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ピアニスト・藤田真央エッセイ #62〈幻となったカヴァコスとの共演〉

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7月28日

 今年のヴェルビエは特別、日差しがまぶしい。8時過ぎに目を覚ますと、カヴァコスとのリハーサルの録音を再び聴いた。今夜の公演のために、これほど入念に準備を行うのには理由がある。実のところ、カヴァコスとは2023年5月に初共演を果たす予定だったのだが、彼の体調不良により叶わなかった。共演の機会をその後1年以上も待ち遠しく思いながら過ごし、やっと今晩、念願のその時を迎える。もし今夜が彼との最後の共演になろうとも悔いのないよう、ギリギリまで録音を確認し、対策を練っているのだ。午前中は個人練習を朝10時から3時間ほど行った。

 今宵カヴァコスと演奏する作品は、モーツァルト《ヴァイオリン・ソナタ 第21番 KV304》、ブラームス《ヴァイオリン・ソナタ 第1番 Op.78》、バルトーク《ラプソディ 第1番》、シューベルト《幻想曲 D.934》の王道4曲。特にブラームスのソナタは私が彼から学びたいとリクエストした作品だった。

 私たちは13時半からゲネプロを始めた。モーツァルトの美しく繊細な音符たちが教会の隅々まで響き渡る。二日間の充実したリハーサルのお陰か、私たちの音楽の方向性は完全に一致していた。ブラームスでは彼の濃厚で深い音色にそぐうよう、低音を意識しながらハーモニーを築いていく。たった二日前に初めて音を合わせたコンビとは思えない、まるで何度も寄り添いあった経験があるような完成度の高い演奏だ。彼と過ごす全ての時間が尊く感じる。この音楽がいつまでも続けば良いのに……。だがそれも束の間だった。

 ゲネプロ開始から1時間半ほど経過し、私たちは超絶技巧を伴うバルトーク《ラプソディ第1番》を通していた。ヴァイオリンの非常にテクニカルな部分、右腕を高速で動かし、4弦を行き来する箇所で事は起こった。突然カヴァコスが悲鳴をあげ、演奏をストップしたではないか。右腕に激痛が走ったらしい。彼は苦悶の表情を浮かべ、不意に訪れた苦しみに驚きを隠せない。一旦休憩をとって様子を見ることにした。私たちは教会の椅子に腰をかけ、この時はまだジョークを交えながら談笑した。気持ちも体もやや落ち着いたところで、先ほどのバルトークにもう一度トライしてみる。だがしかし、彼の表情が晴れることはなく、演奏は再度中断せざるを得なかった。やはり、腕を上げる度に激痛が走るとのこと。

 不運にもこの日は日曜日だったので、クリニックやマッサージ店は大抵営業していない。ダメ元ながらスタッフが総出で電話をかけると、幸いにも受け入れてくれる病院が見つかった。彼は「少し休めば直に回復するだろう。今夜の公演にはきっと間に合うから大丈夫」と、楽器を片付けるなり病院へ飛んで行った。彼の言葉を誰もが信じていた。私も含めて。

 突然終了してしまったゲネプロに戸惑いながらも、ステージに取り残された私はバルトークの次に演奏するはずだったシューベルト《幻想曲》を1人で練習した。とぼとぼ自分のシャレーへと戻り、カヴァコスが無事であることを祈って、いつも通りお昼寝をした。

 本番30分前の19時、賑やかな着信音で私は昼寝から目覚めた。電話の主はカヴァコスだ。彼は申し訳なさそうな声で、病院では三日安静にすべきと診断されたこと、しかしどうしても私と一緒に弾きたいので軽く試奏してみたものの、まだ痛みが走ることを告げた。彼が「僕たち、とても良かったのに!」と悔しがるので、胸がぎゅっと締め付けられる。私は彼に「リハーサルで素晴らしい音楽ができたことは間違いないし、この三日間の経験は私の音楽に大きな学びを与えてくれた。本当にありがとう。あなたは誰もが待ち望む特別なアーティストだからここでリスクを取る必要はない、ゆっくり休んでほしい」と想いを伝えた。

 別れを惜しみながら電話を切ると、矢継ぎ早にプログラミングチームから電話があった。カヴァコスが出演できない代わりに、急遽ソロ・リサイタルに切り替えてほしいとの打診だ。だが8月2日にテントにてソロ・リサイタルの予定がある以上、同じプログラムを弾くことはできない。しかし幸運なことに、ヴェルビエに来る前の1ヶ月半の休暇中、9月から始まる新しいリサイタルプログラムの練習を行っていた。もちろんヴェルビエに到着してからは全く触っていない曲たちだが、暗譜も心配ないだろう。急ごしらえで、来年度のプログラムを今夜初披露することを決心した。

 さあ、公演まであと20分。まだシャレーで髪に寝癖をつけていたが、衣装やハンカチをかき集め、会場へと急ぐ。道中、どのような曲順にしようかと頭を巡らせながら歩いているとあっという間に教会へ到着した。バックステージは慌ただしいスタッフで一杯、皆不安な表情を浮かべ私の到着を待っていた。私はきっぱりと今夜のプログラムを伝え、楽屋に入り着替えた。

 急造プログラムは次の通り。

チャイコフスキー《18の小品 Op.72より第17番
シューマン《アラベスク Op.18
モーツァルト《ピアノ・ソナタ 第13番 KV333
ベートーヴェン《創作主題による32の変奏曲 WoO.80
矢代秋雄《ピアノのための24の前奏曲より第1番、第3番、第4番、第7番、第9番、第15番、第16番、第18番、第20番》
スクリャービン《幻想曲 Op.28
リスト《巡礼の年 第2年「イタリア」よりペトラルカのソネット 第104番
リスト《巡礼の年 第2年「イタリア」よりダンテを読んで―ソナタ風幻想曲―

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