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伊岡瞬「追跡」#007(最終回)

住宅街の放火殺人事件から始まった、裏切り裏切られのコンゲーム。三つ巴の「雛」争奪戦はついにクライマックスへ

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24 火災二日目 アオイ(承前)

『中央自動車道』小淵沢ICインターチエンジ出口まで五百メートルの標識を過ぎた。いよいよだ。
〈いたらどうする〉
 ハンドルを握るリョウが、片手で短く訊いた。
 どうする、とは「〝やつら〟が出口で待ち伏せしていたら」という意味だ。〝やつら〟が数人の精鋭部隊なのか、一個大隊なのか、そこまでわからない。少なくとも、ぐちと間抜けな刑事の三人組のほかに、もう一グループ加わったことはわかっている。
 ほんの十五分ほど前に『組合』に、大金——難度の高い〝仕事〟一回分のギャラ相当——を振り込んで得た情報では、少しやっかいな追手が加わったらしい。のドラ息子じゆんが、こともあろうに『ドロップ』の『シズマ』に依頼したという。
 ドロップとはつまり「ドロップアウト」の略で、『組合』を離れていった連中のことだ。ドロップする理由は極端に二つに分かれる。
 一つは、目的のためには合法違法を問わず手段を選ばない『組合』の、「組織に傷をつけない限り社会的道義性より金銭を優先する」という体質に耐えられない、いってみれば職人気質の悪党だ。
 もう一つは、その『組合』の中でさえほかのメンバーと折り合いがつかないはぐれ者、知性的な魔物とでも呼ぶべき危険な連中だ。
『シズマ』は後者だ。『組合』時代も「歩く凶器」と呼ばれていた。
 しかし、こちらにもリョウがいる。少なくとも素手に近い戦いでリョウが負けたという話を聞いたことがない。
 この情報を得た直後に、『シズマ』参入のことはリョウに伝えた。リョウは小さくうなずいただけだった。その目に不安も憎しみもない。
 正直にいえば、アオイにも二人の力の差はわからない。その場の状況や時の運次第ではないかと思っている。ライオンと虎のどちらが強いと一概にいえないのに似ている。
〈突破する〉
 リョウの〈どうする〉の問いに、アオイは短く応じた。
 ほかに答えようがない。高速道路の料金所はいわばボトルネックだ。獲物を捕獲するのにこれほど適した場所はない。しかし、ここまで来て予定を変えたり、まして断念するつもりはない。
 リョウもそれをわかった上で訊いたのだ。小さくうなずいてウインカーを出し、流出路へと進入していく。
 シズマとはわずか二度しか会ったことはないが、待ち伏せするにしても「こんな場所ではない」という気がしていた。
 やつは知性的な魔物で、そして美学を持っている。

