門井慶喜・新連載スタート!!「天下の値段 享保のデリバティブ」#001
序
紀州和歌山城中、二ノ丸御殿の一室でごろごろしていた新之助のもとに使いが来て、
「本丸に来い。いますぐ」
という父からの命を伝えたのは元禄9年(1696)夏の昼さがりだった。
新之助、13歳。
(暑い)
それしか考えられなかった。この年の和歌山は特に気温が高く、雨がふらず、そのくせ湿度の高い日がつづいている。
1日中、蒸し風呂にいるようである。蟬がうるさい。新之助は頭の芯まで溶けてしまって、正直、
(面倒な)
そう思ったが、しかしながら新之助の父はこの和歌山城の城主であり、いわゆる徳川御三家のひとつ紀州藩55万5千石の第2代藩主・徳川光貞にほかならぬ。来いと言われて行かぬわけにはいかない。
「わかった」
と低い声で言って使者を去らせると、新之助はのっそり立って、文机の上の茶碗の水を飲みほして、部屋を出た。
肩衣も袴もつけぬ着流しのまま、二ノ丸にひしめく建物のあいだを抜け、南側へ出る。目の前には切り立った崖のような石垣がそびえていて、本丸はその上にあるはずだった。
新之助は右へまがり、西へ歩いた。
石垣ぞいに左へ折れることを2度くりかえすと、歩く向きは東になり、本丸へ上がる石段があらわれる。ここまで誰にも会わなかったのは、みんなこの暑さで屋外へ出る気がしないのだろう。新之助は石段に足をかけ、ゆっくり登った。石段は急だった。この城はもともと虎伏山という山を切り開いて築かれたもので、本丸とは要するにその山頂の平地なのである。
本丸へ上がると、御殿の玄関をめざした。ところが玄関には表勤めの侍が立っていて、この暑いのに肩衣に袴をぴったり身につけ、顔を汗まみれにしながら、
「あ、いや、新之助様」
「何じゃ」
「殿様は、いましがたお出になりました。天守で待つと」
「天守?」
「はい。そのてっぺんで」
「はて」
新之助は、首をかしげた。
体の向きを変え、それを見あげた。天守はこの山頂のもうひとつの平地である天守曲輪の奥に立っていて、地上約20メートル、3重3階のみごとなものだが、しかし何しろ太平の世である。徳川家康がいわゆる江戸幕府をひらいてより約100年、この和歌山でももう戦乱がなくなって久しいので、無用の長物と化していた。
もはや敵襲の見張りに使うこともない。他国の要人をまねいて誇示することもない。むろん新之助もこれまで足を踏み入れたことがなく、踏み入れるほどの興味もなく、まあ丈高い空き家くらいにしか思っていなかったその天守のほうへ近づいて行くと、入口の扉があいている。
わらじをぬいで上がりこむ。味噌蔵のように薄暗い。トントンと梯子段をのぼるにつれ土ぼこりの匂いが強くなった。1階も2階も板の間で、多少の武具類が置いてあるだけだが、最上階の3階はいちめんに畳が敷かれていた。畳表が思いのほか青々としているのは、ふだん戸を閉めきっていて陽の光にさらされなかったせいか。
父の声が、
「おお、来たな、新之助」
声のしたほうを見ると、光貞の顔が、こちらを向いてにこにこしていた。
城主というより、ただの71歳の老人の顔である。首から下は見えなかった。屋外の廻り縁に出ていて、首だけ屋内へ突っ込んでいるのだ。新之助はそちらへ行き、ちょっと頭を下げつつ、廻り縁に足を踏み出した。
とたんに目の前が明るくなって、生ぬるい風が吹き上がって来た。下を見ると瓦葺きの屋根が広がっていて、その向こうの地面の上で、数人の武士が、ちまちまと肩を寄せてこちらを見あげている。
新之助は一瞬、足がすくんで、そっと高欄に手を添えた。父は右に立っている。新之助はそっちに、
「こんなところへ、何のご用でお呼び立てに……」
言いかけて、目を見ひらいて、
「兄上方」
