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知念実希人がついに〈コロナ〉に挑む――小説「機械仕掛けの太陽」#001 無料公開スタート!

これはもはや戦争だ…
未知の脅威と闘い続ける医療現場の慟哭と苦悩を追い、
その陰で育まれたひと筋の希望をも描き出す。
現役医師・知念実希人による感動の<コロナ>小説を
3日間連続でお届けします。

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***

プロローグ 2019年秋

〝それ〟はただ、そこにあった。
 名前はなかった。意思を、意識を持たぬ〝それ〟らには必要なかった。
 呼吸をせず、食べず、動かず、生殖をせず、代謝をしない。ゆえに、〝それ〟は生きてはいなかった。有機物で構成された物体でしかなかった。
 ただ〝それ〟は一つのことだけをプログラミングされていた。
 増殖すること。
〝それ〟がいつ生じたのかは誰にも分からない。誕生から四十六億年が経つこの惑星のどこかの時代で、偶然の積み重ね、もしくは『神』と呼ばれる概念によって創り出された。
〝それ〟は長い長い間、暗闇の中を飛び回る、翼をもつ漆黒の獣とともに存在していた。
 しかしいま、〝それ〟の前には、他の獣がいた。
 翼をもたず、体毛は頭部の一部に集中し、二本足で直立歩行しながら、複雑な鳴き声を発する獣。
 その獣が、顔面の中心部にある二つの穴から空気を吸い込んだ。
〝それ〟とともに。
 外殻に無数の突起をまとう球状の〝それ〟の姿は、まるで光冠を帯びて輝く太陽のようだった。
 獣の細胞に着地した〝それ〟の突起が、細胞の膜にある複雑な形をした構造物と結合する。まるで、鍵穴に鍵がまるかのように。
 膜が〝それ〟の外殻と、けた蠟のように混ざり合いはじめた。
〝それ〟の中に折りたたまれて収められていたひも状の物質が、細胞内に放出される。
 狭い金魚鉢に押し込められていた海蛇が、大海に放たれたかのごとく、その物質は細胞質を泳ぎ回りながら、自らの複製体を作りはじめた。
 生み出された複製体が、さらに次の複製体を生成していく。
 二倍、四倍、八倍、十六倍、三十二倍……。
 ネズミ算式に増えるその物質に満たされていく細胞は、もはや獣の一部ではなく、〝それ〟を化学合成し続ける、有機工場と化していた。
 やがて、細胞が破裂すると同時に、無数の〝それ〟がき散らされ、そして周囲の細胞へと取り付いていく。
 その光景はまるで、燃え上がった太陽が、まばゆいフレアを噴き上げるかのようだった。

第1章 Wild strain(野生株)

1 2020年1月6日

かず、そろそろご飯だから、タブレットは終わりにしなさい」
 しいあずさがキッチンから声をかけると、絨毯にぺたりと座って動画配信サイトで動物番組を見ていた一人息子の一帆は、「もうちょっとだけ」と答える。
「そんなに顔に近づけたら目が悪くなるでしょ。それに、三十分だけの約束。いまは何時かな?」
 梓が掛け時計を指さすと、一帆は小さい額にしわを寄せた。
「えっと、七時……四十五分?」
 四歳の一帆は最近、時計の勉強をしているが、まだ完璧ではなかった。
「惜しい、六時四十五分ね。ほら、短い針が『6』と『7』の間にあるでしょ。そのときは、小さいほうの時間じゃなかったっけ?」
「あー、そっかー」
 一帆は悔しそうに頭に手を当てる。その愛らしい姿に、思わず口元が緩んだ。
「いいのよ。長い方の針が何分を指しているかは当たったんだから。すごいじゃない。この前まで全然分からなかったのに」
「だって僕、いっぱい勉強したし」
 一転して、一帆は誇らしげに胸を張った。
「えらいえらい。で、六時十五分から動画を見ているから、ちょうど三十分経ってるよ。カズ君はえらいから、もうやめられるよね」
「でもー、いまカピバラさんを見ているから」
 下唇を突き出した一帆が指さした液晶画面には、気持ちよさそうに温泉に浸かっているカピバラの親子が映っていた。
「じゃあ、そのカピバラで終わりにするのよ。約束できる?」
「うん、分かった!」
 屈託ない笑みを浮かべながら、一帆は大きく頷いた。梓は息子に微笑み返したあと、L字ソファーでせんべいをかじっている母のはるに視線を移す。
「お母さん、おせんべい食べないでよ。もうすぐご飯なんだから」
「ごめんごめん、なんか口寂しくてさ」
 春子は慌ててせんべいを菓子皿に戻した。
「口寂しくてって、お母さん糖尿病でしょ。間食しちゃダメって、いつも言っているじゃない。そもそも、お菓子を買ってこないでよ。あったら食べちゃうんだからさ」
 梓は大きくため息をつく。
「この前、カズ君とスーパーに行ったとき、『これ、ばぁばが好きそうじゃない?』って勧められてさ。ねえ、カズ君」
 話を振られた一帆は、「え、なに?」と目をしばたたかせた。
「何でもない。カピバラ可愛いわね」
「うん。ばぁばも一緒に見る?」
 寄り添って画面を覗き込みはじめた一帆と春子を見て、梓は苦笑する。しっかりと指導しなくてはと思ってはいるが、母にはどうしても強く言うことができなかった。
 梓が小学生のとき、父が肺がんで命を落とした。それから、春子は様々な仕事をしながら、女手一つで必死に梓を育ててくれた。二年前、梓が銀行勤務の夫と、お互いの多忙が原因で離婚してからは、三人でマンションに住んでいる。忙しい梓の代わりに、春子が一帆の面倒を見てくれていた。
 同居にあたって「カズ君のために」と、三十年以上、毎日二箱近く吸っていたタバコもやめてくれたのだ。間食ぐらいは大目に見てもいいのではと思ってしまう。
「ママ、今日のご飯もカレー?」
 カピバラの動画を見終えて、タブレットの電源を切った一帆が顔を上げる。
「うん、いつもカレーでごめんね」
 地下鉄かわだい駅から徒歩十五分ほどにあるしんせんだいぞくかわだい病院に、梓は呼吸器内科の医師として勤めていた。おおいずみがくえんにあるこの自宅マンションからは車で二十分ほどと近いのだが、外来と病棟業務のどちらもこなしているため、平日は早くても帰りは午後九時以降になる。しかし、火曜日は『研究日』という名目で大学病院での勤務が免除され、医局から紹介されたクリニックで午前だけ診療をしていた。
 大学病院の給料は低く、今年三十六歳になり病棟長を務める梓でも、それだけでは年収は五百万円程度しかない。多くの同僚は研究日に外勤先で一日勤務をしたり、人によってはそのまま翌朝まで当直業務をこなすなどして、収入を上げていた。しかし、梓にとっては給料よりも、家族との時間の方が遥かに大切だった。
 すでに還暦を過ぎた母に負担をかけすぎないためにも、火曜と週末の夕食当番は梓が担っている。ただ、料理のレパートリーが少ないのが悩みだった。
「ううん、大丈夫。ママのカレー美味しいから一番好き」
「あれ、ばぁばのご飯は一番じゃないの?」
 春子がわざとらしく口をへの字にする。一帆は少し困ったような表情で考え込んだあと、「どっちも一番好き」と両手を広げた。可愛らしいその姿に、胸の奥が温かくなっていく。そのときふと梓は、春子がつけたままにしてあるテレビに、『肺炎』の文字が躍っていることに気づいた。
 視線が引きつけられ、キッチンを出てテレビに近づいていく。

