伊岡瞬「追跡」#003
6 火災二日目 葵(承前)
〈先生、何をなさってるんです——〉
電話の向こうで、新発田信のものとは違う声が聞こえた。
通話口から少し離れていて聞き取りづらいが、葵にはそれが誰の声かすぐにわかった。新発田の私設秘書、加地由伸だ。
がさごそと、もみあうような音が聞こえる。加地が受話器を取り上げようとしているらしい。
〈おやめください〉加地が冷静に、きっぱりとした口調で諫める。
〈しかし、こいつが——〉という、新発田の声が聞こえたが、尻すぼみになった。加地が取り上げたらしい。
加地は秘書といっても、政治家としての表舞台——たとえば、街頭演説の場や講演会場——などには顔を見せない。公にできないような汚れ仕事もこなす裏方だ。葵も二度ほど会ったことがある。年齢不詳だが、おそらく五十代の前半だろう。
そもそも、新発田から仕事がまわってきたのは、この加地を介してだ。もちろん、立場は新発田のほうが上だが、細かい実務は加地の裁量に任されていると情報を得ている。
〈もしもし〉
加地の声が明瞭になった。
「用件が終わったなら切るよ」
〈三十秒で掛け直します〉
「十五秒」
わかったとも言わずにいきなり切れた。新発田に聞こえない場所へ移動しているのだろう。
十四秒で、加地のスマートフォンから着信した。
「はい」
〈先生は〝オプション〟のことを知りません。その前提でご対処ください〉
「めんどくさいな。だったら、掛けさせるなよ。なんでこっちの番号を知ってるんだよ」
〈その点は失態でした。中途半端に情報を漏らす輩がいて——。おそらく秘書のだれかでしょう〉
「あんたも嫌われものってことか。まあ、こっちには関係ない。切る。じゃあな」
〈あ、少々お待ちを〉
加地の声はあくまで平坦で、興奮も憤りも感じられない。
「まだ何か」
〈『雛』は無事ですか〉
「もちろん」
〈どこへ連れていこうというんです。当初の〝オプション〟の予定と違いますね〉
「安全な場所」
〈わたしには教えておいて欲しかったですね。というより、今教えてください〉
「概ね予定通りに運んでいる。細部をいちいち説明する気はない」
〈あまり言いたくありませんが、依頼主はこちらです〉
「さっき、あのじいさんにも言ったけど、切り札はこちらが持っている。いつ、どこでその札を切るかは、こちらの考えひとつだ」
〈そんなことをして、今後に響きませんか〉
「仕事の受注のことを言ってるなら、心配はご無用。今までずっとこのやりかたでやってきた。それでも断り切れないぐらい依頼が来る」
電話口から息の漏れる音が聞こえたが、ため息だったのか鼻で笑ったのかは、判断できない。
〈わかりました。〝細部〟はおまかせしますが、せめて着手直後にでも教えていただくことはできませんか〉
「漏れてるんだよ」
〈と言いますと?〉
「こっちの動きがさ、向こうに漏れてるんだよ。さっきあんたも言ったろ。そっちの中に裏切りものがいるぞ。誰も信じられないんで、みんなの知らないところへかくまう」
〈念のためにうかがいますが、わたしも疑われていますか〉
「筆頭だ」
また息が漏れた。笑っているようだ。
〈失礼ながら『組合』の中にいるのでは?〉
「知ってるかもしれないが、一応伝えておく。『組合』の掟は二つだ。一つ、ほかのユニットの邪魔はしない。二つ、だが助けを求められれば可能な限り応じる。いずれも、その手段が合法か非合法かは問わない。掟を破れば追放になる。それは業界においては死を意味する」
加地は〈なるほど〉と答えた。それでも要求を口にした。
〈こちらも、その掟に口出しする気はありません。ただ、かすり傷ひとつつけないでください。『雛』に万一のことがあれば、あなたの命ぐらいでは償えない〉
「いまさら安っぽい脅しはいらない。そんときゃあんたも道連れだ」
返事を聞かずに切った。
7 火災二日目 樋口
「なんの話だったか訊かないんですか」
アオイは、小さな公園脇の路肩に車を停め、十分ほど誰かと電話をして戻った。シートに身を滑らせるなり、樋口にそう訊いてきた。
「一兵卒が、指揮官にあれこれ質問するのは規律に反しますから」
樋口の答えに、アオイは「ふん」と鼻先で笑った。
「一番近いインターから高速に乗ります」
「引き続き西へ?」
アオイは無言でうなずき、先を続ける。
「作戦は予定どおり。アジトにわたしとほか二名で突入。一名は正面で待機」
訊き返すまでもなく「一名」というのは樋口のことだ。控え要員だ。
「その『アジト』というのは戸建て住宅ですか」
アオイはまたしても無言でうなずき、車を発進させた。
「ちょっと聞いていいですか」
樋口の問いにアオイはただ小さくうなずく。ひと言しゃべるごとにギャラを削られる特約でも結んでいるのかもしれない。
「そのアジトに関する情報はどこから? あるいは誰から?」
「ノーコメント」
「上は、たとえばカラスは知っていたんでしょうか」
「ごく最近」
「わたしは聞いていません。まあ、肝心なことを言わない体質は、今に始まったことじゃないですが」
「漏れたことが漏れたら、失敗ですから」
「たしかに、わたしは口が軽いとよく言われます」
またしても無言だ。
「そういえば、もっと肝心なことを聞いていません。実行犯は独立系の連中だと聞いています。例の『組合』じゃないかと。ご存じで?」
「断言はできません」
「『組合』と対峙したことは?」
「あります」
「手ごわかったですか」
「かなり」
「彼らは、今回どこまでやる覚悟でしょう」
「やるとすれば、どこまでも」
「ということは、我々は分が悪いな」
また無言の返答。これ以上話しても収穫はなさそうだ。
「近くなったら起こしてください」
樋口はシートをやや倒し、腕を組んで目を閉じた。
話がうますぎる。いや、すらすらと流れすぎる。それは、樋口にとって、あるいは『I』にとって都合がいいとか悪いとかではない。裏に複雑な事情があって、双方が拮抗した力を持っているような案件の場合、将棋でいえば「千日手」のように行き詰ることが多い。
それが今回は、多少波風が立っているとはいえ、淀みなく進んでいる。なんとなく、誰かが書いた筋書きを演じている、もっと言うなら手のひらの上で踊らされているような感覚だ。
だとすれば、それはカラスなどではなく、はるかに上の人間の手だろう。敵にしろ味方にしろ。
このまま連中のアジトを襲撃して、それですんなり終わるとは思えない。
今までこの世界に身を置いてきた人間としての勘がそう告げている。政治家や〝裏側〟の人間がかかわると、そして彼ら自身やその身内が絡む事件であればなおさら、一筋縄ではいかない。時に死人が出る。
しかし、そんなケースでも、変死体が転がることはほとんどない。たいてい、永遠に行方不明のままであったり、疑いようのない自殺であったりする。今回のように無理心中を偽装したり、放火したりという手口は邪道で目立ちすぎる。褒められたものではない。
本当に『組合』が絡んでいるとすれば、新人にやらせたのだろうか。
あるいは、樋口にも想像できない事情があったのかもしれない。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!