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岩井圭也「われは熊楠」:第二章〈星火〉――熊楠ロンドン篇公開!

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第二章 せい

 夜の風が、二頭立ての馬車を追い抜いた。ぎよしやが冷気に首をすくめる。夏とはいえロンドンの夜は冷える。冷たい石畳の道路に、男たちの話す声が漏れていた。ただしそれは日本語であり、白人の御者がその言葉を解すことはなかった。
 明治二十六(一八九三)年夏、午後十時のことである。
 ロンドン南西部、クラパム。路上に響く声の源は、道路に面した連棟住宅テラスハウスのうちの一戸であった。連棟住宅は隣戸と壁を共有しており、和風に言えば「長屋」といったところか。やや古びているが住み心地のよさそうな三階建てである。その一階にある客間パーラーから、武州弁と紀州弁が交互に聞こえていた。
「詰まるところくま公。めえは日の本に名を馳せるため、ロンドンまで来たってのか?」
 タイル張りの室内で、二人の男がブランデーを飲みながら議論している。二人のうち、四十代と見えるのは先ほど口を開いたたきろうだった。曲芸師であり、この家のあるじでもある。武州の産だが、各地を放浪してロンドンまで流れてきたという。
 もう一人、椅子に腰かけてふんぞり返っているのはよわい二十六のみなかたくまぐすであった。ぎょろりとした両の目が光を放ち、高い鼻から荒い息が漏れている。
「日の本どころかこの世に名ぁを馳せるんじゃ。きたるべき時世のため、来るべき学問を打ち立てるんやと、わえとりやませんに約束した。西洋の学者共には、今に我らのえいを見せつけちゃら。連中は東洋人を見下しくさる。珍獣とおんなし扱いや」
 その返答を聞いて、美津田はしきりに頷く。明らかに熊楠のほうが年下だが、ぞんざいな口の利き方をされても気分を害する気配はない。
「熊公の言う通りよ。所詮、俺たちはここらの住民にとって物珍しい東洋人に過ぎねぇんだ。だからこそ、海の外で俺たちの本当の凄さをわからせなきゃならん。俺はそれをやってるつもりよ」
「我らは西洋と東洋の境をなくさんならん」
「上等、上等」
 美津田は機嫌よく、琥珀色の蒸留酒をあおっている。
 熊楠がこの曲芸師と知り合ったのは、三週間ほど前のことだった。知人に招かれ、銀行の支店で会ったのが初対面だった。美津田とはその場で意気投合し、最近の熊楠は足繁くこの邸宅に通っている。
「今宵は、御子息は?」
 熊楠の問いかけに、美津田は天井を指さす。
「上で休んでんだろ」
 美津田一座は、美津田と彼の二人の養子から成る。養子たちには、熊楠も以前挨拶したことがあった。
 一座の芸はいわゆる「足芸」と呼ばれるものである。
 幕が開くと、はじめに仰向けに寝転がった美津田が足ではしを操ったり、樽を回転させたりする。さらに二人の養子が梯子の上で見得を切ったり、回転する樽に乗ったりするのだ。美津田がイギリス国内で興行を打つようになって六年が経つという。ロンドンの一角に三階建ての宅を借りていることからも、立派に客を集めていることが窺えた。
 熊楠は天鵞絨ビロード色のフロックコートを搔き合わせながら、ちびちびブランデーを飲む。
 夏にもかかわらずコートを着ているのは、冷えるからというより、単に衣類の調整が面倒なだけだった。表面はもわもわと毛羽立ち、垢と汗の入り混じった悪臭をまとっているが、そんなことにとんちやくする熊楠ではない。
 夜は刻々と更けていく。
「ところでよぉ」
 やおら、美津田が身を乗り出した。
「その、鳥山先生の話はわかった。けども大学目指しとった手前が、なぜロンドンなんぞに流れ着いた?」
 熊楠は意味ありげに顎をで、たっぷりと間を置いて応じる。
「それぁな、深い訳がある」
 途端、頭のなかで「ときの声」が湧き起こった。
 ——格好つけんな、熊やん。
 ——どこの学校でも通用せなんだだけじゃ。
 ——親兄弟に嫌というほどあほげに金出さして、このおやこうもん
 熊楠はすぐさま反論したいのを堪えて、こめかみに力を入れた。難しい顔で黙り込んだ熊楠を見て何か思い違いでもしているのか、美津田は優しげな口ぶりで語りかける。
「一言で不足なら、十でも百でも語りゃあいい。なんなら泊まっていけ。熊公、俺は手前の話が聞きたい」
 そうまで言われて、話さぬわけにはいかない。
 熊楠はブランデーをひと舐めし、和歌山中学を卒業してからの十年間を思い起こした。