父の向こうに兄2人も立っていたのだ。せまい廻り縁である。横1列にならぶようにして、新之助に近いほうから父、長男綱教、それに三男頼職。
新之助は、四男なのである。つい父に、
「よろしいのですか。私ごときが」
と聞いてしまったのは、むろん年若だからでもあるだろう。32歳の綱教はもとよりのこと、17歳の頼職までもが新之助にとっては振り仰ぐような大人なのである。しかしながらそういう年齢の差よりも、この場合、はるかに大きいのは血の問題だった。
新之助は、父の妾の子なのである。
いや、兄たちもやはり側室の子ではあるのだが、兄たちの場合は母の素姓が知れている。家臣の家の出身らしい。
ところが新之助は母についてはおゆりという名を知っているだけで、氏素性も、どういう気性だったのかも、いま存命なのかさえ知らされていない。
顔かたちも記憶にない。新之助の心には身もだえするような母恋いの気持ちとともに、たえず、
(百姓の子かも)
その引け目があるのだ。だが父は、柔和な口調で、
「何を申すか、新之助。そなたは劣り腹とはいえこの紀州家当主・徳川光貞の実の息子ぞ。何の遠慮がある」
「は、はあ」
「そなたの兄たちも、同様にわしが呼び立てた。ここからの景色を見せんがためじゃ」
「景色?」
「この廻り縁は、ぐるりと天守をかこんでいる。そなたらは一めぐりでこの和歌山の街、ひいては紀伊国そのものを検することができるであろう。みな来年には江戸城にのぼり、大樹公(幕府第5代将軍・綱吉)じきじきに御目見を賜わる身である故、いまのうち何をご下問あられてもいいよう心して国見しておけい。特に長七(頼職)、新之助」
と、父は三男と四男の名を呼んで、
「おぬしらは御目見など、一生に1度かもしれぬ」
そう言うと、新之助のほうへ足を踏み出した。新之助はいったん屋内へひっこんで、綱教、頼職が通過してから、ふたたび出た。
父、長男、三男、四男と、身分の順序のとおりに1列になって、1周しだしたが、新之助は、
(何じゃ)
たちまち退屈した。
高所のながめなど珍しいのは最初だけ、慣れてしまえばどうということはない。ましてや和歌山城はおおむね街のまんなかにあるので、南、東、北、どこを見ても大した差はなく、少しの瓦屋根やら、多くの板屋根やら、それらのあいだを縫うようにして縦横に走る大小の道やらがひしめくばかり。
方角によっては遠くに熊野や高野の山をうかがうこともできるけれども、別に山がこっちへ歩いて来るわけでもない。そこへもってきて横から光貞の大仰な注釈がたえず耳に入ってくるとあれば、
(いやはや)
城主だろうが父だろうが、年寄りの説教などというものは、13歳の少年にとっては退屈をこえて苦痛でしかないのである。
新之助は、何度かあくびを嚙み殺した。こんなことなら二ノ丸の御殿で、ときどき文机の水でも飲みつつ、
(うたた寝するほうが)
が、最後に西面したときには気分が動いて、
「海だ。海だ」
子供のように2度跳んだ。
ぎっぎっと廻り縁の床が悲鳴をあげた。街の広がりの右方から紀ノ川が奥に向かって流れて行く、その流れが或るところで急に横に広がって海へそそぎこんでいる。
海は、いわゆる紀伊水道である。さすがに対岸の四国までは見えないけれども、ほとんど漆黒と呼びたいまでに濃厚な青さの水の上を、船々の白い帆が、ここからもわかるほどの速さで疾走しているのは、その波を切る音まで聞こえて来そうなほど涼しげで楽しい光景だった。
走りの向きは、ふたつだった。ひとつは新之助から見て左つまり南のほうで、船のかたちもおおむねおなじ、みな舳先を太刀の切っ先のように反り返らせている。
これは新之助にも知識がある。菱垣廻船というやつだった。酒やしょうゆ、油、酢、木綿などを満載していて、ほどなく太平洋へ飛び出して東へ向かい、江戸へ向かう。
