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渡辺優さん、最新ミステリーが登場! 「死に至らぬ病」〈前編〉

S女子大薬学部の学生たちが向かった山奥の元「研究施設」。
ウイルス流出事故で閉鎖になったと噂のその場所で、謎の体調不良を訴えるメンバーが……
『私雨邸の殺人に関する各人の視点』も話題になった渡辺優さんの最新ミステリ―を前後編でお届けします!
[後編:2023年9月22日(金)公開]

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死に至らぬ病
〈前編〉

 ほしさんのめまいがすべての始まりだった。
 もちろん、そのときは誰もそんなことに気づいてはいなかった。ただ、そこに集まった全員の頭に一瞬はよぎったのではないかと思う。あの噂について。
「なんでもないよ」
 星野さんは言った。
「ちょっとくらっと来ただけ。なんだろ、疲れたのかな。ほら……うん、もう平気。そんな心配しないで」
 たっぷり五分は床にしゃがみこんでいた星野さんがようやく立ち上がり、集まっていた皆に笑顔を向けた。
「もしかしたら、ウワサのウイルスに感染したのかもしれないけど」
 冗談好きの彼女がそんなことを言うので、皆が笑った。それで、彼女が取り落としたお皿が割れる音がリビングルームに響いてから張りつめていた空気がようやくゆるんだ。心配そうな顔で星野さんに寄り添っていたまちさんも、ほっとしたように息をついた。
「もう……。片付けは私がやるから、あんたはそっち座ってなさい」
「いや、大丈夫、私がやるよ。怒られちゃうかな、備え付けのお皿割っちゃって」
「いいから。今日の料理当番は私でしょ。片付けも当番の仕事よ」
「あー……それじゃ、お言葉に甘えて」
 星野さんはやや不安定な足取りで、リビングルーム中央のテーブルに着いた。田町さんとペアで料理当番をしていた私も、黙ってそれに続いた。皆の箸を運んでいる途中だった萌々ももさんが、さっと駆け寄って田町さんを手伝う。
「大丈夫ですかあ?」
 先にテーブルに着いていたりんさんが間延びした声でたずねた。
「うん。ごめんね、びっくりさせちゃって。心配した?」
「いや、別に……」
「まあ、ウワサのウイルスだったら私たち皆、全滅だから。他人の心配なんてしてる余裕ないか」
「はあ」
 同じ冗談を繰り返す星野さんに、果凜さんは気のない声を返した。そこで、トイレに行っていたさんが戻ってきた。皆の様子を見て、「どうかしたんですか?」とたずねる。
「星野先輩が倒れちゃって」
 果凜さんが大げさに肩をすくめてみせた。星野さんは笑いながら、なんでもないってばと手を振った。
「みんな揃ったね」
 片付けを終えた田町さんが戻ってきて皆を見渡した。
「じゃあ、食べましょうか」
 そうして私たち、S女子大学薬学部あやゼミの、合宿初日の夕食が始まった。
 四年生の星野さんに田町さん。三年生の萌々香さん、果凜さん、志保さん、そして私、西にしまな。六人が着いたテーブルの上には、先ほど私と田町さんが作ったカレーライスとサラダが載っている。「初日はカレーというのが綾瀬ゼミの習わしなの」と田町さんは言った。学部の四年生である彼女と星野さんは、昨年もこの合宿に参加している。郊外にあるキャンプ場からさらに車で二十分ほど山奥に入った、この「元α製薬開発管理センター」での合宿に。
「なんか、不思議な感じがしません? こういう場所でカレー食べてるのって」
 小さな一口をほおばりながら、リビングルームを見渡して萌々香さんが言った。
 白い壁。リノリウムの無機質な床。壁と同じく白い天井にはすべての辺に照明が埋め込まれていて、十数畳ほどの部屋を煌々こうこうと照らしている。萌々香さんの発言の意図がわからず、私は首をかしげた。「こういう場所?」
「あ、うん。なんていうか、どこも真っ白でぴかぴかで、いかにも研究所って感じじゃない? そういう場所でこういう、普段からなじみのある温かいものを食べてるのが不思議っていうか……あ、カレー、すごくおいしいです」
