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一穂ミチ「アフター・ユー」#002

ある日姿を消してしまった恋人。
最悪の事態に怯える青吾のもとにかかってきたのは、警察からの電話だった。

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『もしもし? 大丈夫ですか?』
 大丈夫って、この上なく漠然とした言葉だと思った。気遣いっぽく聞こえるだけで、中身は空っぽだ。何について訊いとんねん。この状況で大丈夫なわけがあるとでも思うんか。「大丈夫じゃありません」って言うたら、何かしてくれるんか。いちゃもんのような問いを溜め込んだまま、せいは「はい」と答えた。
なかぞのさんという女性が、三日前に長崎県のとう列島で転覆した小型船に乗っていたかもしれません』
「え、あの、すいません、」
 舌が前歯の裏に貼りついてうまく発音できない。
「可能性とか、かもしれないって、どういうことですか」
『羽田発長崎行きの飛行機にナカゾノタミという女性が乗っていたことはわかっています。佐世保港から五島列島の鹿じかじまに行くフェリーにも中園多実さんの名前で予約が入っていました。遠鹿港から出港した小型のクルーザーが天候不良のために転覆し、乗っていたとみられる男女二名が行方不明になっていますが、これは個人の船で乗船名簿などはありません。現場周辺の聞き込みから中園さんではないかとみられています。捜索活動を行ってはいますが、現場付近の海流が結構激しいみたいで、発見には至っておりません』
 スマホを押し当てている右耳から左耳へと情報が通り抜けてしまう気がして、青吾は左手で左耳を押さえた。ちゃんと頭で受け止めなくては、と思う側から、「その持ち方、古くない?」と多実にからかわれた記憶がぽこぽこ湧いてくる。
 ——それ、昔の固定電話とかガラケーの持ち方でしょ。スマホのマイクって底についてるから、こう……顎のちょっと下で、水平に持つんだよ。
 ——ほんまや、こうしたら若者っぽいな。
 ——えー、若者はイヤホンしてハンズフリーだよ。
 ——そうか。こうしてどんどん時代に取り残されていくんやろなって、最近よお思うねん。若い頃から流行にはうとかったけど、それとは全然違う感じで。
 ——そうだねえ。そのうち、ふたりともコンビニで買い物もできなくなって、電車にも乗れなくなっちゃうかも。
 ——絶望的やな。
 ——何で? そしたら、ベランダで野菜を育てて、歩いていける範囲で生きていけばいいんだよ。
 そんな日が来るのが、むしろ楽しみだと言いたげに笑っていた。笑顔の残像を、忙しないまばたきで振り払う。
「でも、別の人かもしれないんですよね」
『ええ、もちろん』
 電話口の声は急にやさしげになり、かえって自分の望みがの糸のようにはかないものだと思い知らされた。おそらく、警察はもう多実だという前提で動いている。
『同乗していた男性ですが、イデグチ・ハルヒコという名前です。年齢は四十二歳。ご存じですか?』
「いえ、まったく」

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