ピアニスト・藤田真央エッセイ #63〈エベーヌ四重奏団との共演、テントでのリサイタル〉
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世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。
7月29日
昨日のアドヴェンチャーから一夜明け、朝の10時からエベーヌ四重奏団とのリハーサルが始まった。いつの日か共演してみたいと願っていた、世界屈指の四重奏団と演奏する機会に恵まれたのだ。もっとも我々日本人にとっては、この名門カルテットにチェリストの岡本侑也君が2024年1月に加入したニュースは喜ばしい。彼とは以前から親交があって何度か共演したこともあり、今回エベーヌメンバーとして顔をあわせるのはとても楽しみだった。
今回演奏するのはピアノ五重奏作品の王道、ドヴォルザーク《ピアノ五重奏曲 第2番 Op.81》だ。リハーサルが始まるなり、彼らが和音を奏でた時の圧倒的な調和に驚いた。音を重ね合わせた時のバランス、音色がピタリと整っている。常設カルテットならではの固有の響きを感じた。昨年ハーゲン四重奏団と共演した際にも感じた特別な感覚だ。加えて、エベーヌの音色はとても親密で温かみを感じる。
リハーサル後は、お気に入りスポット「ミルクバー」へ赴いてシェイクを嗜んだ。今年もおすすめはオレオミルクシェイク。一口飲むと濃厚なミルクの甘みとオレオの香りが口の中で交わり、すぐに幸せの境地へと連れていってくれる。大切なミルクシェイクをちびちびやっていると、隣の席にマーティン・エングストローム(ヴェルビエ音楽祭の創設者)の手記を持ったふくよかな男性がやってきた。彼は大きなアイスクリームサンデーを注文し、私と同様幸福そうにアイスを頬張っていた。アイスが一段落した彼は私を見つめ、「君はピアニストだよね?」と尋ねた。
明朝のエベーヌ四重奏団との公演も楽しみだと言い残して、爽やかに彼は席を立った。私もミルクシェイクが底をつきお会計に向かうと、なんということだろう「お隣の男性によって、支払いは済んでいます」と伝えられ唖然とした。まるで映画のワンシーンのようだ。ありがたい反面申し訳なさもあり、明日の公演は彼のために捧げようと決めた。
7月30日
ヴェルビエ恒例、午前中の公演は11時から始まる。この時間に本調子に持っていくのは、いささか厳しいものがあるが仕方ない。9時45分から始まったゲネプロでは、40分の大曲ドヴォルザーク《ピアノ五重奏曲 第2番》は全ては通せず、要所を確認し本番に臨むこととなった。
朝の教会のステージは熱気が籠り、蒸し暑い。私は普段あまり着ない薄手の白いシャツを装備し、滝に打たれたような汗だく姿になるのを免れようと試みた。
そんな条件下でも私たちの音は瑞々しかった。昨年共演したハーゲン四重奏団と同様、エベーヌにはエベーヌ独自の呼吸が存在する。その特質をすぐに察知し、ふさわしい音を作らなければならない。とりわけ創立メンバーである第一ヴァイオリンのピエール・コロンべと第二ヴァイオリンのガブリエル・ル・マガデュールのボーイングは鏡で映しているかのように一糸乱れずピタリと揃っている。弓の速度や返す位置も常に同じで、二人の音が美しく交わるのは目にも明らかだった。そして言わずもがな極上のバランス。カルテットの美しい調和に溶け込むよう、私は注意深く音を構築した。
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