 萌々香さんは料理当番の私たちを気遣うように慌てて付け足した。「ほんとおいしいです」と、志保さんがそれに続いた。「でも、萌々香ちゃんの言うこともちょっとわかるな。こういう施設って、薬品とかコーヒーとかの匂いがするイメージだよね」
 二人の言葉を聞いて、田町さんが笑った。
「研究者だってコーヒーだけで生きてけるわけじゃないから。ここにいたひとたちだってきっとカレーも食べてたよ」
「でも、私たちも去年初めてここに来たときはちょっと緊張したよね。山奥の研究施設なんて、ほんといかにもって感じだもの」
「そうね。綾瀬先生も気に入るわけだ」
 綾瀬ゼミ学部生の毎年恒例の合宿は、綾瀬教授の意向により毎回この元センターの合宿施設で行われている。なんのことはない、ゼミに入ったばかりの三年生をメインにした、親睦のための合宿。皆で寝食を共にしつつ各々が個人の課題をこなす、二泊三日の行程だ。
「でも、わざわざこんなネットもつながらない場所でやる必要なくないですか? 三日もスマホが使えないなんて、私すでに無理なんですけど」
 果凜さんがため息をつき、テーブルの上に載せたスマホに目をやった。ネット環境もなく電波も届かないこの場所では、カメラや時計、メモ帳としてしか使い道がないだろう。
「だからこそでしょ。私たちだっていつかへきの研究所に勤めることになるかもしれないんだから。予行演習ってやつよ」
 田町さんが気軽な調子でそう言った。
「いや、研究所にネット環境がないなんてありえないですって。ここだって現役で使われてたときは普通に繫がってたでしょ」
「まあそうだろうけどさあ」と星野さんが口をはさむ。「でも、せっかくこういうなんにもない場所なんだから、外界のあれこれなんてすっかり遮断しちゃったほうが気分も上がらない? 今時探したってなかなかないよ、スマホ離れができる場所」
「いや、普通につらいですって」
 星野さんはテーブルに頰杖をついて「もう、果凜ちゃんは現代っ子なんだから」とため息をもらした。
「あの、このあたりって本当になんにもないんですか?」萌々香さんがたずねる。「せっかくだから、明日はセンターの周りをお散歩でもしたいなって思ってたんですけど」
「うーん。見て楽しいものはなかったよね」
 田町さんが答えた。
「私たちも去年ぐるっと歩いてみたんだけど。ここに来るまでの舗装された山道以外は整備もなにもされてない山だから、気軽にお散歩できるような場所もないし。きれいな川や高原なんかは下のキャンプ場まで下りないと」
「そっかあ……残念です」
 うつむいた萌々香さんに「センターの中をお散歩しようよ」と志保さんが声をかけた。
「実際に使われていた研究施設で寝泊まりできるなんて、すごくわくわくする。私たちが使ってる部屋も、研究員のひとの宿泊施設だったんですよね?」
「そうだよ」田町さんが答える。「ああ、志保ちゃんは本気で研究職志望なんだっけ」
「はい。だから今日、すごく楽しみにしてて」
「着いてすぐ実験棟のぞいてたもんね。真面目だなあ。真面目っていうかオタク?」
 果凜さんの軽口に、志保さんは「オタクだっていいでしょ」と唇をとがらせてみせる。
「ちょっと待って。実験棟ってどっちの?」
 田町さんが鋭い声を出した。「え?」と志保さんは一瞬うろたえ、けれどすぐに「ああ、Aラボって表示のほうです。大丈夫、鍵がかかってないほうですよ」と答えた。
「そっか、ならよかった」
 息をついた田町さんに、果凜さんが小さく笑みを向けた。
「じゃあもしかして、Bラボのほうがウワサの? でも、あんな話本気にしてるんですか? 田町先輩って意外に……ピュアなんですね」
「違うったら」
 田町さんはかすかに眉間にしわを寄せ否定した。
 ウワサ。
 ここに来るまで、星野さんが運転する車の中でもそのウワサは語られた。しかし当然、今更語られるまでもなく綾瀬ゼミの誰もがこのセンターにまつわるウワサを知っていた。ゼミに入って最初の懇親会の席で、綾瀬教授が直々にその詳細を皆に語って聞かせたから。
「あの話は綾瀬教授のお気に入りだから」
 田町さんはなんでもないような口ぶりで言った。
 センターは敷地内に実験棟二棟と居住棟が立った、ごくシンプルな造りになっている。今は合宿施設となっている居住棟には、個室が八つに、カンファレンスルームが二つ、キッチンと続きのリビングルームに、シャワー室とトイレがある。二棟ある実験棟は、実験室や培養室、機械室やクリーンルームがそれぞれしつらえられている独立型のラボ——だった。