『中国ほくしょうかんで去年十二月以降、原因が特定されていない肺炎の患者が五十九人確認され、重症者も出ていることが発表されました。これを受けて厚生労働省は……』

 キャスターが淡々と原稿を読み上げる。画面の下方に『中国武漢で原因不明の肺炎相次ぐ』とテロップが表示されていた。
 中国……、原因不明の肺炎……。
「……SARS」
 唇の隙間から言葉が漏れる。
 SARS、重症急性呼吸器症候群。コロナウイルス科ベータコロナウイルス属に分類されるSARSウイルスによって引き起こされるその重症肺炎は、二〇〇二年十一月中旬に中国かんとんしょうで最初の症例が確認された。
 当初、中国はその情報を隠蔽し、三ヶ月近く経った二〇〇三年二月十一日になって、ようやくWHOに報告した。すでにその時点で、患者数は三百人を超え、中国国内にとどまらず、近隣の国にまで浸透していた。
 初期対応の遅れもあって、最終的にSARSはアジアや北米を中心に、全世界三十二ヶ国に広がり、八〇九八人の感染者と、七七四人の死者を出した。
 二〇〇三年七月五日にWHOは終息宣言を行い、その後、SARSの発生は確認されていない。しかし、人間で患者が出ないからと言って、病原体が根絶されたとは限らない。
 もともとSARSは野生のコウモリの間で循環していたウイルスが、中間宿主を介して人間社会に浸透したと考えられている。もしかしたら、人間から隔絶された場所で存在し続けていたSARSウイルスが、再び社会へと侵入したのかもしれない。
 二〇〇三年当時、まだ大学一年生だった梓も、連日のようにSARSについてのニュースが報道され、社会全体に異様な雰囲気が漂っていたことを覚えている。
 結局、日本国内で感染者が発生することはなくSARSは終息したが、今回もそう上手くいくとは限らない。一度国内で感染が広がれば、一気にパニックになるだろう。
 二〇一五年に韓国でSARSに近い性質をもつMERSの感染が拡大し、三十人以上の死者が出た際は、韓国社会が大きな混乱に巻き込まれている。
 国内で患者が出たら、私も診療に参加することになるかもしれない。
 心泉医大附属氷川台病院には、危険な感染症に罹患した患者でも入院できるよう、陰圧に保たれた感染症専門病室が三室ある。そこに患者が送られてくる可能性は十分にあった。
「ママ、どうしたの?」
 一帆に話しかけられて、梓は我に返る。いつの間にか、ニュース番組は天気予報に切り替わっていた。
「ううん、なんでもない。ごめんね、ぼーっとしちゃって」
 リモコンでテレビの電源を落とし、一帆の頭を撫でる。柔らかい髪の感触が緊張をほぐしてくれた。春子がひざまずいて、一帆と目の高さを合わせる。
「隣の大きな国でね、お風邪がっているんだって。それでね、ママってお医者さんでしょ。だから、気になったみたい」
「お風邪? ばい菌?」
 一帆は小首をかしげた。
「ばい菌じゃなくて、ニュースになるってことは、たぶん……ウイルスかな」
 梓は低い声で言う。肺炎の大部分は肺炎球菌などの細菌によるものだ。しかし、細菌性の肺炎が急速に伝播していくことはほとんどない。
 もしニュースに取り上げられていた肺炎がウイルスによるものなら、かなりの人数がすでに発症していることになる。
 もしかしたら、ヒト―ヒト感染が起こっているかもしれない。梓の背中に冷たい震えが走る。
 動物から人間への感染なら、大きく広がることは少ない。しかし、人間から人間へウイルスが伝播するようになると、社会で爆発的に感染拡大しかねない。
「ねえ、ウイルスってなに? ばい菌じゃないの?」
「うーん、ちょっと違うんだよね。ばい菌は生き物だけど、ウイルスは生き物じゃないの。ご飯も食べないし、息も吸わないし、自分で動くこともしないんだ。けどね、体の中で増えて人を病気にしちゃう」
「それって怖いの?」
「ああ、ごめんね。怖くなんかないよ。大丈夫だからね」
 一帆の表情が曇るのを見て、梓は慌てて首を横に振る。
「ママがね、どんなウイルスもばい菌もやっつけちゃうから」
 おどけて力こぶを作ると、一帆の顔がぱっと明るくなった。
「え、そうなの⁉ ママ、すごいね」
「そう、ママはすごいんだよ。だから、安心してね」
「あのね、僕もばい菌をやっつけられるんだよ。幼稚園の先生にね、教えてもらったの。ちゃんと石鹼をつけてね、お手々を洗うとね、ばい菌が死んじゃうんだって」
「そっかそっか。一帆もママと一緒だね」
 梓は目を細める。二歳までは体が小さく、小児喘息でよく発作を起こしていた一帆だったが、幼稚園に入ってぐんと体力がつき、喘息発作も起こさなくなった。そのとき、キッチンからしゅうしゅうという音が聞こえてきた。振り返ると、火にかけたままにしていた鍋が吹きこぼれていた。
「ああ、忘れてた」
 小さな悲鳴を上げながら、梓はキッチンへと戻って火を消す。鍋を覗き込むと、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、そして牛肉がいい具合に煮込まれていた。あとはルーさえ入れれば完成だ。
 プラスチック製のまな板の上で、カレーのルーを切ろうとすると、「ママ」と声をかけられて振り返る。一帆がキッチンの入り口に立っていた。その胸には、お気に入りのパトカーのおもちゃが抱かれている。
「どうしたの? もう少しでカレーができるから、ちょっと待っててね」
「あのね、『ういるす』って生き物じゃないなら、なんなの?」
 さっきの中途半端な説明では、四歳児の旺盛な知識欲を満足させられなかったらしい。
 さて、なんと答えるべきか。医師としての専門知識を子供でも吞み込めるように、頭の中で嚙み砕いていく。
「それみたいなものかな」
 十数秒の思考の末、梓は一帆の手元を指さした。
「これ?」
 一帆は不思議そうに、持っているパトカーを見下ろす。梓は一帆に近づくと、パトカーの裏側についているスイッチを入れる。タイヤが勢いよく回転しはじめた。
「ウイルスっていうのは、このパトカーみたいなものなんだよ。機械仕掛けで、ただ決められた動きだけをするもの」
 言葉を切った梓は、回転灯の赤い光を見つめながら、小さく付け足した。
「……だからこそ、ウイルスは恐ろしい」
 パトカーが発する不吉なサイレン音が、いびつに空気を揺らしていた。

2 2020年1月11日

 ソファーに腰かけスマートフォンを眺めていると、ニュース速報のポップアップが表示される。
『中国 武漢 肺炎の男性(61)が死亡 死者は初めてか』
 はざまは鼻の付け根にしわを寄せると、そのリンクに人差し指で触れた。

