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ブックガイド——援助と開発経済~どうすれば貧しい国は発展するか|白石直人

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■最底辺の国の状況

 発展途上国とされてきた国々が次々と発展を遂げている一方、そうした発展の流れから取り残されている最底辺の国もまた少なからず存在する。ポール・コリアー・著『最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?』(中谷和男なかたにかずお訳、日経BP社)は[1]、アフリカ諸国を中心とした最底辺の国々はどのような問題を抱えているのか、そうした国々が発展するには何が必要なのか、を考えた本である。援助や開発経済学を考える際の基本書であり、平易に書かれているので問題状況を理解するための最初の一冊としても有用だと思う。

 最底辺の国々を捕らえる罠として、著者は「紛争の罠」「天然資源の罠」「内陸国の罠」「小国における悪いガバナンスの罠」の4つを挙げる。紛争と貧困が負の連鎖を引き起こすこと、悪いガバナンス(汚職や着服、政府に不都合な人間の投獄など)が経済発展の努力や援助を台無しにしてしまうことは分かりやすい。これに対し、天然資源が貧困脱出の助けではなく罠となるのは、直感的には分かりにくい。天然資源が罠となるのは、特に政府が資源からの利益を独占できる場合には、腐敗や汚職、買収の要因となるためである。民主主義が導入されている国の場合には、豊富な天然資源の存在は、ひどい利益誘導政治を行う候補者の勝利をもたらしてしまう。

 内陸国の直面する困難は、近隣国が破綻したり紛争に陥ったりすると、外へのルートが閉ざされてしまう点である。先進国地域の内陸国は近隣諸国との交易ができるが、アフリカの近隣諸国はどれも市場としては非常に小さく、内陸国は世界市場を目指すため、近隣諸国との連携もとりにくい。

 1980年代以降のグローバル化によって、アジアの少なくない国は経済発展を遂げた。アフリカの貧困国も同じ道を辿れないのだろうか。著者は、皮肉にもアジアが発展したことでアフリカの貧困脱出が難しくなったと論じる。アジア諸国が低賃金での経済集積を進め、強い国際競争力を獲得したため、今アフリカ諸国が世界市場で成功するためには、この低賃金で強い競争力を持つアジア諸国を上回らないといけないからである。また、アジア諸国の発展に伴う資源需要の拡大も、アフリカを工業国ではなく資源輸出国に据え置く効果を持ってしまう。

 では貧困脱出のために先進国は何をすべきか。最貧国は往々にして独裁者が支配する悪いガバナンスの国であり、援助をしても軍事費に流用されることさえ少なくない。そして援助機関では多額の援助を行った方が出世できてしまうので、流用など援助時の取り決め違反が発覚しても、援助を継続することが非常に多い。またフェアトレードもよく言及される方策だが、生産物の多様化が必要な途上国に対し、特定の産品をもっぱら作り続けるインセンティブを与えてしまう面もある。

 著者は、先進国は貧困国の製品への関税を撤廃するとともに、貧困国間でも貿易の自由化(関税引き下げ)を促すべきだとしている。最底辺の国に援助を送る一方で、自国の農作物に補助金を与えて底辺国の農作物の競争力を奪ったり、傾斜関税(原材料よりも加工製品の関税を引き上げる関税構造)を課して底辺国が加工製品を国内で作るチャンスを奪ったりするのは、矛盾した振舞いだと批判している。また底辺国の高い関税は、権力者が自身に近しい企業に恩恵を与える手段としてもっぱら用いられており、その国の大多数の国民にとっては、その企業の不当に高い製品を押し付けられることになっていると指摘している。

 悪い政府の改善のために、先進国は世界全体に向けた国際基準・憲章を掲げるべきだと著者は論じる。腐敗した国の中での自由化・民主化運動は、しばしば運動内部での意見不一致によって失敗してしまう。国際的な憲章は、立ち上がった人々の中で意見を一致させる参照点になる。しかし著者は同時に、腐敗した政府に対しては、最終的には軍事介入が必要になる場合もあるとも論じる。しばしば派遣される国連軍は、「安全な場所にはたくさん派遣する」とも揶揄されるような戦う気のない軍隊である。シエラレオネでは2000年に反政府軍が国連軍を襲い、簡単に国連軍を人質にしてしまった。しかし、この事態を受けて数百人のイギリス軍部隊が駆け付けたパリサー作戦では、反政府軍はあっという間に瓦解した。このような的確な軍事介入は、地域に平和と安定をもたらすのに必要な場合があると指摘している。