首都の生活補給隊ともいうべき商船である。もうひとつは逆方向で、右へ右へと動いている。船そのものは小さいかわり数が多く、ちょっとした白旗行列という感じである。
「あれは、どこに行くのです」
と新之助が息をはずませると、三男の頼職が、17歳らしい生意気な口調で、
「あの、北向きの船どもが?」
「はい」
「そんなことも知らんのか。大坂じゃ」
「おおさか?」
「うん」
「大坂へ、いったい何を持って行くのです。魚ですか。みかんですか」
「いや、それは」
と、頼職は口をもごもごさせた。知らないのだろう。長兄の綱教が援軍とばかり、
「米じゃ」
その口調、やや邪険である。新之助は、
「こめ?」
「ああ、そうじゃ。わが紀州で取れた米が、毎年々々、何千石、いや何万石となく大坂の湊に吸いこまれている。かの地の商人がただ自分の金蔵を満たさんがために奸策を弄しているせいじゃ。何しろ今年の秋の収穫分ももう運ぶことが決まっていると……あやつらは獣じゃ。人の皮をかぶった欲深き獣じゃ。そうですな、父上」
「いかにも」
と、父は大きくうなずいた。お前はこの世の理がわかっている、そんな満足がありありと目鼻の微動にあらわれていた。
ゆくゆく自分が死んでも大切な城と領地はこの分別ある長男に任せられるとも思ったのにちがいない。新之助はいよいよ興が乗って、
「どんな奸策です」
「えっ?」
「父上をあざむくほどです。よほどの悪だくみなのでしょう。けれども敵の手を知り、こちらも有効な手を打てば、きっと退治できましょう。最後に勝つのは正義なのです。なあ父上、兄上、お教えください。それはどんな奸策ですか」
「……」
父と兄たちは、顔を見合わせた。
みな困ったような、呆れたような表情である。新之助はうつむいた。どうやら自分は浮かれるあまり、
(場ちがいなことを)
だから次の瞬間、顔を上げて、
「私が、行きます」
と言い放ったのは、直接的には、単なる巻き返しの気持ちでしかなかった。父と兄の役に立ちたい、父と兄に気に入られたい。それ以外の人生の目的はこの少年の胸中には存在しなかったのである。
「私が行きます、あの船どもの行く末へ。そうしてその大坂という餓鬼道の非行乱行のありさまをつぶさに見て参ります。父上や兄上がお出張りになれば騒ぎも大きくなりましょうが、私なら物の数にも入らぬ。世間の目は引きません。いいでしょう?」
「む」
「まあ」
と、返事は曖昧である。新之助はまた1度跳躍して、廻り縁の床を派手に鳴らして、頼職の着物の袖を引いて、
「なあ、なあ、いいでしょう」
口ではいかにも家政のためと言いなしつつ、実際には自分のことしか考えていなかったのではないか。何しろ来年には、江戸の征夷大将軍・徳川綱吉の御目見をひかえている。御目見ののちは慣例によって食禄3万石を賜うこととなり、形式的には1大名の身分になる。そうなったらもう現在のように気軽な外出、思いつきの散歩をすることは、
(できぬ、かも)
父と兄がなおためらうのへ、新之助はぐいぐいと、
「参ります。大坂へ参ります」
頼職の袖を引きつづけた。
†
この視察願いは、半年ほどを経て実現した。
いろいろと家中の役人が奔走したのだろう。新之助が家中の若侍2人、および下男数名をしたがえて和歌山を出たのは、おなじ年の師走、そろそろ年の瀬の声を聞こうという日の早朝だった。
陸路である。大坂までは紀州街道を18里(72キロメートル)、生まれてはじめての長旅で、駕籠も乗物も使わぬ徒歩立ち。
しかしながら体が大きく、筋肉質、なおかつ幼いころは庶子ということで城下の一家臣の家で育てられたため日が暮れるまで近所の悪童とともに郊外の林を駆けまわっても誰にも叱られることのなかった新之助にとっては18里の旅くらい何ほどでもない。同日の暮方あっさり大坂に着いた。天気がよかったこともあり、まったく疲労しなかった。
