない思いを抱いていたといいます。放埓なアレンスキーの晩年や、抒情性に富んだ彼の音楽は、自由に憧れた当時のロシア人の象徴ともいえるのだとマルクは教えてくれました。

 日本で生まれ育ったわたしには、欧州の歴史を肌感覚でとらえることが難しいので、彼の言葉はありがたい道標になります。
 一方、アメリカ人のズラトミールは穏やかな人格と素晴らしいテクニックを持ち合わせる万能タイプで、彼の音の捉え方もたいへん勉強になりました。

©︎Evgeny Evtukhov

 出自も個性も異なる三人でしたが、みっちり8時間のリハーサルを行う中で、自分たちには響き合うものがある、そして同じ音楽を目指しているのだと実感できたのは嬉しかったですね。
 一緒に室内楽をすると、目の前の奏者がこれまでに歩んできた道がみえるような気がするものです。だからこそ話し合いながらひとつの世界を作り上げていくのは、最高にスリリングな時間なんです。

 コンサートを無事に終えたあとに待っている夜のひと時も音楽祭の醍醐味のひとつです。ヴェルビエでは会期中、毎晩のように食事会が開かれ、アーティスト同士の交流の場となっているのです。わたしもブッフェ形式で提供されるお料理の数々に舌鼓を打ちつつ、各国から集う演奏家たちとの音楽談義に花を咲かせました。

 ある夜、ヴェルビエ音楽祭のプロデューサー、マーティン・エングストロームの誕生日を祝うプライベート・コンサートに招待されたわたしは、思わず居ずまいを正しました。そこにはわたしが敬愛するピアニスト、ミハイル・プレトニョフの姿があったのです。

 プレトニョフが歌曲を演奏することになり、そのときになんと、わたしが彼の譜めくりをすることに。ピアノを弾くプレトニョフの脇に控えて、楽譜をしっかりと目で追いながら、神経を集中させてページをめくるタイミングをはかる。自分のリサイタルよりも緊張して、くらくらしました。

 間近で聴くプレトニョフの演奏にすっかり夢見心地のわたしに、プレトニョフはラフマニノフの歌曲《ヴォカリーズ》の楽譜を見せ、自分の代わりにチェロ奏者のミッシャ・マイスキーと演奏するよう言いました。彼に勧められるがままにわたしはピアノの前に座り、ぶっつけ本番で演奏を始めました。いざやってみるとのびのびと弾くことができましたし、プレトニョフは何度も褒めてくださって、本当に嬉しかったですね。

暗がりの中、携帯電話で照らしながらプレトニョフの譜めくりをする

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