マガジンのカバー画像

今村翔吾「海を破る者」

27
日本を揺るがした文明の衝突がかつてあった――その時人々は何を目撃したのか? 人間に絶望した二人の男たちの魂の彷徨を、新直木賞作家が壮大なスケールで描く歴史巨篇
運営しているクリエイター

#別冊文藝春秋2020年5月号

今村翔吾「海を破る者」 はじまりのことば

 世界の長い歴史において最も大きな版図を築いた国はどこか。面積ならば第1位は大英帝国で、その国土は3370万㎢に及ぶ。だが当時の世界における人口比率で考えると20%で、大英帝国は首位から陥落する。  では人口比率から考えた第1位はどこの国か。それが本作の一つの核となるモンゴル帝国である。その領土はあまりにも広大で西は東ヨーロッパから、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断している。そして当時の世界人口の25・6%、実に4人に1人がモンゴル帝国の勢力圏で暮らしていたこと

今村翔吾「海を破る者」 #004

 蟬の声が絶えると共に、少しずつ山野が色づき始めた。伊予は気候が安定していることもあり、毎年稲の実りは悪く無く、他の国に比べれば飢饉が起こることも珍しい。日々の暮らしが厳しくなると人の心も荒むものだ。伊予人に温厚な者が多いのもこの気候と無関係ではあるまい。  弘安元年(一二七八年)の秋は例年以上の豊作となった。百姓たちは豊穣を祝い、河野家としてもそれは嬉しい。が、手放しでは喜んでいられぬ事情もあった。そもそも河野家には、  ——土地が足りていない。  のである。  承久の乱で

今村翔吾「海を破る者」 #005

 師匠役を務めて欲しいと頼むと、庄次郎は初め露骨に渋った。 「得体が知れぬ男です。御屋形様の命を狙っているかもしれません」  と、しかめ面で言い放ったのである。 「繁がこの国の生まれではないからか」  六郎は思わず言い返した。庄次郎は白い片眉を上げて微かな驚きを見せた。が、この程度で臆する男ではない。ゆっくりと首を横に振って言った。 「違います。たとえこの国の者でも答えは同じです」 「お主の目には……繁や令那が間者や刺客に映るか?」  承久の乱で新たに伊予に土地を得た御家人た

今村翔吾「海を破る者」 #006

「御屋形様!」  部屋の前にいた布江が呼びながら近づいてきた。豪胆な布江にも似合わず、その顔は真っ青に染まっており、ただ事ではないことを察した。 「まさか……」  布江はすぐ近くまで歩み寄って囁いた。 「令那がおりません」 「最後に見た者は」 「半刻ほど前、御屋形様の部屋に向かうのを見た者がいます」  状況だけ見れば令那が下手人である。信頼が揺らぎそうになった六郎の脳裏に浮かんだのは、あの日、己に縋るように泣いた令那の姿であった。 「いや……違う。何か事情があるはずだ」  六