その夜は、天神橋南詰の紀州藩蔵屋敷に泊まった。
蔵屋敷とは、こんにちで言う倉庫兼出張所のようなものである。広大な敷地のほとんどは米蔵で占められているけれども、なかには一般的な建物もあって、夜には藩士の宿舎となり、昼には藩の事務所となる。
その事務所の一室へ、翌朝、新之助は罷り出た。小さな中庭に面している、朝日のおだやかに差しこむ部屋だった。蔵屋敷の総責任者にあたる留守居の嶋地某というのが来たので、新之助は、
「あのぅ、えー、これから私は市中の案内役に連れ出されるのであろう? 呼んでくれぬか。出る前にとくと言い聞かせてやる」
その口調、われながら遠慮がある。相手は家臣なのである。年が若いせいもあるが、ここでもやはり庶子の意識が引け目になっているのだ。嶋地は尊大な顔で、
「承知しました」
ほどなく案内役が来た。2人だった。大坂一の豪商から派遣されると聞いていたが、
(えっ)
新之助が腰を浮かして、
「おぬしら、と、年はいくつじゃ」
2人は横にならんで正座して、手をそろえて礼をしてから、
「13です」
「13です」
「子供ではないか」
この新之助、大坂一とやらに、
(なめられた)
その不快さはしかし急速に、まったく別の、弾むような興味によって取って代わられることになる。新之助は身をのりだして、
「おぬしら、双子か」
「はい」
「はい」
「1度の子産みで、2人うまれる……そういうことが世にあるとは聞いていたが、見るのははじめてじゃ。それもなお珍しや、男と女か」
「はい」
「はい」
「うーむ、髪型と着物が相違うて、しかも顔立ちが瓜ふたつとは……名もおなじか」
「名は違います」
「申せ」
「垓太と申します」
「おけいと申します」
「ガイタ、オケイ」
と呪文でも唱えるように口のなかで繰り返したが、横の嶋地がわざとらしく咳払いをしたので、新之助は我に返って、
「そんな話はどうでもよい。そのほうども、本日はどんな身分の故をもって罷り越したか」
この問いには、垓太が答えた。それでなくても切れ長の目を、緊張のせいか、いっそう針のようにして、
「われわれは大坂の総年寄、土佐堀南岸の淀屋より参りました。淀屋の番頭である仁右衛門という者の、息子および娘にござります。本来ならば仁右衛門みずからお相手申し上げるべきところですが、こたびのご視察、ごく内々のものとうかがいました。それならばむしろ格式にこだわることをせず、齢相若く者がお世話申し上げるほうがよかろうと」
「たしかに、内々なり」
と、新之助はみょうに肩を怒らせて、
「内々ながら、これはおぬしらの罪をあばく視察であるぞ。なぜなら、おぬしらは米を銭に換えている。米とは大事のものである。日本六十余州の百姓どもが汗水たらして刈り入れし、そのいくばくかを領主に納め、領主はそれで威儀を正す。兵備を整える。そういう天下の公のものを、たかだか大坂一府の商人づれが銭へと変じて私することの罪のからくり、本日つつまず白日の下にさらしてくれる」
「恐れ入ります」
2人が平伏し、それから垓太が頭を上げて、
「ちょうど冬相場が立っております。お目当てには持って来いかと」
「では米市へ案内せよ」
「承知しました」
「承知しました」
ところが蔵屋敷を出るや、この双子は、いきなり天神橋を北へ渡ったのである。天神橋は大川(淀川)にかかる大坂屈指の橋であり、ざっくり言うと北が郊外、南が市中。
(なんだ)
と思いながら付いて行くと、問屋街らしき区域に入った。ものさしで引いたように直線的な道の左右にびっしり建物が立ちならんでいて、その前に、たかだかと丸桶が積み重ねられている。
ほとんど桶の壁である。なかには胸の高さで止まっているのもあるので、歩きながら背のびをして覗きこむと、大根やら、蕪やら、白菜やらが隙間なく詰まっている。
