渡辺優さん「死に至らぬ病」〈後編〉をお届けします!
死に至らぬ病
〈後編〉
歩くにはちょうどいい気候だった。
昨日降った雨はすっかり上がり、そこここに咲く紫色の花が雨粒をきらめかせている。木々のざわめきが波のように押し寄せ木漏れ日を揺らす。大小の鳥の軽やかな歌声を耳が拾う。しかし予想していた通り、すぐに疲れが出始めた。
スマホで時間を見ると、センターを出てからまだ一時間ほどしか経過していなかった。それでも、一時間だ。今の私には十分に長すぎる距離を、雨のぬかるみの残る中を歩いた。汗をかき、息切れもしている。しかし未だ、スマホの電波は入らない。
引き返そうか、という思いが頭にちらつき始めていた。自ら立候補し出発したにしてはあきらめが早すぎるとは思ったけれど、体力以上にモチベーションの低下が激しかった。
さっきまでは私にも、未知のウイルスの脅威について早く下界に知らせたほうがいいという使命感のようなものが多少はあった。しかし今こうしてセンターを離れてみると、それはやはり少々非現実的な考えだったのではと思い始めた。
教授の語っていた、未知のウイルスの流出事故は本当にあった出来事だった?
ラボに残っていたウイルスがこのタイミングで活性化し皆が感染した?
それはなんだか……現実味の乏しい話に思える。
でも、皆が次々と体調を崩し倒れているのは事実。
しかしそれなら……どうして私は平気なんだ?
その疑問がどうしても湧いて出た。まだ発症していないだけなのかもしれない。あるいはたまたま抗体を持っていたのかもしれない。けれど……そうすんなりと納得できない理由が私にはあった。だって私は、昨夜もちゃんと処方された薬を飲んだのだ。
ペースが落ちていることを自覚しながら、さらに歩いた。正午を回ったところで、パンを食べて水を飲んだ。そして引き返すことを決めた。歩けば歩くほど帰路が遠くなるという事実にうんざりしたので。
ゆるやかに続く登り坂を、下りた時よりもさらに時間をかけてのろのろと歩き、再びセンターが視界に入ったときにはもう空は茜色に暮れかけていた。重い扉を押し開け、広々としたエントランスでスリッパに履き替えようと靴を脱ぐ。疲れからか足元がふらつき、五足きれいに並べられた他のひとの外靴を蹴ってしまった。そこで、ひとつの外靴——ピンク色のスニーカーのソールが、今山道を歩いてきた私の靴と同様に、泥で汚れていることに気が付いた。誰か外に出たのか?
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