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寺地はるな「リボンちゃん」#002

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同僚の転職祝いは、一週間分のショーツ。この刺繍があの子に添い続けてくれますように。百花はそう願いを込めた。

第二話

 ななめ前を歩いていた社長が「なあ」と言ったので、思わず身構えた。社長の声が甲高くなるのは、なにかめんどうな話題を持ち出す前兆だ。
 銀行からの帰り道だった。思えば今朝、「きみも来てよ、経理担当なんだから」と声をかけられた時からなんとなく予感はしていたのだ。借り換えの手続ぐらい、いつもなら社長ひとりで済ませているから。
「はい。なんでしょう」
 無意識に、髪に手をやった。今日は幅の細い、どう色のリボンを髪に編みこんでいる。社長が甲高い声を出すのと同様、わたしにも癖がある。心を落ちつかせたい時にはとりあえずリボンに触れる。
 社長が立ち止まり、くるりと振り返った。しかたなくわたしも立ち止まる。
 わたしが勤めている「株式会社ストレージ」の社長こと西にしなかじまたかしは、ひとことで言うと「金持ちのおぼっちゃん」だ。もうすぐ五十二歳になる人をおぼっちゃんと呼ぶのもどうかと思うが、どうにも大人の男という感じがしない。つねにアロハシャツとかへんなTシャツとかハーフパンツとかジャージとかというずるずるした服を着ているせいかもしれない。髪が常にぼさぼさのもじゃもじゃだからかもしれない。背はけっして低くはないのだが、なぜか実寸よりも小柄な印象を周囲に与えるらしく、実際に隣に立つと、その思いがけぬサイズ感にぎょっとされることが多い、とのことだった。
「なんでしょうか、社長」
 今一度、問い直した。
「あの店に寄る」
 社長の指さす先に、赤いひさしのついたごく普通の、チェーンのカフェがあった。寄ろうか、でもなく、寄ってもいいか、でもなく、寄る、だ。
「総称としての、茶」
 ふたたび歩き出しながら、社長がつぶやく。
「飲むのが茶とはかぎらないというか、たいていコーヒーじゃない? でもみんな『お茶する』とか『茶飲み友だち』とか言うよね。酒以外のものを飲む行為の総称として茶ってことなんだよね?」
「そうですね。なにかご不満ですか?」
「不満はない。ただ、とつぜん気になり出した」
 まあそういうこともありますよね、とあいづちを打ってからカフェのドアを押した。平日の午前十一時過ぎという時間帯のせいか、客席は三割ほどしか埋まっていなかった。さきに注文と会計を済ませるタイプの店で、社長は「きみ席えらぶ。おれ『茶』買う」と財布を取り出した。
「じゃあ、カフェラテでお願いします」
 窓際の、二人掛けの席を選んだ。こうすれば社長がなにを言い出しても、外を眺めることで気を紛らわすことができる。
 こんどはいったいなにを思いついたのだろう。また格闘技系だろうか。
 社長がふたつのマグカップがのったトレイを胸の高さまで持ち上げて、よちよち歩いてくる。社長のコーヒーもわたしのカフェラテも、なみなみとマグカップの縁のあたりまで注がれていた。こぼさないように、という努力の結果としてのよちよち歩きだった。
ももさん、あのさ」
 コーヒーをひとくち飲んだ社長が、ようやく話しはじめた。いかにもいいかげんそうな見た目だが、従業員のことはさん付けで呼ぶ。バイトをはじめた頃はしまさんというわたしと同じ姓の男性社員がいて、わたしは下の名前で呼ばれることになった。彼が辞めてしまってからも「百花さん」呼びが定着している。
「きみは、勤め出してどれぐらいになるかな」
「十年です。学生の頃のバイト期間を入れたら、十三年」
 どうも、新しい商売をはじめるという話ではなさそうだった。あんとともに新たな不安が胸に広がる。わたしの最近の仕事ぶりに不満でもあるのだろうか。
 社長は「そうか」と頷いて、下を向き、小さい声でなにごとかを言った。よく聞き取れない。
「え? なんですか?」
 聞き取れないので、ぐいっと身を乗り出した。どうも、「えみ」と呟いているようだ。
「えみちゃん? 彼女がどうかしたんですか?」
 西中嶋えみちゃんは社長の姪だ。
「えみがやめるって言い出したんだよ」
 そんなの予想(あるいは予定)されていたことだろう、と思いながら、カフェラテを飲む。
「まだ二年だよ。はやいよ、転職はさ。おかしいじゃない、きみは十三年もいるのに、えみはたったの二年で」
「そんなこと言われても」
「おれはね、おかしいと思うのよ。そんなのは」
 声が急に大きくなったので視線を上げると、目が合った。社長ははらはらと頰を流れ落ちる涙を隠そうともせず、への字に結んだ唇を震わせていた。わたしはぎょっとしてマグカップを置く。急いで置いたせいでカフェラテがこぼれて、テーブルを点々と汚した。

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