「おいおい」
と、新之助は、先を行く双子へ、
「ここは米市ではない。青物市ではないか」
2人とも気づかず、すたすた前へ進んで行く。道ばたでは無数の客や奉公人が話し合っていて、それに声が搔き消されたのである。
「おいおい。おいおい」
何度目かでようやく垓太が気づき、こっちを向いて、
「いかにも、青物市です。よくおわかりに」
「わかるわい」
「果物も」
「果物?」
「もうじき、みかんが出盛りになります」
と垓太が言ったので、新之助は、いっぺんに胸のなかが温暖になった。みかんは紀州の名産、郷愁の代名詞である。垓太はつづけて、
「それはそれはもう、この天満の地いっぱいに甘酸いにおいが広がって。大坂者のみな大好きなにおいです。高く売れれば問屋の儲けにもなりますし、紀州様のご利分にも」
「ふん」
「とにかく青物市場には、野菜や果物がある。このことを胸に置いてください。鷺島には雑喉場もありますが、よその街でいう魚市場で、やっぱり問屋の店先にはずらりと魚が……」
「当たり前じゃ」
「では米市へ」
と、垓太はいつのまにか態度が落ち着いている。もともとそういう性格なのだろう。いっぽうのおけいはうつむきがちのまま、垓太の横を、半歩遅れて歩いている。新之助を含めた同年齢の3人は市場を1周して、ふたたび天神橋を南へ渡った。むろん3人のうしろでは護衛役の若侍や奉公人がぞろぞろ一群をなしていて、あたりへ目を光らせているわけである。
渡ったら右へまがり、大川ぞいを西へ歩く。川には大小の荷船が浮かんでいて、吹く風が冷たいが、空がよく晴れているので寒さはあまり感じなかった。
と。
前方から、人の声が聞こえてくる。
わあっという怒号のごとき、悲鳴のごとき……建物があるので様子は見えないけれども、とにかくたくさんの人である。新之助は垓太の横へ行って、眉をひそめて、
「喧嘩か?」
「もうじき、わかります」
と垓太はほほえんで、川の前方を手で示して、
「あれが大坂一の橋、淀屋橋です。みごとでしょう。もう100年前にもなりましょうか、わが淀屋の初代当主が身銭を切って架けました故、いまも大坂三郷の街人が屋号を冠して呼んでくれるのはうれしいことです」
「喧嘩ではないのか。なら相撲じゃな。見物が東西の力士をそれぞれ励まして……」
言ううちに、その淀屋橋の橋詰に着いた。南詰ということになる。そこから左つまり南を見ると、
「うおっ」
新之助は、つい声をあげてしまった。
男。
男。
男。
広い路上に、男ばかりがひしめいている。若者もいるし壮年もいる。初老の者も少なくなかった。
彼らは、喧嘩していなかった。力士もいなかった。力士どころか彼らのたいていは新之助とくらべても体が小さく、腕が細く、そのくせ手足の動きがきびきびしている。
いかにも都会の身のこなし。さだめし頭のはたらきも同様なのにちがいない。そういう敏捷な男たちが、あるいは1対1で、あるいは3、4人のかたまりになって話し合っているのだ。
声が大きい。早口にすぎる。よその街なら1年に1度の祭礼のときにしかあり得ないほどの混雑と喧噪で、それだけでも新之助には何が何だかわからなかったが、この場合はさらに、彼らは符牒を発していた。
たぶん符牒なのだろう。仲間だけに通じる合い言葉。ときどき手を突き出して指を立てたり折ったりしているのも、おそらくは何かの情報を伝達する暗号的なしぐさなのだ。
彼らのうちの何人かは、その指とは逆の手に、白い紙を持っていた。紙は手のひらよりも大きな縦長のもので、何やら数字が書きこんである。それを腰のあたりで持っているのへ時折ちらっと目を落とすのである。
話がまとまると、手近な子供を呼びつける。袂から別の小さな紙きれを出して、矢立も出して、ちょこちょこ何か書きつけて渡す。子供はそれを受け取ると、ぱっと走りだして、道ばたの大きな商家ふうの家のなかへ姿を消してしまう。子供は丁稚なのか小僧なのか、とにかく一種の少年職員なのにちがいない。