『中国 湖北省武漢の保健当局は原因となる病原体が特定されていない肺炎の患者の男性(61)が死亡、7人が重症と発表。死者は初めてと見られる』

 思わずスマートフォンを顔に近づける。今週の初めあたりから、この中国で発生している原因不明の肺炎のニュースが流れはじめた。
 心泉医大附属氷川台病院の救急救命部で看護師をしている瑠璃子の周りでも、「なんか気味悪いよね、あれ」と、噂になっている。
 たしか、四十人くらい感染者がいたはずだ。ただ、これまで死者は出ていないので、あまり気にしていなかった。
 人が死ぬ可能性のある感染症だとしたら、少し気をつけないといけないかもしれない。救急救命部には、様々な患者がひっきりなしに運び込まれる。観光客が急病で運び込まれることも少なくなかった。
 五十六年ぶりに東京で開催されるオリンピックを約半年後に控え、観光業界は外国人観光客の誘致に躍起になっている。とくに、『爆買い』と呼ばれるほど多くの買い物をする中国人観光客はこの数年、とてつもなく増えた。銀座へ買い物に行くと、日本語よりも中国語の方が多く耳に入って来るほどだ。
 今夜、夜勤に入る前に師長に相談して、肺炎症状があり、中国への渡航歴が認められる患者にどう対応するか決めておいた方が良いかもしれない。今年二十八歳になる瑠璃子は、師長、主任に次ぐベテランだ。救急救命部での看護のシステムについて検討する立場にあった。
 俯いて思考を巡らせていると、「なあ」と声をかけられる。顔を上げると、カーペットに胡あぐらをかいてゲームをしていた恋人のさだおかあきらが振り向いて、こちらを見ていた。三十二インチのテレビの画面には、『GAME OVER』の文字が浮かんでいる。
「どうしたんだよ、そんな難しい顔してさ」
 中堅の商社に勤務している彰と友達の紹介で出会い、熱烈なアプローチを受けて交際をはじめてから五年が経つ。半年ほど前からは、この平和台にあるマンションで同棲をはじめていた。
 ただ、平日は毎日のように接待が入っていて深夜遅くに帰宅する彰と、曜日に関係なく勤務が入る瑠璃子の予定はなかなか合わず、こうして昼から二人で家で過ごせる日は珍しかった。
 天気も悪くないので外出してデートでもしたいところだが、あいにく今夜、瑠璃子が夜勤に当たっている。休日だからと十一時過ぎまで寝ていた彰を起こし、瑠璃子が作ったパンケーキを二人で食べ、それからはリビングでゆったり過ごしていた。
 交際当初は、五歳年上でブランド物のスーツを着こなす彰に、同年代の男にはない魅力を感じていた。しかし、交際期間が長くなるにつれ、完璧な大人の男性と思っていた彰も次第に隙を見せるようになってきた。特に同棲をはじめてからは。
 自炊が苦手で、いつもコンビニエンスストアで買ってきた食事しかとらないことや、休日は寝間着のまま一日中ゲームに没頭することもあると知るうちに、燃え上がるような恋心は消えていったが、代わりに温かい安心感をおぼえるようになった。彼のそばこそが自分の居場所だ。その想いは、同棲をしてからさらに強くなっている。
 先月、キッチンで夕食の準備をしていると、ソファーに横たわってテレビを見ていた彰が声をかけてきた。
「なあ、俺たちそろそろ籍を入れないか?」
 密かにロマンチックなプロポーズを期待していた。けれど、何気ない求婚が自分たちらしいとも思った。なにより、その言葉を聞いた瞬間、背中にのしかかっていた重荷が消えたような解放感があった。
 熊本に住んでいる両親からは、ことあるごとに「まだ結婚はしないのか?」「孫の顔が見たい」と重圧をかけられていた。特に父は典型的な九州男児で、「子供を産んで、家庭を守ることが女の役目で、それこそが幸せだ」と口癖のように瑠璃子に言い聞かせ、看護師を目指すことすら強く反対した。そんな父から距離を置きたくて、東京の看護学校に進んだようなものだった。
 彰と結婚すれば、実家にも顔向けできる。両親や親戚からの干渉もやむだろう。
 あとは子供を産めば、私も一人前の女として認められる。
 その価値観が、父が押し付けようとしていたものと寸分違わないことに頭の隅で気づきつつも、瑠璃子はそこから目を逸らす。
 まずは『一人前の女』にならなければ、両親に幼い頃から掛けられた心のかせを外すことはできないのだから。
「いい式場がないのか?」
 ゲーム機のコントローラーを放った彰が手元を覗き込んでくる。
「中国の肺炎? ああ、なんか少し騒ぎになっているよな」
「うん、ちょっと気になって。ほら、救急部って色々な患者さんが来るから」
「でも、中国だろ。外国の話じゃん。瑠璃子が気にすることないだろ」
「まあ、そうかもしれないけど……」
 瑠璃子は曖昧に答える。
 飛行機をはじめとする交通網の発達で、世界は相対的に小さくなっている。ここまでグローバル化が進み、国家間の人の移動が頻繁な現代では、病原体は容易に国境を越えて拡散する。そのことを瑠璃子は、二〇一四年に思い知らされた。
 東南アジアなどの熱帯・亜熱帯地域で見られる、蚊が媒介するウイルスによる感染症であるデング熱が六十九年ぶりに国内で確認され、首都圏で感染拡大したのだ。
 その頃、まだ二年目の新人看護師で、感染症病室がある病棟で働いていた瑠璃子は、デング熱に感染した高校生の担当になった。
 全身を紅く細かい発疹に覆われ、四十度に近い高熱、強い筋肉の痛みに苦しむ彼を見て、同情するとともに、感染症に対する恐怖をおぼえた。
 デング熱はあくまで蚊が媒介して感染が広がり、人から人へ直接感染することはない。もし、患者から直接感染し、死に至る可能性のあるウイルスが拡大したりしたら……。
 部屋の気温が一気に下がった気がして、瑠璃子は自らの肩を抱いた。
 中国はこの二十年ほど、目覚ましい経済発展を遂げ、多くの中国人が海外旅行を楽しむようになった。その人気の旅行先の一つが、比較的距離が近いこの日本だ。
 瑠璃子が表情をこわばらせていると、彰が呆れ顔になる。
「そんなに不安ならさ、仕事辞めれば? あと三ヶ月で年度が変わるから、ちょうどいいんじゃないか」
「え、でも、とりあえずまだ勤務していいって……」
「まあ、そうだけどさ」
 彰は不満げに視線を逸らした。結婚したら家庭に入ることを、彰が望んでいるのは分かっていた。彼の収入なら、自分が専業主婦になっても問題なく生活できるだろうし、海外赴任が多い商社勤めの彰の妻になるからには、いつかは仕事を辞めることになるだろう。
 しかし、バイトと奨学金で必死に学費を賄いながら、厳しい授業や実習を乗り越えて摑み取った看護師という職業に誇りを持っていた。救急救命部では責任のある立場についているし、新人の指導も担っている。
 可能な限り仕事を続けたいと根気よく彰に伝え、海外赴任が決まるか、子供ができるまでは看護師として勤務するということで落ち着いていた。
「とりあえずさ、再来月うちの親に会うのは大丈夫? 休みは取れるんだよね」
 雰囲気が悪くなるのを避けるためか、彰は話題を変える。
「うん、それは大丈夫。もう、休みの申請しているから」
 瑠璃子は大きく頷く。三月に大阪にある彰の実家に行き、将来の義理の両親とはじめて顔を合わせることになっていた。
 一人息子の嫁として、ちゃんと気に入られるようにしないと。まだ二ヶ月もあるというのに、いまから緊張してしまう。
「よかった。一生守ってやるから、幸せになろうな」
 はにかんだ彰は、瑠璃子を柔らかく抱きしめる。
「うん、ありがとう」
 答えながらも、瑠璃子は喉の奥にものがつかえるような感覚をおぼえていた。
 私はただ『守られる』だけの存在なのだろうか? か弱く、男の庇護下にある従順な存在。それは、父親にくり返しくり返し強いられ、反発をおぼえた女性像そのものなのではないのだろうか。
 結婚することで、私は本当に枷から解き放たれるのだろうか。
 漠然とした不安をおぼえた瑠璃子の首筋に、彰が吸い付くように口づけをした。不意をつかれ、口から小さな悲鳴を上げてしまう。それに興奮したのか、彰は胸元に手を伸ばしてきて、シャツの上から乳房に指を這わせてきた。
「ちょ、ちょっと彰くん。私、今日夜勤なんだってば」
「四時半に出れば間に合うだろ。あと一時間以上あるじゃないか」
「けど……」
 午後六時から翌朝九時までの十五時間、連続して勤務するのだ。重症患者が多く搬送されれば、その間、息をつく暇もないほど忙しく動き回らなくてはならない。
 救急救命部は常に生死が交錯する戦場。そこでの長時間勤務は、心身ともに疲弊する。できれば体力を温存しておきたかった。
 しかし、肉欲のスイッチが入った彰は瑠璃子の抵抗を楽しむかのように、唇を重ね、こじ開けるように舌を口腔内に侵入させてきた。彰の手が下腹部から焦らすように移動し、やがてジーンズの上から子宮に圧力をかけはじめる。
 骨盤の内部から全身に広がっていく快感に抗えなくなった瑠璃子は、息を弾ませながら彰の背中に手を回す。
 原因不明の肺炎への不安は、官能の波にかき消されていった。

