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今村翔吾「海を破る者」 #005

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 師匠役を務めて欲しいと頼むと、庄次郎は初め露骨に渋った。
「得体が知れぬ男です。御屋形様の命を狙っているかもしれません」
 と、しかめ面で言い放ったのである。
「繁がこの国の生まれではないからか」
 六郎は思わず言い返した。庄次郎は白い片眉を上げて微かな驚きを見せた。が、この程度で臆する男ではない。ゆっくりと首を横に振って言った。
「違います。たとえこの国の者でも答えは同じです」
「お主の目には……繁や令那が間者や刺客に映るか?」
 承久の乱で新たに伊予に土地を得た御家人たちの中には、河野家のことを快く思っていない者もいる。没落したとはいえ伊予において河野家の威風はまだ残っており、
 ——河野様のほうがよかった。
 と、懐かしむ旧領民も多いのだ。幕府の手前、戦などは出来ないものの、新しく来た御家人の中には、河野が内輪揉めで瓦解してくれればと思っている者がいても不思議ではない。ましてや河野家は大規模な内紛を巻き起こした家で、その時のこんもまだ残っている。焚きつければ簡単に再燃すると思われているふしもある。当主を殺して、それを伯父の仕業に擦り付け、争いを引き起こすなどという卑怯な手を考える者がいてもおかしくないのだ。
「いえ、そのようなことは。御屋形様もご存じのはず」
 言葉を濁したものの、庄次郎の言いたいことは伝わった。一族でも争う河野家である。そう容易たやすく人を信じられるものではないと言いたいのだ。
 庄次郎の古泉家には、二人の息子のほかにもんと謂う従兄弟がいた。喜左衛門は分家の者で、伯父のみちときの家宰になっていたのである。庄次郎は従兄弟と繫ぎを取って、互いの主君をいさめて争いを未然に防げぬかと考えたのだが、喜左衛門からは、
 ——庄次郎殿は甘い。
 と、一蹴されてしまったのだ。
 程なくして一族の争いは激化し、戦の中で庄次郎は二人の息子を失った。孫は生まれていなかったので、このままだと庄次郎の代で古泉家は絶えることになる。
 従兄弟の喜左衛門はどうなったか。乱戦の中で庄次郎は喜左衛門を見つけた。矢をつがえて狙ったものの、幼い時に共に山野で遊んだ記憶が蘇って放てなかった。その矢先、喜左衛門は別の流れ矢を受けて馬から滑り落ち、そのまま絶命した。
 ——せめて拙者の手で始末をつければようございました。
 後に一度だけ、庄次郎が苦悶の表情でそう語っていたのを覚えている。滑稽ともいえる内輪揉めは、一族だけでなく郎党たちの心にも深く影を落としたのである。
「庄次郎、繁はな……」
 繁に許しを得てから話すべきであろう。しかし六郎はたまらずに繁が垣間見せた境遇を語った。庄次郎は黙然としてそれを最後まで聞いた後、
「左様でござるか……」
 と、かすれた声で言った。
「それが噓だと思ったならば、即刻教えるのを止めても構わぬ」
「断れば、止めようとも御屋形様が自らお教えになるのでしょう。ならば是非もありませぬな」
 庄次郎は訥々とつとつと話しながら、ゆっくりと淡い空を見上げた。
 こうして繁は庄次郎から武芸の手解きを受けるようになった。庄次郎があまり乗り気でないことは、繁も重々理解しているようで、教えを乞う姿勢は素直そのものだという。
「筋は悪くありませぬ」
 二月ほどしたある日、何かのついでに庄次郎はぽつりと言った。言葉、漁の技も習得が早かった。もともと何事にも器用な性質なのであろう。引き締まった体軀は、漁によってさらに鍛えられている。これも武芸を学ぶにおいては良い影響を与えていた。
 一方の令那はというと、仕事こそすっかり覚えて熱心に働いているものの、未だにまともに話すことは無かった。ことあるごとに話しかけている布江いわく、
「簡単な内容であれば、意味は大方解っているとは思います」
 とのことであった。だが令那が口にするのはいやおうの返事のみで、自らの意思を話せるほどではないらしい。六郎としてはれる想いもあったが、こればかりは時を掛けるしかないと思い定めている。
 事件が起こったのは、そのような頃、令那と繁が河野家に来て一年が経った、弘安二年(一二七九年)の夏のことであった。
 六郎は屋敷の広間で庄屋たちと面会を行っていた。田の水利の件で隣村どうしが争っており、その仲裁を行うためである。廊下を足早に歩く音が聞こえて来て、こちらを呼ぶ声も聞こえた。
「御屋形様!」
 この声はふたがみしんと謂う若い郎党である。人懐っこく皆に愛されているが、こつ者ですぐに狼狽するので揶揄からかわれたりもしている。跫音がどんどん近づいてきたかと思うと勢いよく障子が開け放たれた。
「こら、今は取り込み……」
 流石にたしなめようとした六郎だったが、新兵衛の表情を見て口をつぐんだ。その顔が紙の如く白くなっている。何事も大袈裟な新兵衛とはいえ、これはただ事ではないと直感した。
 ——待て。
 六郎は目で新兵衛を制すると、庄屋たちに向けて穏やかに話しかけた。
「すまぬな。ちと席を外す」
 腰を浮かせると、新兵衛のもとへと近づいて小声で囁き尋ねた。
「何があった」
「利恒がありません……」
 新兵衛は息交じりに声を震わせた。例の家宝の太刀である。外出する時にはくが、屋敷の中にいる時は部屋の中に掛けてある。
くせものが入ったか」
「それはありえませぬ」
 己の居室は屋敷の最も奥にあり、郎党の詰部屋を通らねば辿り着かない。昼夜問わずに詰部屋には人がおり、外から不審者が入ればすぐに判るため誰かが侵入することは有り得ないのだ。新兵衛は今日の当番を務めていたが、ろんな者など一人も通らなかったと断言した。
 ——となると厄介だ。
 六郎は口内の肉を嚙んだが、すぐに平静を努めて庄屋たちのほうへ向き直った。
「そう待たせぬ故、悪いが日を改めて欲しい」
「それは……」
 二人の庄屋が、ぽかんと顔を見合わせる。この庄屋たちは共に四十半ばというところ。河野家が争っていた頃にはすでに大人で、そのせいで村々が荒れたことを知っている。新兵衛のあまりの剣幕に内乱が再燃したのではないかと危惧したのであろう。
「戦が始まる訳ではない。心配するな。どうも俺が今日の内に書かねばならぬ文を、すっかり失念していたのだ」
 六郎は無理におどけた顔を作ると、庄屋たちの顔に安堵の色が浮かんだ。
「解りました。では後日」
 そう言い残し、庄屋たちは他の郎党に案内されて去っていった。
「自室に出入りした者はいるか」
 広間が二人きりとなると、六郎は尋ねた。
「はい。幾人か往来がありました」
 新兵衛は即座に答えると、六郎は眉間を摘まんで唸った。
 先刻、厄介なことになったと考えたのはこのこと。外部からの侵入がなかったとすれば、自ずとこの屋敷に住まう者の犯行となってしまう。

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