司馬遼太郎「活字の妖精」
活字の妖精
もし山中を歩いていて、活字のオバケに出会ったとする。
「ここに白い紙の束がある」
と、オバケがいう。紙の束をパンとたたいて、
「なんでも思ったとおり書いてもいい。駄作でもいいし、悪作ならなおいい。へのへのもへじ、と書いてもいい」
といってくれるような夢想を、作家ならたれでも持つにちがいない。
私にとって『別冊文藝春秋』はそういうものだった。
小説を書きましょうと思いたって早々は、どんな作家でも、十九世紀以来、名作の累積によってできあがった小説の概念や価値意識の重圧からのがれられるものではない。自分の中のそういう“文学論”の概念化したものが、たえず机のうしろからのぞきこみ、冷笑し、いちいち口やかましく点検する。それをこけにして、自分の自由をわずかでもひろげられるほど――そうせねば小説など書けないが――人間はずうずうしくなりにくい。
私が、いわゆる文学専門雑誌に書くことをおびえてきたのは、自分の中のその監視者が居丈高になることがこわかったからである。
また、商品としての完成度の高い雑誌もまた、書きにくい。自分にとっての“へのへのもへじ”の自由など、雑誌の商業性におしつぶされて、萎えてしまう。
――いいえ、おもしろい小説なら、なんでもご自由なんです。
などといわれても、自分がおもしろいと思っていることが、その雑誌が精密に吸いあげて組織している読者たちにとっておもしろいはずがないと思ってしまうのである。
その点『別冊文藝春秋』はなんともひろやかで、ありがたかった。
はじめて書いたのが「外法仏」という短編で、昭和三十五年三月号である。遠い昔で、発売日にうまれたひとはもう一児二児の母になっているにちがいない。
私はかねがね“外法”というものにおかしみをもっていた。外法というおそらくインドで発生した呪術は、仏教の導入とともに非公式に日本に入ってきたかと思える。
外見は仏教に似、内容はジプシーのうらないよりも怪奇である。とくに、平安末期、卑しまれながらも隠微に流行した。
その一派は、呪具として人間の頭蓋骨をもってあるくのである。ただし、ただの頭では、いい呪具にならない。
「外法頭」
ということばが、当時あった。
両眼の線が、顔の横半分より下についていなければならない。また頭が大きく張って、顔が下すぼみのように小さいという条件がそなわらねばならない。
外法の呪術師は、そういう頭を物色して歩くのである。結構なものがみつかると、当人と生前に約束し、まだ息のある臨終のときあわただしく切りとって(臓器移植に似ている)道路にうずめておく。道路は往来のはげしいほうがいい。人の足で踏まれることが、験を増すことになる。一年後にそれを掘りだしてはじめて呪具としてつかう。
以下の噺は後嵯峨院(一二二〇〜七二)の世というから、もう鎌倉の世になっている。しかし公卿たちが位階に執着することについては平安の世とかわらない。『増鏡』によると、大政大臣という位人臣をきわめた公卿に藤原公相というひとがいて、政治家としてはなんの能もなかったが、ほればれとするほどの外法頭のもちぬしだった。
ある日、宮廷の雑談の場で、自分はすでに官位ともに極まり侍って、なにひとつ思うことのない身です、とつぶやきつつも、ただひとつ気がかりがある、と言い、はためにもめだつほどに打ちしおれた。
「いかなる憂えにか」
後嵯峨院が問うと、公相は、この場にいる父(常盤井の入道)にさきだって死ぬような気がしてなりません、という。
そう言いつつも公相に病いがあるわけではなく、ひとびとはまさかと思ってうちすてているうちに、ほどなく死んだ。
公相のこのふしぎな予感と、その外法頭とがむすびつけられて、おそらく外法の者どもに、わるい修法をかけられたのだろうとひとびとは囁きあった。
つまり、その道の者がその早死をねがい、ついに験あってみまかると、さっそく遺骸を掘りだして頭を盗んで行ったというのである。
当時、天皇・公卿以下、火葬の時代だったから、この話の実否はうたがわしいが、もし本当とすれば、これほどばかばかしく滑稽なはなしもない。公相は生前なんの業績があったわけではないが、死後、しゃれこうべになって山野を持ち歩かれ、修法の験をあらわしてまわるのである。
これが拙作「外法仏」のたねである。
以上のように、たねだけを書けばいかにもおもしろそうだが、当の「外法仏」は無用の化粧などがあって、いま読みかえしてみる気にもなれない。なにぶん直木賞をもらっていきなりの作品で、気分の重心があがっていたし、先人の亡霊が肩ごしにのしかかっているようで、悲鳴をあげたかった時期である。
それでも多少のゆとりをあたえてくれたのは、場がこの雑誌だったことによる。
その後、ずいぶんこの雑誌には書いた。『酔って候』『王城の護衛者』『最後の将軍』『殉死』(原題は「要塞」「腹を切ること」)、あるいは『故郷忘じがたく候』など、いわばなんの拘束も意識せずに書くことができたのは、冒頭の山中の活字オバケのおかげだった。私にとってこの雑誌は妖精だったような気がする。
むろん、へのへのもへじに類することも書いたような気もするが、ありがたいことに、この妖精はいちども苦情をいわなかった。
今後も、多くの作家や読者にとって、うれしい妖精であってほしい。
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