3 2020年1月16日

「はいはい、血圧は一二八の八四。冬で寒いのに安定しているね、まちさん」
 耳から聴診器を外して首にかけたながみねくにあきは、ゴム球についている摘みを回して水銀式血圧計のカフから圧力を抜いていく。
「先生のおかげだよ」
 顔にシミの目立つ高齢の男は、禿げ上がった頭に手を当ててはにかむ。この長峰医院に昔から高血圧と肺気腫の治療で通っている、町田という男だった。
「それじゃあ、同じ降圧剤を出しておくよ。塩分は控えめに。暖かい日は散歩でもして、最低限の運動はするようにね。あと、そろそろ本気で禁煙した方がいいぞ」
「まあ、そのうちな」
 町田は肩をすくめる。長峰はため息をつきながら、キーボードを叩いて電子カルテに血圧を記録し、先月と同じ処方を打ち込んだ。
「運動と言えば先生、最近、こっちの方はどう?」
 町田はゴルフクラブを振るようなそぶりを見せる。
「最近は全然。一度、ぎっくり腰をしちゃったし、さすがに真冬にゴルフできるような齢じゃないだろ」
「なに言っているの、俺たち同い年だろ。七十二歳なんてまだまだ若いって」
「そう思いたいけどね」
 苦笑しつつ、長峰は無意識に白衣の上から胸元に触れた。胸部の正中線上に刻まれた手術の傷痕が、少し疼いた気がした。
 三年前の冬に友人たちとゴルフをしていて激しい胸痛に襲われ、動けなくなった。すぐに救急要請をして近くの病院に搬送されたところ、不安定狭心症と診断され緊急入院となった。
 精密検査で心臓冠動脈に複数のきょうさくが認められ、冠動脈バイパス手術が必要だと診断された。
 循環器内科医である息子の紹介で、腕の良い心臓外科医に執刀してもらった結果、現在は手術前よりも遥かに調子が良くなっている。
「毎日の診察のストレスで、血圧が上がったりしていたせいだよ。もう七十歳を超えているんだし、診療所を畳んで引退しなって」
 四十二歳のときに大学の医局をやめ、縁もゆかりもない西東京市やぎさわでこの長峰医院を開業してから、三十年が経っている。いまでこそ、多くのかかりつけ患者がいて安定しているが、ここまで来るのには多くの苦労があった。それが冠動脈をむしばんだのは確かだろう。
 もう、この診療所を畳もうか、そんな考えが最近よく頭をかすめる。
 しかし近隣には内科・小児科の診療所はここしかない。もし自分が引退すれば、かかりつけの患者たちは徒歩で二十分ほどの距離にあるクリニックで受診しなければいけなくなる。高齢の患者の中には、その二十分の距離を歩くのが不可能な者も少なくない。
 最初は、息子が私立の医学部に進学したとしても、その高い学費を払えるようにと開業を決意した。しかし、息子は一人前の医師になり、二年前には初孫もできた。老後の蓄えも十分にある。すべては、縁もゆかりもない自分を、〝町医者〟として受け入れてくれたこの地域の人々のおかげだ。そう思って医院を続けてきたが、最近はさすがに体力的にきつくなってきている。心臓の血管が詰まりかけてまで何のために働いているのか、分からなくなってきた。
「そういえばさ、先生」
 町田に声をかけられて、胸元に手を当てていた長峰は我に返る。
「なんかさ、中国でへんな病気が流行っているだろ。あれって、心配ないの?」
「ああ、あれか」
 先週あたりから、中国で感染が広がっている肺炎について、しきりにテレビがニュースを流していた。病院に人々が押し寄せ、パニック状態に陥っている現地の映像は、たしかに不安を煽るものだった。
「感染症が専門じゃないから詳しくないけど、大丈夫だと思うよ。新しい病気がちょっと広がって、何週間かで収まるっていうことは結構あるからさ。そもそも、ああいう病気は動物から人間にはうつるけど、人から人にはそう簡単にうつらないんだよ」
 ニュースによると患者の多くは、武漢の海鮮市場で感染したと考えられているということだった。様々な動物を生きたまま売買する海鮮市場では、野生動物から病原体に感染するリスクが高い。これまで、似たような事例が何度も生じている。感染源と思われる海鮮市場はすでに閉鎖されていた。
「いまごろ、WHOかなにかが職員を送って、病気を封じ込めているんじゃないかな」
「そうかそうか。先生がそう言うなら安心だよ」
 町田はがははと笑い声をあげる。大きく開けた口から飛んできた唾液の飛沫が、長峰の頰に当たった。
「なんだっけ? たしか、コロナウイルスとか言うんだよな」
 記憶を探るように、町田は視線を彷徨さまよわせる。長峰は「ああ、そうらしいね」とあごを引いた。
 中国武漢の病院で入院している肺炎患者から、新しいタイプのコロナウイルスが検出されたという情報が、二日前に医師会からFaxで送られてきている。もし、武漢から日本に入国した発熱患者が受診したら、保健所に連絡するように指示があった。
「コロナって、そんな怖い病気なの?」
「いいや、コロナ自体は珍しくもなんともないウイルスだよ。基本的に冬風邪の病原体だ。町田さん、先月、咳と鼻水でうちを受診しているだろ。そのときにかかっていたのも、コロナウイルスの可能性が高いな」
「ということは、俺はもう免疫を持っているから、安心ってことか?」
「いや、今回見つかったのは、新しいタイプのコロナウイルスみたいだから、安心かどうかは……。とりあえず、いまのところはあまり心配する必要ないって。少なくとも日本国内では一人も患者が出ていないんだからさ」
 長峰は電子カルテに『新型のコロナについて質問を受ける。おそらく心配ないと答える』と記入をしたあと、『終了』のアイコンにカーソルを合わせて、マウスをクリックする。
「はい、それじゃあ薬出しておいたから、処方箋もらっていってくださいね。次回は来月」
「ありがと。それじゃあ先生」
 診察室のドアを開けて出ていく町田に「お大事に」と声をかけると、長峰は背もたれに体重をかけて背中を反らした。背骨がこきこきと音を立てるのが心地よい。腕時計に視線を落とすと、正午を過ぎていた。電子カルテを見ても、診察待ちの患者はいない。午前の診療はこれで終わりだ。
 立ち上がって白衣を脱いだ長峰は、診察室の扉を開けると、看護師と事務員に「お疲れ様」と声をかける。そのとき、腰のあたりから電子音が響いた。ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。往診をしているグループホームなどから、入居者の健康についての問い合わせが入ることはよくあった。
 二つ折りの携帯電話を開いた長峰は、首をひねった。液晶画面にはグループホームの名称ではなく、『だい』の文字が表示されている。埼玉の総合病院に勤務している一人息子、長峰大樹からの電話。
 こんな時間に、大樹がなんの用だ? 息子との関係は最近ぎくしゃくしていた。今年の正月、大樹は「悪いけど父さん、俺は長峰医院は継がないよ」と言ってきた。かなりのかかりつけ患者をかかえるこのクリニックを息子に引き継ぐことこそ自分の最後の仕事だと思っていた長峰はショックを受け、大樹と言い争いになった。それ以来、大樹と連絡をとっていなかった。なのになぜ?
 かすかに不安をおぼえつつ、長峰は『通話』のボタンを押す。
「どうした、大樹? もしかして、ちゃんになにかあったのか?」
 長峰は早口で、孫の安否を訊ねる。
『違うよ、父さん。紅実は元気だよ』
「そうか。それならいいんだ」
 長峰は安堵の息を吐く。いま、この世界で最も大切なものは、二歳になる初孫だった。この前、正月に会ったときに、満面の笑みで「じぃじ」と呼んでくれたあの子さえ無事なら、あとは些末なことだった。
『よくないよ。父さん、診察のとき、マスクはしてるか?』
「マスク? していないぞ。なんでだ?」
 開業医として三十年間、咳や鼻水、咽頭痛などの感冒症状を呈する患者を無数に診察し、ありとあらゆる種類の病原体を日常的に浴び続けた結果、ほとんど感染症にかからなくなっていた。毎年、マスクなどせずにインフルエンザ患者を何千人も診察しているが、一度たりとも感染したことはない。
『新型のコロナウイルスの件、知っているよな』
「ああ、なんか中国で流行っているやつだな。医師会からも一応、通達がきてた。それがどうした?」
『まずいかもしれない』
 電話から聞こえてくる大樹の声が低くなる。
「まずい?」
 意味が分からず、長峰は聞き返す。
『同期の感染症専門医と話したんだ。中国の状況から見て、たぶんヒト―ヒト感染が起こっているってことだった』
「本当か?」
 長峰は携帯電話を両手で摑んだ。人から人へと伝播するようになると、感染症のリスクは一気に上がる。感染が制御できなくなり、一気に社会に病原体が広がっていく可能性があった。
『まだ、十分な情報が出てないから分からない。ただ、警戒しておいた方がいい。最悪、二〇〇九年みたいなことになるかもしれない』
「二〇〇九年……」
 声がかすれる。恐ろしい記憶が脳裏に蘇った。
 二〇〇九年四月に、これまでにないタイプのインフルエンザがメキシコで確認された。もともとは豚の間で流行していたウイルスが変異し、ヒト―ヒト感染をする能力を得たとされているその新型インフルエンザは、当初致死率が極めて高いというデータが出て、世界中を大きな恐怖に陥れた。
 感染は北米を中心に拡大していき、四月の下旬に当時のあそ内閣は検疫体制の強化を指示、空港にサーモグラフィーを配備し、入国者の体温を確認するなどの処置を取るとともに、発熱相談センターや発熱外来が設置された。
 しかし、五月十六日には神戸市で感染者が初めて確認され、それ以降、全国に感染が急拡大していった。
 幸い、新型インフルエンザの致死率は当初の報告より遥かに低く、また大量に備蓄してあった抗インフルエンザ薬を早期に投与できたため、日本国内での死者は極めて少なかった。
 しかし、これまで人類が経験していなかった感染症の伝播性はすさまじく、七月から八月にかけて、長峰医院でも毎日、数十人、多い日には百人を超える新型インフルエンザ患者が押しかけ、医療システムが崩壊しかけた。
「また、新型インフルエンザみたいなことになるかもしれないのか?」
 口からこぼれた声は、自分でもおかしく思えるほどにかすれていた。
『分からないけど、一応、警戒しておいた方がいい。明日から診察のときはちゃんとマスクをつけて、頻繁に手をアルコール消毒しておいてくれ。あと、ドアノブを通じての接触感染も考えられるから、診察室の扉は開けておいた方がいいかもしれない』
「おい、そんなに焦るなって。うちの医院の患者はみんな、この近くに住んでいる人たちだ。外国人観光客なんてほとんど来ないって。中国からの観光客は、銀座とかそっちに行くだろ」
 長峰は軽い声で言う。息子と普通に会話できることが嬉しかった。
『父さん、まだ知らないのか?』
 深刻な響きを孕んだ大樹の声に、胸の奥で不安が湧きあがってくる。
「知らないって、なんのことだ?」
『すぐにテレビのニュースを見てくれ。いますぐに』
 息子にうながされた長峰は、診察室を出ると、採血や心電図検査などを行う検査室を抜けて、患者待合に向かう。
「あれ、先生、どうかしましたか?」
 長椅子が並んでいる待合を掃除していた事務員が振り返った。
「リモコン、テレビのリモコンは?」
 事務員は「これですけど」と、受付に置かれているリモコンを手に取って渡してくる。長峰はせわしなく、受け取ったリモコンのボタンを連続して押し、壁掛け型テレビの電源を入れた。大型の液晶画面にニュース番組が映し出される。女性キャスターが深刻な表情で原稿を読み上げていく。