 和歌山中学を卒業した熊楠は、上京し、予備門の試験に必要な英語を学ぶため神田淡路町のきようりゆう学校に入った。翌年九月には、首尾よく東京大学予備門に合格。と、ここまでは目論見通りである。
 予備門に入って二、三か月もすると東京の水に慣れ、熊楠は興味の赴くまま出歩くようになった。ことに足繁く通ったのは、博物館や動物園がある上野だった。
 採集も行っていたが、その趣きは和歌山にいた頃とはやや異なっていた。植物や昆虫はもちろんのこと、土器や骨片といった考古学的な遺物までしゆうしゆうの幅を広げたのだ。モースが発見したおおもり貝塚にも幾度か足を運び、人骨らしきものを拾った。江ノ島や日光での採集旅行を行い、博物学に関わる書物は片端から買い集めた。
 すべては、鳥山と約束した「来るべき学問」のためだった。
 そもそも予備門に入ったのは、軍人や官僚になるためではなく、博物学を究めるためである。しかしながら、予備門の講義では何ら目を引く知識を授けてはくれない。それなら自主休講して、博物館にでも足を運んだほうがよほどましである。熊楠にとっての学問とは、じっと座して他人の話を拝聴するものではなく、野山を駆け回り、書物に溺れることで脳内の世界を押し広げることであった。
 ——ほんまにええんか。
 ——落第したら、おはんに顔向けできやな。
 ——せめて及第しよし。
 口うるさい「鬨の声」を適当にいなしながら、熊楠はせっせと採集や読書に励んだ。
 そして十八歳の年末、代数の点数が足りず落第した。結果を知った熊楠は慌てるでもなく、「そがなこともあら」と平気な顔をしていた。一度落第しても、次の試験で及第すれば進級できる。
 だが、強烈な脳病の発作には敵わなかった。
 年明けから、脳味噌を締め上げるような痛みに幾度も襲われた。発作が来るたび、目の奥で光が明滅し、その場に崩れ落ちる。そして、発作は時と場所を選ばない。学友たちと会話していても、野山での採集をしていても、構わず急に襲い来る。一、二か月もそんなことが続き、とうとう学問どころではなくなった。
 右衛もんに助けを求めたところ、供の者を引き連れた父が東京まで迎えに来た。お前はようやった、学問よりも命が大事じゃ。そう語る父の勧めもあり、予備門は中退することになった。
「我もこがな窮屈なとこ、そろそろんだろ思とった」
 強がる熊楠は、この機に紀州の植物を採集し尽くす計画を立てた。どうせ故郷へ帰るなら、そこでしかできぬことをやるべきだ。
 だが、静養のために和歌山へ戻った熊楠を待っていたのは、再三にわたる父の説得だった。
「熊楠。学問はもう趣味に留めときよし。今からでもおそない。商売やるんやったら我が教えたるさけ、酒造に入り」
 弥右衛門は、熊楠を戸主とする分立をいまだ諦めていなかったのである。
 家督を継いだ兄ほうとうぶりは相変わらずで、経営を任せれば遠からず破産に追い込まれることは火を見るよりも明らかであった。父はすでにみなとこんまちの土地を購入し、「南方酒造」の屋号で酒造業をはじめていた。いずれ醸造人の座を熊楠に引き渡し、こちらを南方家の本家としたい、というのが父の腹積もりであった。
 熊楠は採集に出てみたり、知人の家に泊まったりしてみたが、弥右衛門は逃がしてくれない。多忙な経営の隙を縫って、「腹決めたか」とか「いっぺん帳場入ってみ」などと言ってくる。こうなると、予備門中退を勧めてきたのも跡継ぎに誘導するための企みであったように思えてくる。
 根城の四畳半に寝転んだ熊楠は、「鬨の声」がかまびすしくわめくのを聞いていた。
 ——お父はんがここまで仕立てたもんを、断ってええんか。
 ——あつぽけ。経営なんかようしやん。
 ——けど、何もしやんかったらほっぽり出される。
 結論が出ないなか、見舞いに来た知人がアメリカへ渡航するという話を聞いた熊楠は、とっさに閃いた。
「これじゃ!」
 アメリカへ渡って学問をやる。とは言っても学者の下につくつもりはない。アメリカへ行けば、当地固有の植物や菌類、藻類が採集できる。この国では手に入りにくい洋書も買い放題だ。博物学の徒として行かぬ手はない。何より、国外に逃げれば家督の問題から逃げられる。これまで思いつかなかったのが不思議なほどの妙案だった。
 一度決めたら、もはや他の道は考えられぬ。熊楠はすぐさま弥右衛門にアメリカ留学を訴えたが、当然ながら老父からの賛同は得られなかった。
「東京ですらままならんもんが、アメリカで学問をやり遂げる道理があるかよう」
 正論である。それでも熊楠は諦めず、説得を重ねた。
「聞いておくれ、お父はん。こんにち、日本人と欧米人との競争は益々激しなっちゃある。誰かが敵地に踏み入って、欧米人と直接切り結ばんならん。我らの存在を誇示せんならん。にもかかわらず、海外雄飛する日本人はほんのちっとじゃ。このままやと日本は淘汰される」
 幾度も繰り返すうちに、熊楠自身、日本のために海外へ行かねばならぬという観念に染まりきり、さながら憂国の士になった気分であった。ただし、脳内では「鬨の声」が常に野次を飛ばしていた。
 ——さすが熊やん、大言壮語は一人前じゃ。
 実際、学者として海外に活路を見出すしかなかったのも事実だ。予備門を中退し、研究者との縁故もない己が、日本の学術界で活躍できるとは思えない。それくらいのことは熊楠もわかっていた。
 結句、弥右衛門が首を縦に振ることになったのは、熊楠の演説に感銘を受けたわけではなく、徴兵という喫緊の課題のせいだった。当時、男子は満二十歳で徴兵検査を受けることが義務付けられていた。ただしこれには例外もあり、たとえば家督を相続した者であれば免除される。兄弥兵衛が若くして戸主となったのもこの規定が念頭にあった。
 熊楠は翌年、満二十歳を迎える。そして海外に留学していれば徴兵は猶予される。経済的に恵まれているからこそできる徴兵逃れであった。
 仏間で数十度目の説得を受けた弥右衛門は、嘆息しながらも熊楠の懇願を聞き入れた。
「行かしちゃるさけ、せめて酒造の役に立つ学問をやりよし」
 唯一出された条件は、商人である弥右衛門なりのせめてもの悪あがきであった。
 かくして、十九歳の熊楠は明治十九(一八八六)年十二月、サンフランシスコ行きの客船シティ・オブ・ペキン号に乗り込んだ。

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