門井慶喜「天下の値段 享保のデリバティブ」#007
第4章(承前)
垓太が神妙な顔になり、
「今度は、逃げへんで」
小声で言うと、久右衛門はうなずいて、
「中川、川口、久保田のお3人さんは、もう再来月には堂島近くに新たな御用会所をかまえて、いろいろお指図を始めはるでしょう。ご公儀もこれほどの人を差し向けるからには、よほどお覚悟が強いのでしょうし、あっさり引き上げもしないでしょう。あたしたちには正念場です。これは最後の戦いになる」
「戦い」
垓太はぎょっとして久右衛門を見た。久右衛門はなお静かな口調のまま、
「われら大坂の商人が、ご公儀の犬に成り下がるか、人間のままでいられるか。その大勢が決まるんです。もっとも、その戦場は、前と同様もっぱら正米のほうになるでしょうけど」
「そらそうや。ご公儀は江戸の侍のことしか考えてへん。侍のためには正米や」
「ただ帳合米のほうも、そろそろ決着をつける時機でしょう」
「え?」
「というより」
と、久右衛門は、ひざを打つような仕草をして、
「むしろ帳合米こそ話の本領。そう思いませんか、垓太さん」
「そう思いませんか、言われても……」
「もはや大坂の誰にとっても欠かせん取引であり、大坂の外の人にとっても、その動向が刻々と気になるような取引。正米とは比べものにならんほど多くの人を巻き込んで銭金をひゅんひゅん行き戻りさせておきながら、ご公儀のご機嫌ひとつで明日にでも闕所、牢舎の声を聞こうなど……どうせ最後の戦いなら、ご公儀に、帳合米を認めさせるまで行こうやないですか」
「あほう」
と、垓太はつい声が大きくなった。久右衛門の顔を見すえて、
「あんたはつまり、その認めさせる仕事をこの俺にやれ言うんやろ? 無理に決まっとる。そんなん加島や鴻池のやることや」
「正米の対応で手いっぱいです」
「でも俺かて」
「垓太さんが適任なんです。ほかの誰より」
「なんでやねん」
「骨の髄まで、帳合米の人やから」
と言うと、久右衛門は、ちょっと霰釜の湯の様子を見るようにしてから、
「話は聞きました。垓太さん、かつて淀屋さんが闕所になったときも、茄子作村で帳合米の指南をやったそうやないですか」
「……」
「そののち大坂へ舞い戻り、帳合米で儲けを出した。そうして紀伊国屋さんらが来たときも、帳合米を取り締まると勘ちがいして大津へ逃げて、結局はそこでも帳合米を。よほど頭がいっぱいのようで」
「帳合米が好きなんやないで。ほかに何もでけんだけや」
「大才いうんは、そういうもんです」
「正米と違うて、元手がいらんし」
「いまはそういう時勢ですよ。少数の大店よりも無数の民の銭金のほうが世を動かす」
「だいいちご公儀に認めさせる言うても、実際どうすんねん。恐れながらと御番所(大坂町奉行)へまかり出て『お願いします』って訴えるんか。それこそ闕所、牢舎やで」
「かもしれません」
「かもしれんって、そんな……」
「打ち割ったところ、あたしも、雲をつかむような気分でして。実際どうするかまでは」
「ほかの仲買にも聞いたんか」
「幾人か。みんな知恵がよう出んで」
「俺も、出ん」
と垓太が言い切ると、久右衛門は意外な反応を示した。
「そうですか」
みるみる肩を落としたのである。どうやら帳合米に関しては認めさせよう、認めさせねばと、その決意が先走るだけで、現実的な思案が追いついていないらしく、逆にいえば久右衛門はそれだけ垓太に期待しているというより、じつは縋りたいほどの気持ちなのかもしれなかった。垓太もつい情味が出て、
「そら、俺も、ご公儀に一泡吹かせたい気持ちはあるで。あいつらは大坂の小商人なんぞ犬猫以下にしか見てへんしな。でもなあ、こればっかりはなあ」
「ちょっと、ちょっと」