『続いてのニュースです。本日、中国・武漢で発生している肺炎の原因とみられる新型コロナウイルスに感染した患者が、日本国内で初めて確認されました。これを受けて厚生労働省が会見を行い、注意を呼び掛けています』

 画面が切り替わり、厚生労働省の会見画面が映し出される。スーツを着た厚生労働省の職員が、緊張した面持ちでマイクを持っていた。『新型肺炎 国内で初確認 厚労省会見』というテロップが躍っていた。

『一月十四日、あの、神奈川県内の医療機関から、管轄の保健所に対しまして、えー、中国の湖北省武漢市の滞在歴がある肺炎の患者が報告をされました。この方につきましては、去る一月六日に……、現在、あの、国立感染症研究所での検査制度……、この患者様の検体を……、昨日の二十時四十五分ごろに新型のコロナウイルスの陽性結果が得られ……』

 たどたどしい口調で職員が説明していくのを、長峰は身じろぎもせず凝視し続ける。
 海外に一度も出たことがない長峰は、武漢市での感染拡大など、遥か彼方の別世界の出来事だと思っていた。しかし、それは間違いだった。
 スペイン風邪のときは、一九一八年三月にアメリカで最初の症例と思われる患者が発生、八月ごろに日本に上陸し、十一月に大流行が生じた。だが、この百年間で人間は交通網を発達させ、世界を一気に小さくした。
 かつてはアメリカ大陸から日本への病原体の伝播まで、半年近くかかった。けれど、いまや数時間あれば中国の内陸部から日本へと、人は、そしてその体内に潜んだ病原体は移動が可能になっている。
 もし、大量の感染者が国内に入り込み、ウイルスをばら撒いたりしたら……。急に酸素が薄くなったかのような息苦しさをおぼえ、長峰は喉元に手を当てる。気がつくと、テレビからは次のニュースが流れていた。

