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ピアニスト・藤田真央 #06「ふたりの師の教え――音と、音楽と、向き合うこと」

毎月語り下ろしでお届け! 連載「指先から旅をする」

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 モーツァルトを集中的に演奏するようになってからというもの、わたしは歌曲、とりわけドイツ・リート(歌曲)への関心を強めています。

 同じドイツ・リートでも、シューマンとシューベルトを比較するとまた面白いですね。シューマンの曲は、こちらを刺してくるような「痛み」がにじむ。クララへの恋慕といった、作曲家の想いがストレートに表現されています。わたしはそういった創り手の自意識が前面に出すぎているものには、少し戸惑ってしまうんです。以前、好きな小説についても同じようなことをお話ししましたね。

 対してシューベルトの歌曲というものは、概して客観的、かつ構築的なのです。たとえば彼の曲には、同じメロディ、ハーモニーが繰り返されながらも、1番と2番で歌詞が異なるものがいくつかあります。まるで現代のJ-POPのようなつくりですが、当時はこれが珍しかった。歌詞の変化にあわせて、ハーモニーの意味合いまで異なるものに聞こえるのです。これは相当な客観性とバランス感覚がないと成立しないですよね。

 シューベルトは1797年に生まれ、1810年頃から作曲の才能を開花させました。1800~1810年というのは、ベートーヴェンがもっとも旺盛な創作活動をしていた時期。つまりシューベルトは、偉大な作曲家が音楽のすべてをやり尽くしたとされた、「ベートーヴェン後」の時代を生きた人なのです。否が応でもベートーヴェンを意識せざるを得ず、実際、同時代の作曲家たちの多くが彼の影響を強く感じさせる楽曲を発表していくなか、シューベルトはまったく独自の作曲様式を築き上げています。そのようなシューベルトの音楽への向き合い方に、わたしはとても惹かれるのです。

 シューベルトの特異性というものは、彼の交響曲にいちばん表れていると思います。シューベルトの交響曲は、生前は演奏されることすらほとんどありませんでした。彼の死後、シューマンが楽譜を見つけて日の目を見るわけですが、ベートーヴェン後に自分は一体何をすればいいのかと思い悩んでいたシューマンにとって、シューベルトのオリジナリティ溢れる作曲法は希望になったのではないでしょうか。
 シューベルトの作品は、交響曲でもピアノ曲でも、まるで歌曲のように情景がくっきりと浮かび上がってくる。極めて複雑なハーモニーと、複数軸で奏でられる旋律、それらすべてに意味が込められているように感じます。

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