「コンパクトだが無駄のない、当時最新鋭の設備が揃った施設だった、っていうのが、綾瀬教授の解説ね。でも、それならどうしてこの辺境の地に建つ素晴らしい環境の施設は閉鎖されてしまったのか」
 田町さんは教授の口調を真似るようにしてその問を口にする。綾瀬教授は威厳とユーモアと、少し奇抜なファッションセンスと面倒見の良さで皆に慕われる六十代後半の女性で、私たちは星野さんと綾瀬教授が運転する車に分乗してこの山奥までやって来た。教授も合宿に参加するのが毎年の恒例だったらしいが、今回はどうしても外せない予定ができてしまったとかで、施設の簡単な案内だけ済ませると降り出した雨の中を自身のボルボでひとり引き返していった。
 なぜ施設は閉鎖されたのか。
 私も志保さん同様に、ここに着いてすぐに施錠されていないA棟のラボをちらりと覗いた。機械類や実験機器の類はすべて取り除かれ、がらんとしただだっぴろい白い床がむき出しに広がっていた。
「……流出事故」
 ぽつりとつぶやくと、皆の視線が私に集まった。
 新薬試験中にサンプルの中から発現した、新種のウイルス。潜伏期間がごく短く、感染力が強く、致死性を持ったウイルスが、ラボのひとつから流出した。
 研究員への感染が広がり、複数人の死者が出た。母体企業はその事実を隠ぺいした。
 それが綾瀬教授の語った、このセンターが閉鎖されるに至った理由。ウイルスの発生したラボのひとつは、今でも厳重に封鎖され、血や吐物の跡を隠している。当時研究所には教授の教え子がひとり入所していたが、センターの急な閉鎖と同時期に連絡が取れなくなったという。「彼女もきっと感染したのね」と、教授はどこまで本気なのかなんともわかりづらい温度の声で語った。「どこかの病院に収容されているか、そうじゃなかったらもう……」と。
「え、もしかして西ちゃんも信じちゃってるわけ? 新種のウイルスの流出事故なんて、そんな海外ドラマみたいな話」
「……いいえ、信じてない」
「でも、先生の教え子がここに入所していたっていうのは本当みたいだよ。別の先輩から聞いたけど」
 私と果凜さんのやりとりに異を唱えるように、萌々香さんが言った。
「ああ、オッケー、萌々香がピュアなのは知ってるから。田町先輩と同じね」
「ちょっと、私だって信じてないってば」
 田町さんはあきれたように言う。
「センター閉鎖の理由は母体企業の経営不振。そんなの教授だってもちろんわかってるの。ただ、これから研究職を志す学生に聞かせるには夢のない話でしょ。だからあんな作り話を広めてるのよ」
「でも……なんでわざわざそんな話を? ウイルス事故が夢のある話ですか?」
 納得のいかない顔の萌々香さんがたずねる。
「危機意識を持てってことね。人命に関わる分野を学ぶ学生に、いい教訓になるでしょ」
「うっかりミスをしたら新種のウイルスに感染して死にますよってことですね」
 果凜さんが肩をすくめた。
「そう。ただBラボにはね、運び出しきれてない備品や試薬を集めて保管しているそうよ。それなりに高価な精密機器なんかもあるから、興味があっても入ったりしないでねって、去年参加したとき先輩から言われているの。それだけ」
 そこで、センターのウワサに関する会話は途切れた。皆、素晴らしく美味しくもなければ取り立てて不味くもないカレーを口に運びながら、ぽつぽつと雑談に興じた。
 田町さんと星野さんは学年だけでなくクラスも同じで仲が良い。星野さんと果凜さん、志保さんは同じ合唱サークルに所属していて、果凜さんと萌々香さんは同じクラス。皆、綾瀬ゼミ以外にもなにかしらの繫がりがあって、和気あいあいと話も弾む。私だけが、ゼミ以外になにも繫がりを持たない。
 やがて夕食はお開きになった。
 星野さんはカレーを三分の一ほど残した。
「大丈夫?」とたずねた田町さんに、彼女は「食欲がちょっとね」と答え、曖昧に笑った。
 順番を決めたシャワーを待つ間、私は自分に割り当てられた個室に戻って荷物を開き、処方されているタクロリムスを飲んだ。

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