『今月二十四日からはじまる春節を控え、中国の日本大使館や領事館では、中国人観光客に対するビザの発給作業がピークを迎え……』

 喉の奥から小さく、笛を吹くような音が漏れた。

4 2020年1月24日

「疲れた……」
 呼吸器内科の医局へ入った椎名梓は肩を揉みながら、部屋の隅にある自らのデスクに向かう。横目で壁時計を見ると、午後六時を過ぎていた。午後の外来を終えて戻ってきたのだが、六時半から、肺がんの化学療法を行っている担当患者への病状説明が入っている。それを終えても、明日退院予定の患者の療養計画書や、医学誌に提出するための論文を書かなくてはならない。その前に一杯だけコーヒーを飲んで、カフェインを補給したかった。
 今日も一帆が起きている時間には帰れそうにない。あの子が眠る前に電話をして、おやすみを言おう。
 医局に備え付けられている自動販売機で缶コーヒーを買いながら、梓は口を固く結ぶ。二十四歳で医師になってからの十二年間、一流の呼吸器内科医になるために大学病院の医局に所属し、少ない給料で多忙な勤務に耐えてきた。一般の総合病院では治療が困難な、様々な疾患の患者がここには紹介されてくる。そのおかげで経験を積むことができ、総合内科専門医、呼吸器科専門医などの資格を取ることはできた。
 けれど、このままでいいのだろうか……?
 三十歳を過ぎた頃に、そんな疑問が胸の奥に生まれ、それはいまや胸郭を満たすほどまでに成長していた。特に、四年前に一帆を出産してからは。
 一帆と十分に向き合うことができるのは、週末ぐらいだ。それも、月に二回は日直や当直業務で潰れてしまう。
 勤務が楽な病院に転職し、もっと家族との時間を作るべきではないのだろうか。
 医師としての実力をつけるという目標が達成されたいま、自らが進むべき道に迷いが生じていた。
 火曜日に外勤に行っている中規模の病院では、呼吸器内科の部長待遇で来年度から勤務しないかと、半年ほど前から誘われている。勤務時間も短くなり、夕食の時間までには帰宅できるようになるし、当直も月に二回程度とだいぶ少なくなる。さらに、給料もいまより遥かに上がる。
 条件だけ見ると、いいこと尽くしのように思えるが、決断できずにいた。
 呼吸器内科医としての梓の専門は、結核やAIDS患者のニューモシスティス肺炎などの特殊な肺感染症だった。しかし、外勤先の病院は結核病棟を持たず、呼吸器内科医の仕事といえば一般的な細菌性肺炎や肺がんの治療だけだ。
 十数年かけて培った専門知識を発揮できなくなってしまう。そのことに葛藤し続けていた。
 もし、今年度で医局を辞めるなら、そろそろ部長に言っておかないと。結論を出すタイムリミットが迫っていることに焦りをおぼえる。
 プルトップを開けてホットコーヒーを一口すすると、コクのある苦みと、優しい甘みが口の中に広がり、芳醇な香りが鼻腔に広がった。やや多く含まれている砂糖とクリームがコーヒーの風味をいくらか損なっているが、専門外来で三十人近く診察し疲れ果てた心身にはそれが逆に染みわたって、消えかけていた気力の残り火に酸素を送り込んでくれる。
 転職のことはまた今度考えよう。問題を棚上げにすることを決めつつ、梓は自分のデスクに向かう。
 倒れこむように椅子に腰かけた梓は、デスクにコピー用紙の束が置かれていることに気づいた。
「なにこれ?」
 小首をかしげると、「よう」と隣から声がかかった。同期の呼吸器内科医であるやまゆうが、椅子の背もたれに背中を預けるように体を反らして、デスクとデスクの間に立っている衝立から顔を出していた。
「さっき、部長が置いていったぞ。ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに今日掲載された論文だってよ。医局員、全員のデスクに配っていった」
「NEJMの論文?」
 New England Journal of Medicineは世界で最も権威のある医学誌だ。もちろん、梓もよく目を通している。しかし、これまで部長が全医局員のデスクに論文のコピーを置いたことなど、一度もなかった。
 梓は論文のタイトルに視線を落とす。そこには『A Novel Coronavirus from Patients with Pneumonia in China, 2019』と記されていた。
「中国の肺炎患者から発見された、新しいコロナウイルス……」
 胸骨の裏側で心臓が大きく跳ねる。いま中国の武漢市で流行している、新型肺炎の原因ウイルスについての論文だ。
 年始に複数の患者が原因不明の肺炎を起こしているとニュースになって以降、中国では感染が拡大し続け、とうとう昨日、中国政府は武漢市を封鎖するという強硬手段に出た。電車が止まり、軍が動員されて市民の移動を制限している光景はあまりにも衝撃的で、まるで映画を見ているような心地になった。
「なんか部長、これが日本でも流行るんじゃないかって思っているみたいだな。年取ると、心配性になるんだろうな」
 軽い口調で茶山は言う。学生時代、出席番号が近かったので茶山とは実習などで同じ班になることが多かった。医学生、研修医、そして医局と、一人前の呼吸器内科医となるためのつらい道をともに進んできた茶山は、まさに『戦友』だ。茶山の妻は、梓が紹介した高校時代の親友で、いまや家族ぐるみの付き合いだった。
「茶山は心配してないの?」
 茶山は「全然」と肩をすくめる。
「ウイルス性肺炎って言ったって、しょせんコロナだろ。新型のインフルエンザならまだしも、コロナが大流行なんてするわけないさ。だろ?」
「そうかもしれないけど……」
 感染症の世界的流行は、常に警戒されている。しかし、その主な対象は新型インフルエンザだった。
 他の動物、とくに強毒性の鳥インフルエンザがヒト―ヒト感染するように変異し、大流行する。百年前に数千万人の犠牲者を出した最悪のインフルエンザ、スペイン風邪のように。それが恐れられているシナリオだった。
 だからこそ、政府は新型インフルエンザの流行に備え、法律を整備し、アビガンなどの治療薬を備蓄している。
 梓は医学生時代に受けた講義を思い出す。公衆衛生学の教授は、新興感染症に対する説明をしたあと、こう続けた。
「まあ、公衆衛生が発達した現代の先進国で、何十万人と犠牲者が出るような大流行を起こすポテンシャルを持つ病原体は、インフルエンザだけだな。新型インフルエンザにだけ警戒しておけば、それで十分だよ」
 二十年近く前に聞いた言葉が、やけに鮮明に耳に蘇る。
「そうかもしれないじゃなくて、そうなんだよ。あんまり心配し過ぎると、胃に穴が開くぞ」
 学生時代と同じ茶山の屈託ない笑みを見て、不安が希釈されていった。
「けど、中国だと感染拡大しているんじゃないの?」
「住民がパニックになって、病院に押しかけているんだよ。どんなに感染力の弱いウイルスでも、そんな状況じゃ広がって当然さ」
 たしかに、ニュースで見た武漢の病院には混乱した市民が殺到し、満員電車のようなすし詰めの状態で多くの人々が叫んでいた。
「じゃあ、日本では大丈夫かな?」
「大丈夫に決まっているだろ。WHOもヒト―ヒト感染は、同居家族ぐらいの濃厚接触じゃないと感染なんかしないって発表してる。それに、日本人は世界有数の綺麗好きだ。毎日風呂に入るし、家では靴を脱ぐ。欧米からの観光客も、街にまったくゴミが落ちていなくて感動するぐらいなんだぞ」
「だよね」
 そう、たんなる杞憂に過ぎない。
 梓は胸の中で自分に言い聞かせつつ、デスクに置かれている論文のコピーを手に取った。その内容は、二〇一九年末に中国・武漢で原因不明の肺炎を発症した患者から、新しい型のコロナウイルスが検出され、それが病原体と考えられるというものだった。
 外来業務で疲弊している脳に甘い缶コーヒーで糖分を補給しつつ、梓は英文で書かれた内容を流し読みしていく。基本的には、すでにWHOから発表されている内容と変わらなかった。中国がWHOに伝えた情報を論文にしたものなのだから当然だろう。
 なぜ、部長はこれを全医局員に配ったのだろう。空になった缶コーヒーをデスクに置いてページをめくった瞬間、背骨に氷水を注がれたような心地になった。そこには、新型のコロナウイルスが検出された症例の、詳しい病状経過が記されていた。患者の胸部レントゲン写真とともに。
「なに……、これ……?」
 唇の隙間から零れた声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。
 論文に貼られている小さなレントゲン写真、そこに映ったはい全体が白く細かい粒子で塗りつぶされていた。まるで、厚いすりガラスの窓から、吹雪を眺めているかのように。
「間質性肺炎か?」
 弱々しい声が鼓膜を揺らす。横を向くと、茶山が血の気の引いた顔で写真を凝視していた。
「そうだと思う」
 梓は胸元に手を当てる。乳房を通して、早鐘のように加速している心臓の鼓動が掌へ伝わってきた。
 間質性肺炎。肺でのガス交換を担う肺胞ではなく、その外側で肺の構造を支える間質という部分に炎症が起こる病態。
 多くの細菌やウイルスによる肺炎は、肺胞や気管支に炎症を起こす。その場合、抗菌薬や抗ウイルス薬の投与により炎症が治まれば、肺の機能は戻ることが多い。しかし、間質に強い炎症が生じると組織せん化が生じ、肺の柔軟性が失われ、治癒後も呼吸機能が大きく落ちることが少なくなかった。
「けれど、こんなひどい間質性肺炎なんて、特発性間質性肺炎かこうげんびょうの間質性肺炎の急性増悪でしか見たことがないぞ……。感染でここまでの状態になるなんて……」
 呆然と茶山がつぶやく。
「抗がん剤使用中の患者がサイトメガロウイルスに感染して、似たような状態になった症例を見たことがあるよ。あと、AIDS患者のニューモシスチス感染でも、強い間質性肺炎が生じることも」
「抗がん剤とAIDSって、両方、かんせん状態の患者だろ。けれど中国だと、普通の市民がこの肺炎になっているんだぞ」
「……SARS」
 梓がつぶやくと、茶山は「え?」と眉を顰める。
「学会の症例報告で、SARS患者のレントゲン写真を見たことがある。……これにそっくりだった」
 二人の間に沈黙が降りる。鉛のように重く、冷たい沈黙。
 唐突に、茶山がやけに明るい声で沈黙を破った。
「SARSとそっくりならやっぱり安心だ。今回も日本では流行らないさ。この前、国内で出た症例も、中国で感染したやつだろ。いくら重症間質性肺炎を起こすウイルスでも、流行しないなら関係ないさ」
「うん、そうだよね」
 梓は相槌を打った。茶山の声が上ずっていることに気づかないふりをしつつ。
「ああ、そういえば俺、まだ明日からの点滴のオーダーを出していない患者がいたんだよな。ナースに文句言われる前にやらないと」
 茶山は「じゃあな、椎名」と軽く手を挙げ、医局の出入り口に向かっていく。扉から出ていく茶山を見送った梓は、論文のレントゲン写真に視線を戻す。
 視界から遠近感が消えていき、そこに映った白く濁った肺野に吸い込まれていくような錯覚に襲われた。

