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ピアニスト・藤田真央エッセイ #40〈この一夜はきっと走馬灯に〉

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 2023年7月24日には5年に1度の周年記念ビッグガラ公演がある。今年は30周年を祝し、その日ヴェルビエに滞在している全アーティストが一堂に会する、オールスターゲームのようなコンサートとなった。
 そう、まさに5年前、アカデミー生だった私は観客としてガラコンサートに居合わせたのだ。いつかはこの一員になれたらと淡い期待を抱くとともに、世界の檜舞台で活躍するスターたちが眩しくて、そんなことは夢のまた夢だとも感じた。もし当時の自分にタイムマシーンで会いに行って、5年後にはその願いが叶うよと伝えても、19歳の私はきっと信じないだろう。

 今年のプログラムは3部構成である。第1部は10人のピアニストがラフマニノフ《前奏曲 作品23》を1番から10番まで1曲ずつ奏していく。第2部は主に弦楽器のソリストたちが小編成用に編曲されたバッハ《ゴルトベルク変奏曲 BWV.988》を披露し、第3部は指揮者たちが入れ替わり立ち替わりタクトを担うオーケストラ公演だ。なんと夢のようなステージだろうか。この公演のためだけにヴェルビエに来る価値も大いにあるだろう。
 当初私は第2部の《ゴルトベルク変奏曲》第29変奏を担当するはずだったのだが、ライブカメラが入るのならと本番1か月前に降板した完璧主義者ババヤンの代わりに、第1部のラフマニノフ《前奏曲 作品23》の〈3番〉を演奏することになった。
 慌ててプログラムを確認すると、

 1番:アレクサンドル・カントロフ
 2番:エフゲニー・キーシン
 3番:藤田真央
 4番:ミハイル・プレトニョフ
 5番:イェフィム・ブロンフマン
 6番:キリル・ゲルシュタイン
 7番:アレクサンダー・マロフェーエフ
 8番:リュカ・ドゥバルグ
 9番:ダニール・トリフォノフ
 10番:ユジャ・ワン

 となっている。
 なんという布陣であろう。私がキーシンとプレトニョフというロシアを代表する巨匠二人に挟まれてしまっている。これはモーツァルトやベートーヴェンをさらっているどころではない。心血を注いで練習せねばと思い、ウィグモア以前から毎日練習を欠かさなかった。幸い、これまで経験してきたような、数日前に出演が決まる過酷なジャンプインと比較するとだいぶ余裕がある。〈3番〉は初めて弾く曲だが、落ち着いて向き合うことができた。

 公演当日の夕方から始まったリハーサルでは皆がそわそわしていた。第1部ではステージ上に2台のピアノが平行に並んでいる。奇数番のピアニストは下手側のピアノ、偶数番のピアニストは上手側のピアノを使用し、拍手なしで交互にバトンを繫いでいく。私は3番なので、下手しもて側のピアノで弾くことになった。どうにも漢字で“下手”と書くと、ピアノが下手へただと言われているみたいだ。もっといい漢字を割り当ててほしかった。
 GP(ゲネプロ)が始まる前にピアノの性格を確かめようと、皆が2台のピアノの周りに集まってきた。上手側のピアノを長らく占領していたブロンフマンがやっとさらい終わったと思えば、トリフォノフが下手側のピアノを鳴らし、すると今度はキーシンがやってきて上手側のピアノを大音量で奏で始め、トリフォノフは彼に遠慮して演奏を中止した。なるほど、巨匠ピアニストの中でも先輩・後輩があるのか。私やカントロフは巨匠たちの勢いに押され、モジモジしていたら最後までピアノに触れられずにGPが始まってしまった。

 GPでは照明さん、舞台さんとともにステージの進行を確認する。前のピアニストが弾いている間に、暗闇の中静かにステージに歩み入り、そっと椅子に座って自分の番が来るのを待つ。いざ、照明が切り替わったら弾き始める。こんな進行だ。
 私の出番は3番目なので、すぐにスタンバイの準備をする。ステージに行くと、グラマラスな音量とヴィルトゥオージティ満載でキーシンが演奏していた。キーシンのコンサートは何度も訪れたことがあるが、ステージ上で聴くとそのバイタリティ溢れる音に改めて驚愕きようがくするしかない。3分ほどで彼の演奏が終わり、スポットライトが私を照らした。慌てて〈3番〉を弾き始めるも、完全にキーシンのピアノに飲まれてしまっている。この曲の特性であるバロック的要素などどこへやら、ふわふわした不甲斐ない演奏に終わってしまった。
 私の次はプレトニョフの番だが、神出鬼没な彼はもちろんGPなんぞに現れることはなく、スタッフが代わりにスタンドインした。それがプレトニョフのスタイルで、本番に現れてさえくれれば御の字。それほど彼は特別な存在なのだ。プレトニョフを除いた9人はそのまま舞台袖に残り、アンカーのユジャが演奏を終えると、再び舞台に上がってカーテンコールのリハーサルをこなす。誰もいない客席に向かって、皆がそれぞれお辞儀の練習をするのはなんとも可愛かった。ブロンフマンやキーシンといったベテラン勢が真面目に立ち位置を確認し、きちんとお辞儀をしているのを見ると、我々若者もきちんとせねばと身が引き締まる。そんな中、ユジャは一人独特な超高速お辞儀をしていた。肝っ玉が違う。
 帰りはブロンフマンと一緒に相乗りをした。車で山道を下りながら、彼はおもむろに一言「あの曲はメヌエットだよね?」と声をかけてくれた。そう、私は完全にキーシンの演奏を引きずって、テンポも確立できぬまま弾いていたのだ。ブロンフマンの示唆に富んだ一言は私をハッとさせた。他人の演奏など気にすることはない。自分の演奏、目の前の作品にただ向き合うんだ――そう伝えたかったのだろうか。一見強面なブロンフマンの、懐の大きさと優しさ、そして豊かな経験を肌で感じた。

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