 予想したとおり、ランプの途中に障害物が置いてあるようなこともなく、料金所のカメラに捕捉されて警報が鳴り響くこともなく、あっけないほど簡単に縞模様のバーが跳ね上がった。
 少し前にわたるのトイレも済ませた。立て籠もりになったときのために、航用の豆乳も買った。ゴールはもう少しだ。
 ところが、バーの横を潜り抜けた瞬間、左手の管理施設の駐車場から一台の車が急発進してきた。
 うるさいハエどもだ。
 シルバーのマークXが行く手をふさぐ。屋根で赤いランプが回転している。覆面PCパトカーだ。少し手前のPAパーキングエリアで〝接触〟し、航を奪い返した相手だ。しようりもなくついてきた。いつ追い抜いたのかと思うが、おそらく緊急車両特権で飛ばしてきたのだろう。航のトイレでSAサービスエリアに立ち寄った隙に抜かれたのかもしれない。
 とつに対応を考える。闘うか逃げるか。
 後部シートを振り返る。航は目のすぐ下あたりまでタオルケットを持ち上げて寝ている。
 腹をくくった。目的地までついてこられるのも面倒だ。『シズマ』たちが待ち伏せしている可能性も充分にある。こいつらはここで始末をつけよう。幸い、ほかに応援組はいないようだ。
〈わたしがやる。あなたは彼を見てて〉
 指を素早く動かしてリョウに伝え、ドアを開け、アスファルトに降り立った。
 向こうの車も後部席のドアが開き、男が一人降りた。あと二名、運転席と助手席にも人影は見えるが降りそうな気配はない。
 ぎりぎりの間合いをとって対峙する。
「置いてけぼりはひどいですよ」
 樋口が口元だけで愛想笑いをした。あまり笑わない男のはずだ。
「お仲間を呼びなよ」覆面PCの車内を顎で指す。「さっきはロートルだと思って手加減、いや正直にいえば油断した。今度は礼をつくして本気でいく」
 樋口の口元から、申し訳程度の笑みが消えた。
「本気でお手合わせ願いたいのは、わたしも同感です。あちこちからコケにされて少々虫の居所が悪いもので。しかし、それは今に始まったことではないし、何より任務があります。わたしの数少ない売りは、任務を必ず果たすことです」
「もし『雛』のことを言っているなら、渡さない」
 後方で静かにドアの開く音が聞こえた。覆面PCのあほ面の二人の目がそちらに動いた。リョウが降りたのだろう。
〈待てと言ったのに〉
 振り返ってリョウに告げた。しかし、刑事が違法なテーザー銃を使うという想定外の攻撃を受けたにせよ、「油断」の借りを返したい思いはリョウも同じかもしれない。
「じゃあ、いつでもいいよ。それとも、こっちから行く?」
 樋口の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。笑うでもなく怒るでもなく、怖れるでもなく蔑むでもなく。ただ、道端の石でも見るかのようにこちらを見ていた。