「これが、米市です」
と、垓太は言った。
ちょっと得意そうだった。新之助は即座に、
「噓をつくな」
聞こえなかったのだろう。垓太が、
「え? 何です?」
耳のうしろへ手を立てつつ、こちらへ顔を寄せて来たので、あらんかぎりの声で、
「噓をつくなと申したのじゃ! ここが市場だとしたら、市場だとしたら、米はどこにあるのだ?」
新之助の脳裡には、さっきまで、それこそ力士のごとき屈強の男が重い米俵を運んで来ては問屋の店先へひょいひょい積み上げる、そんな光景が思い浮かんでいたのである。青物市場に青物や果物があるように、魚市場に魚があるように、米市場には米のあるのが当たり前ではないか。
その米が、米俵が、見わたすかぎりどこにもない。垓太はこの反応を予期していたのだろう。あわてることなく、
「噓ではありません、新之助様。なるほど正米(米の現物)をあつかう場所も別にありますが、大坂では、米市といえばこれです。日本は豊葦原瑞穂の国、大坂は天下の台所、いちいち米俵のやりとりをしては力士が何百人いても足りません」
と、彼もまた力士のたとえを用いた。新之助は、
「米俵を動かさぬなら、何を動かす」
「切手ですよ、米切手」
「こめ、きって?」
「あの紙ですよ。手のひらよりも大きな、縦長の。あれ1枚で10石が動く」
「10石か」
聞き流してから、目を見ひらいて、
「じゅ、10石? 気はたしかか?」
この時代、米の体積は、石という単位であらわされる。
1石とは男子1人が1年間に食う量を意味するので、この定義から察せられるとおり、もともと平和な世の習慣ではない。血で血を洗う戦国時代の余風である。1石は3俵、すなわち米俵3つぶんが原則。
このことから、この単位は、武士の格づけにも使われるようになった。うんと単純に言うとすると、たとえば加賀の前田家をさして「100万石の大殿様」といえば、それはただちに軍役規定に照らして「約2万人の兵を動員できる」という示威または畏怖をともなうわけだし、たとえば江戸の或る旗本が200石取りを称したとすれば、それは同様にして有事には「5人の兵をつれて馳せ参じます」という徳川家への忠誠の度合いを表示したにひとしい。
これを逆に見れば、もちろん、平時にはそれほど——戦争もないのに200石もらえるほど——徳川家の期待を受けているという自慢にもなるわけである。この忠誠度と期待度の端的な数値化ということにおいてこそ、石高は社会的な意味を持つ。100石取りより200石取りのほうが上というのは、単なる暮らしの豊かさの話ではないのである。
そこへもってきて10石というのはかなりの量で、江戸の御家人、全国の大名の家臣のなかには30俵取りなどというのもいる。
禄高が10石に達しない階層もあるのである。すなわちいま、新之助の前で大坂の商人が米切手1枚を指でつまんでひらひらさせているというのは、概念的には御家人1人の首をひらひらさせているともいえる。
20枚なら大身の旗本をひらひらである。これすなわち、
(ご公儀への、冒瀆)
と見たのは、新之助、やはり妾腹ながらも紀州徳川家の血が騒いだか。
「米とは武士の魂ぞ。それをたかだか商人ふぜいが……」
「仲買人です」
「おなじことだ。商人ふぜいが紙1枚のやりとりに換えるとは」
と非難すると、垓太は肩をちぢめ、恐縮のしぐさをして見せてから、
「いちいち米俵のやりとりをしていては……」
「力士が何百人いても足りぬ。さっき聞いたわ」
「恐れ入ります」
「その紙1枚に、うぬらはいくらの値をつける」
「え?」
「米を銭に換えるのであろう。ならば1枚いくらと決まった値が……」
「あ、それは、決まっておりませぬ」
