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夢枕獏「ダライ・ラマの密使」序章 #007

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「匂い?」
「ええ。あの晩、あなたの部屋に入ったおりに、何か、香をいたような匂いがこもっていましたが、たぶん、それでしょう。あの空気を長時間吸っていたら、わたしもあぶないところでした」
「どういうことですか」

「スタインさん。人間に幻覚を見させる作用を持った薬物があるのは、御存知でしょう」
「はい」
「ブランデーやワインでも、飲み過ぎれば、似たような症状をおこしたりしますが、もっと直接に、人の脳に働きかけて、短時間で幻覚症状をおこさせるものがあるのです。メキシコのインディオたちは、ある種のキノコやサボテンを食べて、幻覚を見たり、一種の宗教体験をしたりするのですが、それは、彼らが食するキノコやサボテンの中に、人間に幻覚を見させる成分が含まれているからなのです」
「え、ええ——」

「わたしは、そのような薬物の研究をしたこともありますし、ヘロインを含めて、実際にそれの薬物の効果を自分の身体で試したこともあります。昨夜、あなたの部屋にこもっていた匂いは、そのような効果を持った薬物か、それが混ざったものでしょう。細かい講釈はおくとして、匂いのかんじからすると、おそらくは何かのキノコを主成分にしたものを練りあげて香に混ぜ、それを焚いたものだと思われます」

 口調そのものは控え目であったが、私の幻覚が、薬物によるものであると、シーゲルソン自身は確信しているようであった。

「ジャユンが逃げてゆく時、自分だけはあの香の成分を吸わぬよう、鼻から口にかけて、何重にも布を巻いているのを、わたしは確かに見ています。薬物への慣れもありますし、あの口に巻いた布の内側に、さらに湿らせてたたんだ布をはさんでおけば、しばらくなら、充分、効果を防げるでしょう」

 それにしても、彼の博学ぶりには驚かされる。

「あの匂いが、幻覚を起こさせるもとであったとして、では、何故、その幻覚がテンジンであったのですか。まさか、薬物で、特定の個人の幻覚を見せることまで可能だと言うわけではないでしょうね」
「薬物には、そこまでの威力はありません。あとは、ジャユン自身がやったのでしょう」
「というと?」

「細かいことをお訊きしますが、あなたがぞくに気づいた時、それは、最初からテンジンでしたか——」
「さあ?」
 あらためて、そう問われてみると、記憶は曖昧あいまいであった。
 最初は、ただ、そこに人の気配がしただけだった。次に“旦那”という声を聴き、気がついたらそこに人が立っていたのだ。

「最初は、誰だかわからなかったと思います——」
「では、いつ、テンジンとわかったのですか?」
「さあ——」
「むこうが、自分のことをテンジンと名乗ったと、あなたは言われましたね」
「はい」
「相手が、テンジンとわかったのは、相手がテンジンと名乗る前でしたか、後でしたか——」
「後だったと思います」

「ははあ、それですね」
「それ?」
「ええ。相手が、自分はテンジンであると名乗った、だから、あなたには、それがテンジンと見えたのですよ。たぶん、むこうは、声色こわいろくらいは使ったのでしょうけど——」
「テンジンという暗示を、そこで、私が与えられたのだと?」
「ええ」
「もし、ジャユンが、その時シーゲルソンと名乗っていたら?」
「たぶん、わたしの姿を、そこに見たことでしょう」
 シーゲルソンは言った。

「では、首から上がなく、その首を抱えていると私が見たことについてはいかがですか——」
「問題はそこですね」
「何か、よい説明ができますか?」
「色々な可能性があります。しかし、どれも充分なものではありません」
「たとえば?」
「たとえば、この手に首を抱えているぞとか、そういう言葉をかけられましたか」
「いいえ。少なくとも、そういう記憶はありません」
「そういう暗示を与えられはしたが、それをあなたが覚えていないということが考えられます」

「しかし、それにしても、何故、首を手に持っているという暗示をかけねばならなかったのでしょう」
「その通りです。おっしゃる通りです」
「他には?」
「少なくとも、首から上が見えなかったということの原因のひとつに、ジャユンが顔の半分を布でおおっていたということは、考慮に入れていいでしょう。しかし、それにしても、頭部はあるわけでしょうから、ジャユンの顔が、たとえ布でよく見えなくとも、そこに、テンジンの顔を見ることの方が自然です」

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