■どうすれば有効な援助になるか

 援助を巡って、肯定論者と否定論者の間では喧しい論争が続いている。例えば、援助の肯定論は、マラリア防止のために蚊帳を無料配布して使ってもらおうと提案する。これに対し否定論は、無料で貰ったものは価値が低いものだとみなされて使われない(貰った蚊帳をウェディング・ベールとして使っていた事例もある)ので、有償で販売すべきだと主張する。どちらも一理あるように見える論理であり、部屋の中で議論していても決着がつく話ではない[2]。経済学におけるRCT(ランダム化比較実験[3])のパイオニアである著者らによる、アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ・著『貧乏人の経済学──もういちど貧困問題を根っこから考える』(山形浩生やまがたひろお訳、みすず書房)は、どのような方法なら有効な援助になるのか、を社会実験によって実証的に明らかにしようとする本である。併せて、しばしば抱かれる「途上国の人は不合理で愚かな行動ばかりしている」という思い込みに対し、実際にはそれなりに合理的であることも本書は教えてくれる。本書では多くの事例が紹介されているが、ここでは二つほどかいつまんで紹介したい。

 幼児の予防接種は重要であるが、途上国では接種率は低い。貧乏な地域の人々は、病院ではなく怪しげな村医者の医療を受けたがる。このような状況に対し「途上国の人々は愚かだから」と切り捨てることは簡単だが、実態ははるかに複雑である。まず、政府の保健センターは、医師の欠勤が極めて多く(3分の1以上の日を欠勤する)、スタッフは患者をぞんざいに扱うので、人々はそうした施設に行きたがらないという面がある。そこで決まった日に規則正しく開かれる予防接種会場を設けたところ、確かに多少の改善(6%→17%)は見られた。しかし、8割以上の子供は完全接種にならなかった。

 親が予防接種を避けるのには、予防接種が既存の伝統医療と大きく異なっていること、むしろ幼い子供を外に連れ出すと呪われやすいという信仰を抱いていること、などの要因も存在する。そこで、予防接種を受けると豆や皿などの小物を与えるという方策が試された。こうした「物で釣る」方法は多くの援助者が嫌う方法であり、また信仰の強い地域ではこうした方策では上手くいかないと考える専門家も少なくなかったが、実際にやってみると非常に効果的であることがわかった(接種率は38%にまで改善)。予防接種は将来的には大きな利益があるが、接種するその日には小さなコスト(子供を連れていくのには時間がかかる、副反応で微熱が出る、など)が伴う。人間は目先の損得にこだわるものであり、特にその日暮らしの貧乏な人ほどその側面が強い。そのため、接種するその日に小さなメリットを提供することは有効な手段なのである。

 別の事例として、貧しくて空腹でいるはずの貧乏な人々に、きちんと食事をとってもらうようにと考えてお金を渡すと、食事の量を増やす代わりに、少量の美味しい料理やその他の楽しい娯楽のためにお金を使ってしまう、という話が紹介されている。途上国の貧乏人は愚かだ、と笑うかもしれないが、著者らは、貧乏な人々が住む村は本当に退屈そのもので、楽しみを見出すことが難しい、という状況に目を向けるよう促す。食べ物を削ってでもテレビにお金を使う貧乏な人は決して珍しくない。そしてテレビすら見られない地域では、祭りに多くのお金が使われる傾向があるということも、退屈の回避の重要性を示唆している。こうした状況では、お金を渡すことは貧乏な人々の栄養改善にはつながらず、子供や妊婦に直接栄養供給を行うことが有効であるとしている。

