ピアニスト・藤田真央エッセイ #70〈極限のスケジュール下で〉
『指先から旅をする』が書籍化しました!
世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。
欧米のクラシック音楽界は、9月から新シーズンがスタートし、魅力的な定期演奏会やオペラ公演などで活気に満ちている。私も観客としてベルリン・フィルの公演やベルリン国立歌劇場、ウィーン楽友協会に足を運ぶ一方で、奏者としても様々な国へ訪れた。今シーズンは初めて降り立つ国も多い。
2024年9月13日にプラハ(チェコ)で行ったリサイタルはとりわけ印象に残っている。結論から言うと、チェコ共和国デビューは”大成功”を凌駕したものだった。一曲毎、拍手の波がうねりが高くなっていく。
プログラムのトリとなるリスト《巡礼の年 第2年「イタリア」より「ダンテを読んで」》では、忘れられないアクシデントに見舞われた。最終音を渾身の力を込めて鳴らした瞬間、低弦がバチンと切れたのだ。予想だにしなかった大きな衝撃音と共に終演を迎える――会場中が息を呑み、そして驚きの声を漏らした。次第に皆が顔を見合わせて笑い声をあげ始め、最後は割れんばかりの大喝采に包まれる。今までに感じたことのない熱狂が、肌で伝わる公演となった。
他にもノルウェー、フィンランドといった北欧の国々にも初めて訪れることができた。10月の北欧は既に冷え込んでいたものの、普段はウォーキングなど好まない私が、自然の美しさに見惚れて一日一万歩も歩いてしまった。港町・ベルゲン(ノルウェー)では新鮮な魚介類を、ヘルシンキ(フィンランド)ではたっぷりの日本食を堪能できる。
さらに、ヘルシンキでは日本を感じさせるような街並みにすっかり癒されてしまった。小さな可愛らしいぬいぐるみのお店が見つかったり、デパ地下なるものが存在したり。日本のターミナル駅によくあるような、駅直結の大型商業施設も整っている。あるデパートでは、なんと一フロアまるまる無印良品のお店が展開されていた。遠国とは思えない馴染み深い街並みに感嘆し、街角の不動産屋のウィンドウに貼られた物件情報を思わず真剣に眺めてしまった。
この他にも秋には、ウィーンの伝統ある「アン・デア・ウィーン劇場」のリニューアルオープン記念コンサートで、実演が非常に珍しいベートーヴェン《合唱幻想曲 Op.80》を演奏したり、我らが読売日本交響楽団のヨーロッパツアーに参加したりと、とても充実した日々を送った。その中でも今回は記憶に新しい、あの濃厚な1週間について詳しくお伝えしたい。
11月の初旬から中旬にかけて、私は大陸を跨いでコンサートを行う予定だった。カーネギーホールの主催公演に2度目の登場を果たすこととなったのだ。ベルリンからNYへ向かい、その後日本へという、大移動が控えている。もともとのスケジュールでは本番2日前にNYへ移動し、ゆったりと現地時間に体内時計を合わせて、丁寧に準備を整え公演に臨む。そして公演を終えた日の夜にNYを発ち、五嶋みどりさんと能登半島を回るチャリティー・コンサートを行うつもりだった。
しかし、10月中旬に一報が入った。マリア・ジョアン・ピリスが11月初旬のマーラー室内管弦楽団との出演をキャンセルするというのだ。そこで私に白羽の矢が立ったわけだが、私はこのオファーに大いに悩んだ。曲目こそ定期的に弾いてきたベートーヴェン《ピアノ協奏曲 第4番》だったものの、10月はすでに複数の協奏曲——チャイコフスキー《ピアノ協奏曲 第1番 Op.23》、サン=サーンス《ピアノ協奏曲 第2番 Op.22》、ベートーヴェン《合唱幻想曲 Op.80》——の演奏予定に加え、各地でのリサイタルも控えている。代役の分まで周到な準備と納得のいく仕上げができるのか一抹の不安を覚えた。さらにジャンプインはカーネギー公演の直前で、本番2日前のニューヨーク入りというゆとりある計画も潰える。そこにも少しフラストレーションを感じる。
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