と、横から口を挟んだのはおけいである。子供みたいに頰をふくらまして、
「さっきから黙って聞いとったら、あんたらだけで長談義して。うちのこと忘れてへんか。久右衛門さんはなんで? なんで垓太だけやのうて、うちも呼び出したん?」
久右衛門はのけぞるような仕草をして、目をしばたたき、
「そら、まあ、何となく」
「何となく?」
「はあ」
「お内裏様にお雛様やあるまいし、うちは垓太のお飾りやないで」
「これは、市場の話でして」
と、久右衛門がつぶやいたのは、要するに男だけの世界だと言ったのである。それはそうだった。おけいがいかに心を寄せようと、いかに人に好かれようと、女は市場に入れない。
おけいはいよいよ興奮して、
「そんなんやったら、うち、いらんやん」
「いや、おけいさん、不愉快やったら謝ります。あたしは単に、なつかしさのあまり」
「なつかしさのあまり、これか」
と言うや、おけいは下を向き、膝の前の茶碗へ右手をのばした。
親指を内側に突っ込んで持ち上げ、茶の残りを一気に飲んだ。やはり頭がぎゅうんとしたのか、茶碗を置いて、垓太のほうへ、
「意気地なしやで。あんたも」
左右の目が、猛禽類のそれのように光っている。垓太は、
「俺が?」
「闕所や牢舎がなんぼのもんや。みんなのために命がけで御番所へ行くくらいのこと、なんででけへん」
「そんなん無茶やで、姉ちゃん。博奕はあかん。ちゃんと損得を考えて……」
「損得なんか考えたらあかん」
「商人の娘がそれ言うか」
「あんたはまだ逃げてるんや。心が事に立ち向こうてへん」
「そんなことない。俺かて……」
と、このとき垓太の頭脳がこれ以上ない速さで回転したのは、姉のことばの鉄砲玉へ応戦するのに必死だったからか、それとも茶の成分がいまだに脳内で熱く渦を巻いていたからか。ふと目を落として、
「待てよ」
「何や?」
「待って、姉ちゃん、ちょっと待って……」
「何やねん。奉行所へ行く決心が……」
「ついた」
と言うと、垓太は目を上げ、おけいを見た。おけいは虚を衝かれたか、やや口ごもって、
「へえ、そうか」
「けど大坂とちがうで。そんなとこ行っても何にもならん。帳合米のけり付けよう思うたら、やっぱり本家へ乗り込まな」
「本家?」
「江戸」
「あの」
と、口を挟んだのは久右衛門である。よちよち歩きの子が川べりを歩くのを見るような目で、
「それはつまり、江戸南町奉行の……」
「そうや、キュウちゃん。みんな知っとるわ。前回の紀伊国屋も、たぶん今度の中川一味も、うしろで糸を引いてるんは南町奉行の大岡越前守いうやつや。その大岡様へ」
「じかに訴える? それこそ博奕やありまへんか」
「博奕やない」
「なら何です」
「相場や」
「相場?」
「ああ、そうや。博奕は勝ち負けに理由がないが、相場はある」
おけいが横から、
「垓太、気は確かか。そんなんあかん。いくら何でも無茶しすぎや。たかだか何百石の取引とはわけがちがうねんで。万が一負けたら、あんたの首が飛ぶだけでは済まん。大坂の米相場そのものがお取りつぶしになりかねへん」
垓太の肩へ手をかけた。垓太はにやっとして見せて、
「言うたはずやで、姉ちゃん」
「何を」
「相場いうのは、運や勘で張るもんやない。情報で張るもんや」
「つまり垓太さん」
と久右衛門が目を光らせて、
「あんたはご公儀に帳合米を認めさせるだけの、それだけの情報を持っていると?」
「ああ」
「どこで得ました」
「大津や」
「お茶室にお招きしたのは、幸いでした」
「なぜ」
「話が漏れずにすむ。垓太さん、聞かせてもらえるでしょうな」
「ええで」
垓太は肩のおけいの手を下ろし、話しはじめた。
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