5 2020年1月31日

 カレーライスの皿が乗った盆を持ちながら、硲瑠璃子はフロアを見回す。正午を少し回った時刻、職員食堂は医師や看護師でごった返し、ほとんど席が埋まっていた。マスク越しに、食欲を誘うカレーの香りが漂ってくる。
 だから、この時間は嫌なんだよね。瑠璃子は胸の中で愚痴をこぼす。
 外来や病棟と違い、いつ患者が搬送されてくるか分からない救急救命部の看護師の昼休み時間は決まっていない。待機している看護師の数が減らないよう、順番に一人ずつ休憩をとることになっていた。休憩時間が正午から午後一時を外れていれば、すいている食堂でゆったり昼食を取れるのだが、今日のようにその時間帯に当たると、席を探して一人彷徨うことになる。
 背後から「瑠璃子」と声がかけられた。振り返ると、新人の頃、同じ病棟で働いていた同期のはらぐちが席に座って手を振っていた。
「席、探しているの? それなら、そこ座りなよ」
 梨花はテーブルを挟んで向かいの席を指さす。
「ありがと、梨花。お邪魔するね」
 盆をテーブルに置いた瑠璃子は、椅子を引いて腰掛け、つけているマスクを外して、救急救命部のユニフォームである紫色のスクラブのポケットに押し込んだ。
「なんか、会うの久しぶりだね。元気だった? 相変わらず、救急部は忙しい?」
 昼定食の酢豚に入っているパイナップルをよけながら、梨花は微笑む。
「うん、さっきは胸痛で搬送された心筋梗塞の患者さんが、処置室で心停止して大変だった。心肺蘇生で心拍再開させて、そのままカテーテル室に運んで治療できたけど」
「うわ、相変わらずスリリングな毎日送ってるね。私とは大違い」
 おどけるように言いながら、梨花は中華スープを一口飲んだ。
 梨花は現在、産婦人科外来で外来看護師をしている。看護師三年目のとき、月に五回以上夜勤がある不規則な生活と、先輩看護師からのいじめともとれる厳しい指導に心身のバランスを崩し、うつ病の診断で半年間休職したあと、外来へと異動した。
「もう慣れたよ。梨花はどうなの?」
 瑠璃子はスプーンでカレーをすくい、口に運ぶ。
「うーん、まあそれなりに忙しいよ。内診やらエコーやらの補助をしないといけないし、お産で入院する妊婦さんへの説明とかもあるしさ。ただ夜勤がなくて、基本的に定時で帰れるのは大きいかな。あと、外来の看護師って、子育てが終わって復職したベテランナースとかが多いんだよね。病棟みたいに意地悪なお局様みたいなのがいなくて、みんな優しいのがなにより楽」
「あ、それは羨ましい」
「なに言っているの、瑠璃子」
 梨花は皮肉っぽく唇の端を上げる。
「あんたはもう、けっこうなベテランでしょ。意地悪される側じゃなくて、する側なんじゃないの?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。後輩の指導はしているけど、いじめてなんかいない」
「怒らないでよ。冗談だって」
 梨花はけらけらと笑う。同じ病棟にいた頃、表情が消え去った状態でふらふらと働いていた梨花を知っているだけに、はつらつとした姿に口元がほころんでしまう。
「けどさ、このままだらだら生きていたら、マジでお局になっちゃうよ。例の彼とまだ付き合ってるの? もう六年目でしょ。そろそろ、結婚の話とかないの?」
「実は……」
 瑠璃子がカレーを食べながら、彰からプロポーズを受けたこと、三月に彼の実家に挨拶に行く予定であることを告げると、蕾が開くように梨花の顔に笑みが広がっていった。
「おめでとう! 結婚式には呼んでよね。うわー、先を越されちゃったか。でも、嬉しい」
 無邪気に喜んでくれる友人の姿に、胸の奥が温かくなっていく。
「ありがと。けど、ちょっとそれで悩んじゃって……」
 瑠璃子は結婚後、どのように働いていけばいいか迷っていることを伝える。誰にも相談できずに悩んでいたが、つらい新人時代を力を合わせて乗り越えてきた友人になら、自然と話すことができた。
「うーん、けっこう難しい問題だね」
 梨花は腕を組む。
「やっぱりさ、結婚して妊娠することとか考えると、夜勤がある勤務は厳しいと思うんだよね。年齢的にもそろそろ、徹夜が響く年になってくるし」
「嫌なこと言わないでよ」
 瑠璃子は唇をへの字に歪めた。
「仕方ないじゃない。事実なんだからさ。たしかに彼氏が言うように、仕事辞めて専業主婦になるのも、悪くない選択肢だと思うよ」
「やっぱりそうかな……」
 瑠璃子はスプーンを回して、カレーとライスを混ぜていく。梨花は「たださ」と続けた。
「瑠璃子って、看護に命かけてるでしょ」
「命かけてるってわけでは……」
「ううん、同期の中で一番、瑠璃子が看護への想いが熱かった。だからこそ、希望していた救急救命部への転属も出来たんだよ」
 瑠璃子の脳裏に、セピア色の記憶が蘇ってくる。
 小学一年生のとき、マイコプラズマ肺炎になって入院した。その際、両親と離れ、見知らぬ病室で一人眠ることに怯えていた瑠璃子の不安を、担当の看護師が癒してくれた。勤務時間が終わったというのに、べそをかく瑠璃子の手を握り、眠るまで子守唄を歌ってくれた。
 それ以来、看護師になることが瑠璃子の人生の目標になった。あの経験がなければ、厳しい父の意向に反して、看護学校に進学することもなかっただろう。
「だからさ、瑠璃子はずっとナースでいるべきだって。救急の看護は厳しくても、私みたいに外来看護師をするとかさ。子供ができても、看護師なら空いている時間で働くこともできるし。きっと瑠璃子なら、家庭と看護を両立できるって」
 梨花の力強い言葉が、乾いた地面が雨を吸うかのように体に染み込んでいく。そうだ、救急看護だけがナースの仕事じゃない。
 いつの間にか、『妻』か『看護師』かを選ばなくてはならないと思っていた。女は結婚したら家庭に入るもの。父から教え込まれたその古い価値観に、縛られていたのかもしれない。けれど、もうそんな時代じゃない。
 曇っていた視界が一気に晴れたような気がした。梨花に礼を言おうと口を開きかけたとき、ざわりと食堂の空気が揺れた。周囲の職員たちの視線が、同じ方向を向いていることに気づき、瑠璃子は振り返る。
 天井近くに備え付けられている大きな液晶テレビに、昼のニュースが映し出されていた。