■世界の貧困脱出はいかにして起きたのか

 貧困に苦しむ地域がある一方、ある時点でそこからの脱出に成功した国々も少なくない。貧困から脱出した国々は、いかにして脱出を遂げたのか。そして脱出に失敗した国々はなぜ貧困のままなのか。アンガス・ディートン・著『大脱出 健康、お金、格差の起原』(松本裕まつもとゆう訳、みすず書房)は、前半で健康、後半で富という視点で、世界の発展の歴史をデータとともに紐解いていく。今回の記事で紹介する本の中でも、本書は最も濃密で、時間をかけてじっくりと読み込みたい本である。

 健康の発展には健康格差が付きまとう。出生・死亡データがとられだす16世紀半ばから18世紀半ばのイギリスを見ると、この期間は貴族と一般市民で平均余命に大差がない(むしろ貴族の方が少し低い)。この時期の死亡を決めるのは栄養状態ではなく病気だったためである。しかし、18世紀半ばから19世紀半ばまでは、貴族が急激に平均余命を延ばす一方、一般市民の平均余命は緩やかにしか増加していかない。これは、さまざまな医学上のイノベーションの模索期には、高価な設備などが必要(例えば人痘接種にはきちんとした隔離生活施設が必要だった)なため貴族層しか試すことができないからである。しかし新しい治療法はその後安価になり、一般市民にも普及していく。これは時代、場所を超えて繰り返し見られるパターンである。現在の最先端のがん治療法は高額な場合が多く、富裕層・富裕国以外への広がりは現時点では弱い[4]。だがこれも時間とともに安価になり広がるだろう、と楽観的に見ることもできる。

 貧困国の中には、10%以上の子供が5歳になる前に死んでしまう国も複数ある。そうした子供たちの死因は、珍しい病気や治療の難しい病気ではなく、17~18世紀のヨーロッパの子供たちの命を奪っていた下痢性疾患や百日咳などの防げる病気、あるいはマラリアなどの治療・対処法が分かっている病気である。先進国でははるか昔に克服されたような病気で、途上国の子供たちは命を落としているのである。しかしやや意外なことに、乳幼児死亡率の減少と経済成長の間には相関がみられないというデータを著者は示す。これについて著者は色々な理由を挙げているが、こうした病気を防ぐには清潔な水や害虫駆除が必要であり、それには健全な政府や地方自治体が主導する包括的計画が欠かせないという点はその一つである。

 寿命の計測に比べると、貧困の計測はその定義・基準からして難しい。貧困国の物価は低いため、市場の為替レートを使って比較すると貧困国を不適当に貧しく扱うことになるからである。共通の商品の価格を利用して物価調整をしようとしても、例えばコメが主食の国とコメが珍しい食材(希少品)の国とでは、コメの価格の意味は全然違い、適切な比較にならない。先進国の廉価品(例えば安価なワイシャツ)は貧困国では高級品となることが多く、その価格を参照すると貧困国内の富裕層の経済事情しか反映しないような比較になってしまう。

 こうした困難を考慮したうえで行う国際比較のデータからは、世界の成長と所得格差についての複雑な様相が浮かび上がる。まず、国ごとの所得格差は第二次大戦後から現在に至るまで縮小していない(むしろやや拡大している)。そして、国内格差は先進国を中心に拡大する傾向にある。にもかかわらず、世界中の人々の間の格差はやや減少傾向にある可能性が高いという。このパラドキシカルな状況が発生するのは、中国とインドという二つの大きな人口を抱える国が貧困国を脱して急成長していること、一方で停滞する貧困国はもっぱら小国が多いこと、世界の(国ではなく)人々の中での格差は、国内格差よりも国家間格差が圧倒的に大きいこと、が背景にある。

 残された貧困国をいかにして脱出させるのか、についての著者の意見はかなり辛辣である[5]。援助は天然資源と同じで「国民への説明責任を持たない収入」となり、政治の腐敗や国民の意見の無視へとつながりやすいと指摘する。医療支援のような一見すると利益のみで無害な援助さえ、地元医療スタッフをプログラムに引き抜いて日常の医療業務を滞らせる側面を持ちうるという。著者は、援助にはらむ問題の大半は被援助国内における「意図せざる結果」によるものなので、アフリカの支援のためにアフリカ以外の場所で行動することの方がよいという。例えば、先進国では問題とならないような病気に対する治療薬開発支援、富裕国と途上国の間の二国間交渉で、途上国が法律家などの専門家不足のために不利な条件を強いられないようにするための専門家派遣、先進国の関税障壁や農業補助金の撤廃などが挙げられてる。

