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今井真実|洋菓子店のキッシュで幸福感に包まれて

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第5回 洋菓子店のキッシュで幸福感に包まれて

 ずっしりとした封筒を開けると、紙の束。うう、ついにこのときが来た。締め切りは1週間後。なんとか集中しなくては……私のもっとも苦手な仕事「校正作業」のスタートだ。
 レシピブックの製作が終盤に入ると、「本」の形になる前の、ページの中身を印刷した原寸大の紙の束が自宅に送られてくる。いわゆる「ゲラ」だ。入稿まで、私はこのゲラとひたすら向かい合い、レシピの分量は合っているかなど、間違いがないかをチェックする。
 これがもう、私にとっては最後にして最大の難所の作業。読むたびに「この言い回しでいいのかなあ……」「この料理名で伝わるかなあ……」と頭を抱えている。書いては消し、口に出して読んで、また元に戻し、やっぱり変えて……としているうちに、もう紙は原形を留めておらず、ぐちゃぐちゃになってしまうのだ。そして「表現」に気を取られているとすっぽり抜け落ちているのが、「誤字脱字」。こちらは、輪をかけて自分を信用できないので、余計に気を遣う。

 思えば、子ども時代から「これ、見直した!?」と、宿題をチェックした母から毎日小言を言われたものだ。その頃から「見直したんだけど……」とボソボソ言い訳をしていたけれど、まさか何十年後にも同じようなことをしているとは思ってもみなかった! 大人になってからのミスは、取り返しがつかない。もちろん、母もチェックしてはくれない。できることといえば、ほうぼうに平謝りすることのみである。

 朝に、昼に、夜に、読み返しては、直す。子どもの公園に付き添うときも、ベンチで赤ペン片手にゲラを読む。いろんなシチュエーションでチェックすることで、きっと新しい間違いが見つかるはず、と思うからだ。
 いいかげん、もう大丈夫! と、いやまだダメかも……の気持ちの間で揺れることの連続。だんだん頭がこんがらがってきて、パンクしちゃう! なんせ過去には校正作業中に2回もギックリ腰をやってしまった。身体と気持ちの限界をまだ把握できていなかったのだろう。

 しかし、今の私は大丈夫。早めに自分で「待った」をかけて、小休憩。向かうのは駅前の洋菓子店に併設されているティールーム「風月堂」だ。
 子どもたちが学校に行き、夫が仕事に行ったタイミングを見計らい、お店に向かう。自転車で5分の場所なのに、お店に入るとそこはもう別世界。ガラス張りの店内は明るく、老舗のお店らしく絨毯張りの床が広がる。重たくてピカピカのテーブルはいつも規則正しく並んでいるから、ぶつかって乱さないようにと気遣いながら、お腹を引っ込めてそっと席に座る。そうして、やっと来られた……と安堵するのだ。
 
 注文するのはモーニングセットで、ディンブラのポットティーとキッシュ。いつも同じオーダー。
 店内を見渡すと、まわりは穏やかにおしゃべりを楽しんでいる人々ばかり。みんな穏やかで幸せそうで、だから、ここでは、私もしゅるしゅると仕事の気持ちがしぼんでいく。ああ、今日は晴れているなあと、窓の外の景色を眺めると、街路樹が季節の移り変わりを告げていることに気づく。漂う甘い匂いを胸いっぱい吸い込んだら身体がほぐれて、最近の私はちょっと力みすぎていたかもと反省する。ずっと下を向いてばかりだったから、久しぶりに上を向いてみたらゴキッと首が鳴った。
 
 しばらくすると、紅茶とキッシュが運ばれてきた。店員さんが砂時計を逆さにしてくれるので言われたとおり神妙に待ち、砂が落ちたらティーカップに注ぐ。ふわふわとした湯気。香りを楽しむふりをして、蒸気を顔にあてる。はあ潤う、乾いた肌と心に染みる……。
 紅茶はきれいなあかね色。そこに「冷たいままでください」と頼んだ牛乳を注いだら、温度が下がってミルクティーになる。猫舌の私はこの「少しぬるい」状態の飲み物が大好き。飲んだときに食道をじわっと通り過ぎるのがわかるくらいの温度がベストだ。どくどくと胃まで届く感じが気持ちよくてクセになる。からからのスポンジが水を含んだように、身体中に安らぎが染みていく。
 次はいよいよお待ちかねのキッシュ。今日もいい佇まいをしている。チーズの焦げ目にゆっくりナイフを入れて底までに届くと、ぱりっと生地が割れる。その瞬間にくらしいほどの香りが立つ。下に敷かれたナプキンに染みた油脂に目をやると、「朝にしてはこってりしすぎなんじゃないの?」と少し思ったりもするけれど、労働のごほうびにはちょうどいいはずだ。

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