文献学者・嵯峨野修理のもとを訪れた元妻の真理。
彼女が修理に見せたのは、襖の下張りに使われていた近世の書きつけ。
ディレッタントはここに、長年秘匿されてきたある謎を発見しーー
五、説話猿橋伝承の解題のこと
後日、私は再び嵯峨野邸を訪っていた。
先日は、激昂する私を妙さんがなんとかホット・ワインで宥めて落ち着かせ、杯をすでに過ごしていた私はなんだか疲れ切って居心地のよい客間に寝かされることになった。客間というか元私の部屋である。事実上は現私の部屋でもある。入り浸っているので。
タビ氏を伴って蔵へと逃げていこうとする修理を捕まえて、そこまで判っているんなら件の肉筆回覧誌の記事が再録されている地域民俗説話集のごときものは、お前が見つけて爾後よしなに報告しろと厳に言い渡してやった。
というわけで調査報告会が開かれたわけである。
「それでなに、見つかったの?」
「お姉ちゃん、なんでそんなに威張ってんのよ」
妹の佐江も列席あらせられた。最近では姉妹間の仲はあまり芳しくない。というか常時交戦中である。
「修理が真理ちゃんを怒らせるから」
「妙さんはどうしてそうお姉ちゃんに甘いの?」
「お前はどうしてそう修理の肩ばっかり持つんだよ!」
「あたしはいつでも修理の味方だよ」
そして「ねぇ」としなをつくって修理に微笑みかけるが、修理は苦笑いで返していた。佐江の好意を受け止めかねているのである。一方の佐江はかつて「お姉ちゃんが別れるなら、あたしが後妻に入る」とソロレート婚宣言をして(私を勝手に鬼籍に入れるな!)、それ以来修理に苛烈なアタックをかけつづけ、私とは激烈な姉妹喧嘩を繰り広げている。悪いけど本気だから、とのことだ。
妙さんは、二人とももともと娘みたいなものなのにと困り果ててはいるものの、先だって佐江に孫は欲しくないのかとアピールされたときには、「むっ」と言ってちょっと眼が光っていた。なんだか複雑なのである。というか面倒くさい。
ともかくも「勾玉さげたる天狗」の方でもいいし、「猿ケ沢渓谷の橋の行き違い」の方でもいいから、落ちはなんとか着けていただきたい。
「はいよ」と修理はセミナーの配布資料を渡すみたいに、二、三枚のレポートを卓上に滑らせた。それぞれ手に取ると、そこには訂正を経た「勾玉さげたる天狗」の釈文と、もう一つ、完全な形に復元された「猿ケ沢渓谷の橋の行き違い」が掲載されていた。
「結局、野町くんはどうしたって?」修理が訊く。
「近世の先生に草双紙版下が一葉見つかったかもしれないと話したら、そちらで沙汰を引き受けるという話にまとまったみたい。大発見かどうかはともかく、ちょっとした椿事ということで、近世版本研究の界隈では語り草になってるってさ」
「襖はどうするの?」
「やっぱりその先生が草津に引き取りに行くって。旅館の方はこの逸話そのものが宣伝になるって喜んでいて、館内の全襖のチェックを画策しているとか」
「じゃあ野町くんも面目を施したんだな。相談を受けた真理のお手柄ってことになったのか」
「お姉ちゃんは何もしてないじゃん。修理のお手柄でしょう、本当は」
まあ確かにそうだが。
「多分、学会誌の方に一報が出ることになるらしくって、野町くんは資料発見の功ということで共著者に数えられることになるみたい。野町くん、院進を考えていたらしいんだけど、修士課程が始まるやいなや一本業績が……それも専門外の業績が出来ちゃうということで戸惑っているそうだよ」
「それで問題の再録説話集っていうのは首尾よく見つかったのね」
妙さんの問いに修理は首を振った。
「いや、それが見つからなかった」
「えっ、だってこれは?」
手の中のレポートを慌てて覗き込むと、末尾の出典がどこのなにがしの「私蔵手稿」ということになっている。
「北信民俗研究会の回覧誌だったんだな。そこからは県全体の調査報告を取りまとめて信濃史研究会編纂になる『長野の説話』が上梓されたが、問題の一編は再録から漏れている」
「へえ、なんで?」
「まずは読んでみて」
なるほど襖の下張りの断簡は、この手稿の回覧用清書に他なるまい。
そして一編の落ちは「地震によって橋が繫がった」だったのである。
「これ、修理はどこまで予想していたの?」
「どこまでって?」
「この、地震で行き違っていた橋が繫がったっていうところよ」
「まあ、そんなところじゃないかなと思っていたよ」
「初めから?」
「まあ、そうだね。初めからこれは地震の話だなとは思ってた」
「なんでよ」
「糸魚川静岡構造線は地震の多発地帯だからね」
呆れてものも言えない。