■発展のための協力

 極貧の人々が明日生きていくための支援も必要だが、最終目標はそうした貧困国も先進国に並ぶような経済発展を遂げてもらうことである。そうした開発協力のためには何をすべきなのか。松本勝男まつもとかつお・著『日本型開発協力──途上国支援はなぜ必要なのか』(ちくま新書)は、これまで日本が行ってきた開発協力、その強みと意義を訴える本である。

 日本の強みの一つに、日本自身が明治期において遅れた状況から他国の助けを借りて発展に成功したという経験を持っている点がある。ヨーロッパとは異なる文化圏にありながら西欧発の文明の導入を経験している国であるということは、これから文明を導入する非西欧途上国にとっては親近感を抱く面もある。例えば明治期の日本では、民法典導入が様々な紛糾と反対に直面し、その実施まで30年近い歳月がかかった。こうした経験に基づき、日本の法制度整備支援では、現地の実情を踏まえ、現地の主体性を尊重した地道な方法を用いている。具体的には、ラオスの民事訴訟手続きを表す18ページの冊子作成に1年、カンボジアの民法支援に10年以上をかけるといった、息の長い協力を行っている。こうした日本の法制度整備支援は高く評価されており、世界30か国以上の協力実績を有する。

 支援の在り方も多様である。1985年のメキシコ大地震の際に日本はメキシコへ耐震技術の支援を行ったが、2001年のエルサルバドルの地震の際には、日本とメキシコで連携して耐震支援を行うという三角協力を行った。また地方自治体が重要な支援を行うこともある。水道行政の知識を有する北九州市は、プノンペンの水道整備支援を行い、アジアでは数少ない安全に水道を飲める環境を作り、また非常に低い無収水率[6]を実現させた。この成果は「プノンペンの奇跡」としてSDGs事例集でも紹介されている。

 ただし、昨今の日本の開発協力状況には問題も発生している。一般に援助では、支援相手国の債務持続性に問題がある場合には供与を控えることが通常である。そのため、中国が一帯一路で被援助国の債務漬け状況を作り出すことにより、日本によるその被援助国への支援もまた滞らされてしまうという事態がしばしば生じている。しかしこのような外的要因だけでなく、日本人自身の魅力も低減しているという。著者は、日本経済の勢いがないことが理由ではなく、向上心や貪欲さが依然と比べてなくなり、人間的な魅力が減っているからだ、という東南アジアの人々の意見を紹介している。さらに、「日本は貧しい」といった発想から、内向き思考に陥る人も増えている。著者は、日本や国際社会の置かれた状況を鑑みれば、むしろ現在こそ日本の開発協力の意義は大きいと述べ、日本のこうした現状に警鐘を鳴らしている。

 大塚啓二郎おおつかけいじろう・著『「革新と発展」の開発経済学』(東洋経済新報社)は、現場と理論の双方を見てきた著者の研究の集大成ともいうべき本であり、農業と工業の両面からいかにして発展を実現させるか、を考察した一冊である。本書は開発経済学を目指す学生や院生向けに書かれた著作で、教科書に近い面も併せ持つためやや難解ではあるが、開発経済学をきちんと知りたい人には欠かせないだろう。

 工場労働などと比較した農業の特性として、雇用主が労働者の働きぶりを監視することが難しい、という点が挙げられる。労働者が手を抜いても分からないし、収穫への反映は気候条件など他の要素も大きいため判断がつかない。そのため、機械化前の段階では、小規模農家の方が効率的という事態が生じる。しかし、機械化が起きると少ない労働者で広い農地を耕作できるので、大規模農家が効率的となる。日本を含むアジアの国々では土地の大規模所有を制限したり不利に扱ったりする政策がとられてきたが、それは農業の発展を阻害するものだと著者は指摘する。