「決まっておらぬ?」
「時々刻々と変わって……」
「どういうことだ」
こんなやりとりをしているうちに、目の前の商家から何人かの大人が出て来て、
「垓太さん」
「おけいさん」
2人をやわらかく取り囲んだ。そうしてくちぐちに、
「紀州のお役人様は、どちらですか」
「お手落ちは、ありませなんだか」
「さあさあ」
「家でお茶など」
「お役人様はどちらに」
2人を気づかったり、きょろきょろ訪客をさがしたりした。新之助は、背が高い。肌の色も浅黒く、年も若く、役人には見えなかったのだろう。
「役人ではない。一国の国主の一門だ」
と、仏頂面をして言ったら、店の者たちは今度は新之助のほうへ寄って来て、
「へえへえ、失礼しました」
「なるほど高貴なお顔」
「さあさあ、家でお茶など……」
「もういい」
「え?」
「見るものは見た。和歌山へ帰る」
新之助はそう言い放つと、ちょっと青空をあおいでから、振り返り、来た道を戻るべく足を踏み出した。
われながら尻に火がついたようだったが、背後から、
「あの、もし、紀州様」
「……」
「そちらへ行ったら、やがて京に着いてしまいます」
「わかっておる。どこかで曲がる」
立ち止まることはしなかった。われながら子供そのもの。
(わからん)
その感情を、もてあましている。
米市場。この世界はわからない。あんまりわからなすぎるので、その存在自体さえ、いまだ信じることができず、信じようとすると何やら頭の沼底から葦がぞわぞわ生えるような感じがするのだ。
これはひょっとしたら恐怖なのか、あたかも幽霊か何かに対するような。だとしたら自分はそこから逃げたのか。ただひとつ、少なくともひとつ理解したのは、
(父と兄は、わかってない)
このことだった。
あのときの天守。あのときの廻り縁。兄は大坂の商人をさして「欲深き獣」と言い、父も賛成した。わが紀州で取れた米を毎年何千石、何万石と吸いこんで卑しく私腹を肥やしている、うんぬん。
だがしかし、いま見たばかりの彼らの顔は、動物の顔ではなかった。それだけはまちがいなかった。なるほど金を儲けようとはしているのだろうが、それは何というか、天下の大名をあざむいて暴利をむさぼろうというごとき悪辣邪心の顔ではなく、或る意味、気力にみちていた。
たしかに人間の気力だった。見かたによっては爽やかですらある。ちょうど虫好きの子供が野山で虫とりをしているような、剣術好きの侍が道場で竹刀を振っているような……新之助の感じた恐怖は、もしも恐怖だとしたら、むしろその爽やかさが原因なのかもしれなかった。悪人ならば退治ればいいが、善人ならば緩急をつけて、手だてを尽くして、
(取り締まらねば)
と、ここで新之助の責任感が復活した。足をとめて、体の向きを変える。ふたたび垓太をにらみつけて、
「見せろ」
「え?」
「わかりやすいのを見せろ。俺に」
「わかりやすい?」
「鰻屋の鰻を食うことはできんが、その焼くにおいは嗅ぎたい。俺の言う意味がわかるか」
この世界はもうちょっと理解しなければならぬ、というより、おなじ人間のやることだ、まるっきり理解できぬことも、
(あるまい)
責任感というか、ほとんど好奇心だったかもしれない。垓太はのけぞるようにして、戸惑い顔で、
「手引き書を見せろ、というような?」
「書ではない。実態を」
「さあて、学校や塾じゃあるまいし、そのようなものは……」
「爪がえしは?」
と横から口をはさんだのは、おけいだった。
双子の姉ないし妹。それまでほとんど口をきかなかったのが、垓太とおなじ目を輝かせ、おなじ唇をまるくひらいて、
「爪がえしなんか、ええのやないの」
「ああ、それなら……」
と垓太がうなずきかけるのへ、
「やめなはれ」
