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今村翔吾「海を破る者」 #006

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「御屋形様!」
 部屋の前にいた布江が呼びながら近づいてきた。豪胆な布江にも似合わず、その顔は真っ青に染まっており、ただ事ではないことを察した。
「まさか……」
 布江はすぐ近くまで歩み寄って囁いた。
「令那がおりません」
「最後に見た者は」
「半刻ほど前、御屋形様の部屋に向かうのを見た者がいます」
 状況だけ見れば令那が下手人である。信頼が揺らぎそうになった六郎の脳裏に浮かんだのは、あの日、己に縋るように泣いた令那の姿であった。
「いや……違う。何か事情があるはずだ」
 六郎は己に言い聞かせるように呟いた。
「それともう一つ。令那以外に姿の見えぬ女中がいます」
 その女中はだという。歳は二十歳。正岡衆に属する郎党、まちじょう右衛もんの娘で五年前から奉公に上がっている。口を閉じても八重歯が覗く愛嬌ある相貌をしており、六郎も記憶に留めている。
 梨乃の失踪も本件に何かしら関与していると考えるのが自然だ。令那と二人して消えたとなれば様々なことが考えられるが、それを一々推測しても詮無いことである。
「一刻も早く見つけるぞ」
「市、湊、村々と、すぐに人を出して捜させます。しかし……如何なさる」
 庄次郎は顔を寄せて来た。その眉間に深い皺を作った神妙な表情である。
 ——通時様の領地に踏み込んで捜すのか。
 と、暗に訊いているのだ。
 この事件において何が最悪か。それは伯父が何らかの方法で利恒の太刀を奪ったという場合である。ならば次に考えることは一つ。自らが河野家の正統を継がんため、再び兵を挙げるということ。もしそうだとすれば、伯父の領地に踏み込んだ時点で攻撃を受ける可能性すらあるのだ。
「俺が行く」
「それはなりません」
「何としても戦は避けねばならん」
 和与からまだ七年しか経っていないのだ。ここで争いが起これば、間を取り持った幕府の面子は丸潰れとなり、今度こそ河野家は滅ぼされてしまう。先祖に申し訳が立たぬとかそのような理由ではない。河野家が消滅すれば郎党や女中たちは路頭に迷うこととなる。
 領民もようやく立ち直りつつあるのだ。また戦が起これば田畑は荒れ、市を立てるどころではなくなり、海賊もまたぞろばっし、食うに困る者が続出するであろう。それに比べれば伯父が家督を継ぐことになろうとも、己が殺される方が百倍ましというものである。
「せめて拙者だけでも供に」
「好きにしろ」
 六郎は布江に向けてひたたれを持つように命じた。礼装でもって会いに行かねばならない。伯父は真に太刀を奪ったのであろうか。仮に奪ったとしても問い詰めて認めるのか。そもそもいかにして太刀を盗んだのか。令那を騙して操ったのか。いや梨乃のほうか。目まぐるしく思考を巡らせながら、六郎は手早く直垂に着替え直していたその時である。
 先ほど己に注進してきた二神新兵衛が血相を変えて部屋に駆け込んで来た。
「何事だ!」
 普段は己でも温厚な性質だと思うが、気が張っているからか、声が厳しいものとなった。
「ただ今……通時様がお越しに」
「何……」
 向かおうと思っていた矢先の来訪である。これには驚いた。恐らくは本件に関わりがあることに違いない。新兵衛に広間に通すように命じ、残る身支度を急いで整えた。
「突然、すまぬな」
 広間に行くなり、通時はゆるりとした調子で言った。下座に付いていることから見ても、当主と事を構える気はないことが窺えた。
「いえ」
「その様子だと……」
 通時は視線を上下させて己を舐めるように見た。
「はい。今から一人で伯父上を訪ねるつもりでした」
 六郎が静かに言うと、通時は少し驚いた表情になった。広間には庄次郎が脇に控えるのみ。他には誰も入らぬようにと厳命している。互いの吐息の音まで聞こえた。
「利恒のことだな」
 何度目かの息の合間、通時は切り出した。腹の探り合いが続くのかと思ったが、通時があっさりと口にしたので今度はこちらが驚く番であった。
「左様でございます」
「持って来た」
「な……」
 通時が横に置いている太刀に目をやったが、利恒ではない。何処にあるのかと尋ねるより早く、通時は言葉を継いだ。
「今、ここには無い。半里ほど先で郎党たちを待たせてある。入れてよいか?」
 経緯は判らないが、通時は太刀を手に入れたが、それは本意ではなく返却しようとしている。だがこちらがどのような事態になっているのか判らない。太刀を持っていけば問答無用で襲われるかも知れず、かといって人を連れて来れば戦をする気と勘違いされる。結局、己もそう考えたように、まずは一人で乗り込むのが上策だと思い至ったらしい。
「解りました。庄次郎」
「はい」
 通時からその場所を聞き取り、庄次郎は遣いを走らせた。
「何があったのです」
 通時の郎党が来るまでまだ暫し時がある。六郎は率直に訊いた。
「先刻、俺の元に太刀が持ち込まれた」
 これまでの通時の言動から、何となくそうだろうとは予想がついている。だが問題は誰が持ち込んだのかということ。六郎は喉を鳴らして続きを待った。
「梨乃という女中がいるだろう」
「そちらですか……」
 六郎は額に手を添えて溜息を零した。令那のことは疑っていなかった。だからといって梨乃の仕業だとも思っていなかったのである。いや、思いたくなかったといったほうが正しいかもしれない。
「あれは正岡衆の町田城右衛門の娘だ」
「まさしく」
「城右衛門がいつ死んだかは知っているか」
「はい……十年ほど前に」
 六郎は口籠ったが、通時は反対にはきと言い切った。
「河野家の内乱でな。正岡衆は俺に味方する者が多かった。そなたの父と何度目かの戦の折、矢を喉に受けてな……」
 城右衛門には息子がいなかったこと、分家であったこともあり、梨乃に婿養子を取るまでには至らなかった。内乱の収まった後、梨乃は町田本家の口利きもあり、女中として仕えることになったのだという。

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