『WHO、世界保健機関は三十日、新型コロナウイルスによる肺炎について、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」に当たると宣言しました。新型肺炎の感染が拡大する中、中国国内では……』

 キャスターが淡々と伝えるニュースの音声が、やけに大きく食堂内に響き渡る。画面ではWHOのテドロス事務局長が険しい表情で、緊急事態を宣言している映像が映し出されている。
 これまで、感染が拡大しているにもかかわらず、「流行は中国国内に限定している」と、宣言を見送ってきたWHOがとうとう、緊急事態であることを認めた。すでに新型コロナウイルスの感染者は、SARSの総感染者数を超えている。日本でも中国から入国してきた人々を中心に、感染者がぽつりぽつりと発生していた。
 瑠璃子の呼吸が早く、浅くなっていく。
 やがて、新型コロナウイルスについてのニュースが終わると、職員たちはテレビから視線を外した。しかし、どこか毛羽立った空気が変わることはなかった。誰もの顔に、得体のしれない感染症に対する不安が浮かんでいる。
「ねえ、これって大丈夫なの?」
 梨花が声をひそめながら訊ねてくる。
「私に分かるわけないでしょ」
「けどさ、武漢からの飛行機で帰ってきた人の中にも、肺炎を起こしている人がいるんでしょ」
「みたいね」
 瑠璃子は小さく頷いた。
 一昨日、政府がチャーターした飛行機で、一月二十三日から封鎖されている武漢から、邦人二百人ほどが帰国した。その中の五人が体調不良を訴えて医療機関に搬送され、そのうちの一人には肺炎が認められたということだった。
 武漢では想像以上に感染が広がっているのかもしれない。だとしたら、すでに感染は武漢にとどまらず、中国国内で拡大しているのではないだろうか。
 実際、封鎖の噂を聞いた多くの人々が、二十三日の夜に武漢を脱出したという情報もある。だとすると、封鎖が逆効果になってもおかしくない。
 中国は一月二十五日に団体旅行を禁止したが、一月二十四日からはじまった春節の大型連休に合わせて、すでに多くの中国人旅行客が日本を訪れていた。
「ねえ、やっぱり、マスクとかしといた方がいいのかな? 瑠璃子、いつもマスクしているでしょ」
 不安げに梨花が細い眉をひそめた。
「えっ、私がマスクしているのは、別に感染対策とかじゃなくて、いろいろな花粉とかにアレルギーがあるからだよ。あと、救急部での仕事中は、外傷の患者さんの血とかが飛んでくるから」
「でも、最近、外でマスクをつけている人、かなり多くなっているでしょ」
 言われてみれば、たしかにそうかもしれない。
「なんか、マスクが品薄になって買えないって、友達も言ってた」
「買えないって、そんな大げさな。まあ、そんなに心配しなくてもいいとは思うけど、それで安心できるなら、一応しておいた方がいいんじゃない」
 梨花が「そうする」と頷くのを見ながら、瑠璃子はカレーをすくおうとする。かすかに震えたスプーンが皿に当たり、硬質な音を響かせた。

「休憩終わりました」
 午後一時、昼休憩を終えた瑠璃子は一階にある救急救命部の経過観察室へと戻った。
 救急処置を終えた患者の様子を見るための五つのベッドは、すべて空だった。隣にある救急処置室の三つの処置用ベッドにも患者の姿はない。休憩中に救急搬送はなかったらしい。
 後輩の看護師に「次、休みでしょ。交代しよ」と声をかけつつ、瑠璃子は経過観察室を進んでいく。点滴などを作るときに使用する作業台に近づいた瑠璃子は、「あれ?」と声をあげた。いつもそこに置かれているサージカルマスクの箱がなくなっていた。
「マスクの箱、誰か知らない?」
「私がしまいました」
 振り返ると、大柄な中年女性が立っていた。瑠璃子の直属の上司に当たる救急部の看護師長だった。
「え、どこにしまったんですか? 新しいのが必要なんですけど」
 勤務中、休憩ごとにマスクを交換するのが瑠璃子の習慣だった。
「師長室にしまいました。今後、マスクは私が管理します。とりあえず、三日に一枚支給するので、それを大切に使って」
「三日に一枚⁉」
 声が裏返る。院内で使用されているサージカルマスクは、基本的に使い捨てだ。それを使い回すなんて、聞いたことがなかった。
「待って下さい。サージカルマスクを三日も使うなんて不潔です。細菌が繁殖しますよ」
 早口で抗議すると、師長はゆっくりと首を振った。
「私が決めたことじゃなくて、さっきの会議で院長が決めたことです」
「院長が……?」
 なぜ、院長がマスクの数を抑えようというのだろう? 経費削減のため? 混乱する頭に手を当てていると、師長は大きなため息をついた。
「気持ちは分かるけど、我慢して。手術部に優先してマスクを回す必要があるの。オペには清潔なマスクが不可欠だから」
「優先してって、マスクが足りないんですか? もしかして、コロナのせいですか?」
 師長は固い表情で頷いた。
「日本中の病院からマスクの注文が入って、卸の在庫が完全になくなっているらしいの。しかも、中国からのマスクの輸入がストップして、今度いつ入って来るか分からないって。マスクだけじゃなくて、アルコール消毒液も、防護服も全部足りないの」
「そんな……」
 ほんの数十分前、梨花からマスクが品薄になっていると聞いても、とくに危機感はおぼえなかった。しかし、まさか勤務に必要不可欠な備品が、こうもあっさりと枯渇するとは想像だにしなかった。
 瑠璃子は呆然と立ち尽くす。
 遠くから、日常が崩れていく音が聞こえた気がした。

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