と、別の側から、さっきのお店者の1人が割って入った。垓太が口をつぐんだあたり、どうやら淀屋のなかでは一目置かれる存在らしい。
「やめなはれ、そんなとこへ案内すんのは。あれは市場に材を取っているとはいえ、市場の取引とは関係のないまったくの博奕です。お役人様の誤解をまねく」
垓太は、
「お殿様だ」
とたしなめてから、おけいのほうへ、
「たしかに、そうや」
おけいが唇をとがらせて、
「そうかと言うて、ほかにお殿様のお望みにかなうものは……」
「見せろ」
「えっ」
「案内しろ、その爪がえしという場所へ。どこにあるのだ。この近くか」
新之助の口調があんまり激しかったので、垓太はちょっと周囲を見てから、声をひそめて、
「いたるところに」
歩きだした。
この間ずっと、路上の米市場では、男たちの喧噪がやまない。みんな新之助一行の存在に気づかず、あるいは気づいても無視して、夢中になって自分たちの取引をつづけている。新之助はほんの少し耳が慣れて、その言葉のはしばしに、
「何匁」
とか、
「何分何厘」
とか、こまかな銭の金額が織りこまれているのを聞き取った。垓太はその密集の外周に沿って南へまわり、そこから道を下った。
こんにちで言うと、御堂筋を南に向かうことになる。この当時のこの道は、現在ほど広大ではないけれども、それでも3間幅すなわち5メートル余の幅はあるので、横へ入る路地が無数にあり、そのうちの1本を右へまがると、いきなり陽あたりが悪くなった。
道の脇に溝があり、水が流れ、海草の腐敗したようなにおいがする。ほどなく前方に寺の裏手らしき黄色っぽい塀が見えて、その下には茣蓙を敷いた男が1人、ひざを抱えて座っていた。
男の前には蓋のない木箱が置いてあり、穴のあいた銭貨や、豆粒のような銀貨がぱらぱら入っていた。まったく無造作なものである。よからぬ輩にかっぱらわれるのではないかと新之助は心配したけれども、ひょっとしたら、大坂ではこの程度の金は金のうちに入らないのかと思い直した。箱のとなりに竿秤が寝かせてあるのは、あるいは胡乱な銀貨を持ち込まれたとき品位を測るためのものか。
垓太が、
「淀屋の者だ」
と言うと、男は跳びあがって正座しなおし、
「へえ、これは、お見逃しを……」
「頼むよ。ひとつ」
「賭けなさるんで?」
「こちらが」
と、新之助を手で示した。新之助はせいぜい胸を張ったけれども、男の目には、いかにも経済の素人に見えたのだろう。垓太へ、
「仕方は?」
「ご存じない。教えてさしあげろ」
「へえ」
男は不審の念を顔に残しつつ、それでも、
「しくみはかんたん。寄付より大引けのほうが上か下か、2つに1つや。当てたら掛金と同額を払い出す。負けたら俺がすべて取る」
「ぜんぜんわからん」
と新之助が素直に言ったので、男に加えて、垓太、おけい、それに淀屋の大人たちが寄ってたかって説明してくれた。それでようやく新之助は理解したのだが、そもそも米市場の米の値段というのは忙しないもので、1日のうちに刻々と少しずつ変化する。
変化の原因はさまざまである。仲買人たちの取引全体の空気感、特定の豪商の意外な行動、産地の成育状況に関する新情報の到来……いずれにしても1日の始まりと終わりで値段がちがうのが恒例というより必然なので、この始値を寄付、終値を大引けという。
終値は通例、夕方に拍子木が打ち鳴らされ、市場が閉場となるときに決定する。厳密にはこの閉場時刻も取引の種類によって異なるのだが、
「そのへんはまあ、この賭けでは忘れてよろしい。いちばんようある取引を見る思うてくれ。終値が出るのは夕方や」
と男が言うのへ、新之助は、
「きょうの始値は?」
「1石あたり53匁6分2厘7毛。これに対して終値が……」
「1毛でも、高いかどうか」
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