 飢餓削減には「緑の革命」と呼ばれる高収量品種の開発が大きな役割を果たした[7]。ただし注意すべきは、緑の革命は農家の収入を必ずしも増やさなかったという点である。なぜなら、穀物の増産とともに価格下落が生じたためである。多大な恩恵を受けたのは消費者である。安価に食料が調達できるようになり、アジア地域で飢餓や空腹に苦しむ人は大きく減少した。しかし、アジアで多くの命を救った緑の革命は、アフリカでは起きなかった。著者はその理由として、アフリカでは長らく土地が豊富で集約栽培の必要性が低かったため、畦の配置、均平化、除草などの基本的技術を農家が持っていなかった点を挙げている。こうした点を踏まえて著者は、アジアの水稲技術とともに栽培研修なども並行してアフリカに移植していくことで、アフリカでも緑の革命を起こしうるとの展望を述べている。

 工業の発展は技術導入を重要な足掛かりとすることが多い。その際には、その時点の状況にあった適切な技術選択が必要である。一般に、初期には労働集約的な技術[8]が適しており、その後発展とともに資本集約的な技術に移行していくものである。(この観点から、富岡製糸場は当時の日本の技術水準に対して不適切に資本集約的であり、日本の製糸業の発展には貢献できなかったと指摘しているのは興味深い)。

 工業の発展では、まず産業集積が生じ、そこで革新が起きる必要がある。しばしばアフリカには産業集積がないと論じられることがあるが、それは誤解だと著者は批判する。仕立て屋から出発したアパレル産業はケニアやエチオピアなどに見られる。またアフリカでは、自動車を新品で購入するのは難しい場合が多いため、自動車修理業が驚くべき水準で発達しており、金属加工業のレベルは高い。しかし、革新があまり起きておらず、そのため量的拡大から質的向上への移行が起きていない。革新には技術面だけでなく経営手法やマーケティングも重要であり、アフリカではまだほとんど知られていない「カイゼン[9]」の普及なども非常に重要だと指摘している。


[1] 「10億人」という数字は、国際貧困線以下にある貧困者の人数の目安である。ただし状況は少しずつだが改善してきており、アフリカの人口は増えている一方で、貧困人口は1996年には約17億人(世界銀行の調査による)だったのが、2018年には7億人以下にまで減少している。

[2] ちなみに蚊帳の問題については、RCTの結果では無償配布と有償配布とで使用率にほとんど差がないという結果が得られているという。

[3] ある処置(社会政策や援助)の有効性を調べるために、被験者を処置群と対照群にランダムに分けて処置群にのみ処置を施し、その処置が有効なのかを検証する方法。バナジーとデュフロはこの功績で2019年にノーベル経済学賞を受賞した。

[4] これに対し例外的な動きを示したのは心血管疾患に対する利尿薬(血圧を下げる薬)である。これは非常に安価なため、人々の健康格差をむしろ縮める役割を果たした。

[5] 著者はこれまでに紹介した本の論にも批判的である。著者は、貧困国の貧困脱出には偶然の要因や個別的要素が非常に大きいと考えるため、コリアーのように貧困の要因や貧困脱出の共通点を探ろうとすることには否定的である。また同様の理由で、ある地域で成功した方法が別の地域で成功するとも限らず、そのためバナジー、デュフロらのRCTにも懐疑的である。

[6] 水道料金を徴収できない率。

[7] ちなみに緑の革命における稲の品種改良には、日本人研究者も多大な貢献をしている。著者は日本のこうした貢献の歴史をもっと強調することは、日本による国際的農業支援への理解を広めるのにも重要だと述べている。

[8] 生産過程に占める労働力への依存度が高い技術のこと。安価な機械を使って多数の労働者が働いて生産する工場はこれに当たる。逆に、高価な機械を使って少数の労働者が働く状況を資本集約的という。

[9] もともとトヨタなどで用いられていた、企業の労働者全員の継続的な参加によって、品質向上や労働環境改善を目指す哲学・ノウハウ。5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)などにより3M(ムダ、ムラ、ムリ)を削減していく。

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