25 火災一週間前 葵

「おさん」
 ベッド脇のパイプ椅子に座ったまま、あおいは可能なかぎり静かに声をかけた。うっすら目を開けたおお西にしが、ゆっくりと顔をこちらに向けたからだ。
 葵はぎこちない笑顔を作った。病人には優しくするものだとリョウに教わった。
「起こしちゃったかな」
 慣れない言葉遣いをして不自然な発音になった葵の問いかけに対し、和佳奈はごく自然な、しかし力のない笑みを浮かべ、顔をかすかに左右に振った。
「ずっと、半分起きて半分寝ているみたいなものだから」
 それにしても皮肉なものだと、葵の胸に苦い思いが浮かぶ。和佳奈のことだ。
 確執のあった義父のいなまさあきとほとんど時を同じくして、まったく同じような処置を受けながら、同じようにこうしてベッドに横たわっている。いや皮肉というなら、注入している薬剤まで同じであることだ。
 ただ、向こうは都心に構えた屋敷の、特別にいい部屋で何不自由ない時間を過ごしているのに対し、こちらは歩いていける距離にコンビニすらない土地に建つ、クリーニング業者が入ったとはいえ、築数十年を経て年季の入った別荘の一室に一人で寝ている。
 さらに向こうは完全看護体制のうえ、使用人を通して今でも世の中の何分の一かを動かしている。一方こちらは、住み込みの元看護師が一人付き添っているだけだ。
 ただ、窓からの眺めだけは、こちらが勝っているだろう。
「今、何時ごろ?」和佳奈が、喉に痰がからんだような声で訊く。
「朝の七時を少し過ぎたところ」
「悪いんだけど、カーテンを開けてみてくれる?」
 葵は遮光一級の濃紺のカーテンが引かれた出窓を見た。
「わかった。でもレースは引いておくね。もうこの時刻だと日差しがかなりきついから」
 和佳奈は小さく「ありがとう」と答えた。
 葵は立ち上がり、簡素な医療器具のスタンドを避けてほぼ東に向いた出窓の遮光カーテンを開けた。
 とたんに、レースのカーテン越しに真夏の朝の光が差し込む。
「きれいね」
 薄いレース生地越しにではあるものの、夏の朝日を浴びた濃い森と、その向こうにそびえる八ヶ岳連峰の一部が見える。
 この別荘はなだらかな斜面途中の、見晴らしのよい小高い位置に建っている。立ち上がって窓際へ寄れば、驚くほど近い山並みはもとより、ふもとを走る道路や街の灯りの一部まで望めるのだが、終末医療期に入っている和佳奈には無理な望みだ。
 立ったまま窓際の壁に背を預け、葵が話題を変える。
「あのじいさんが、なかなかしぶとくてね」
 和佳奈が小さく首を左右に振る。「そんな言い方はしないで」という意味だろう。
 しかし葵はやめない。
「お義姉さんもなんとかここに落ち着いて、そろそろ実行かと思ったら、あのじいさんが最後に残った燃料をそこら中にぶちまけて、たいまつに火をつけやがった。しかも、そのたいまつを持ってるのがあのよぼよぼの手だから、政界は大騒ぎになっちまった。航君には、前にも言った『Ⅰ』っていう組織から護衛を派遣してもらって、少なくとも二人は常時ぴたりとついてる。じいさんの差配だ。これは計算外だった」
 言葉遣いが普段に戻ってしまった。
「無理はしないで」
 しかし、葵には和佳奈のその言葉が本心ではないことがよくわかっている。残された時間が少ないことは、和佳奈自身が一番知っているだろう。何を犠牲にしても航に会いたいはずだ。
「心配しないで。必ず連れてくるから。約束する。それより、今さらだけどお義姉さんにもう少し東京寄りに居てもらったら、会えるチャンスが増えたと思う」
「東京は疲れるから。——あまりいい思い出もないし」
 和佳奈が何かを思い出すように語り、葵もうなずく。
「そうね。それに——」
 その先は言い淀んだ。自分としたことが、まさに「今さら」の話題を口にしてしまったと悔いる。リョウとも相談し、都内に潜んだのでは計画遂行が難しいと判断した結果なのだ。何より都心は監視網が厳しい。『組合』や『Ⅰ』の情報収集力なら、最近空き家を借りた人間のリストなど、あっというまに入手できてしまう。
 それに、警察にしろ『組合』にしろ『I』にしろ、アオイやリョウの顔は常時カメラで捉えているはずだ。
 しかし、さすがにこのあたりまで捜査範囲を広げるのは無理なはずだ。仮に見つけたとしても、こんな場所に『雛』の親鳥が潜んでいるとは考えもしないだろう。便の悪い場所だからこその有利さがある。
 和佳奈が窓に目を向けてゆっくりと語る。
「それに、ここは空気が綺麗だし、静かで、夜も部屋のライトを落としてあのカーテンを開けてもらうと、星空がプラネタリウムみたいに見える。満月なんて、まぶしいぐらいに明るいの」
「それはよかった。わたしには星を眺めるとかそういう趣味がない。この物件は相棒が選んだ」
「ロマンチックなかたね」
「こんど会ったら伝えておく」
 リョウのいかつい仏頂面を思いだし苦笑する葵のほうへ、和佳奈は点滴の管が刺さった腕を伸ばした。
「それに、ここはあの人と最初に二人きりで過ごした場所に似ている」
「あの人」とは、和佳奈の別れた夫で航の父親、今は亡き因幡ひろのぶのことだ。つまり、和佳奈は航の産みの母ということになる。
 和佳奈のことは、二人が結婚する以前、宏伸に紹介を受けた。当時はまだ将明が元気で、今ほど葵の存在を肯定していなかったから、屋敷の外で会った。
 自分は因幡将明が愛人に産ませた子であると名乗った。つまり、宏伸の母親違いの妹であると。
 和佳奈は少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐににっこりと笑って「妹が欲しかったの」と言った。
 それ以来「お義姉さん」と呼んでいる。心を開く数少ない人間だ。

 和佳奈が視線を天井に向け、過去の映像を見るようにゆっくり口にした。
「みんなに内緒でこっそり行った旅行だったけど、ここによく似た雰囲気の場所で、やっぱり星が降るように綺麗だった。あんまり長いとはいえないあの人との関係だったけど、あの夜が一番幸せだったかもしれない」
「あらあ、ごちそうさまです」葵はあえておどけた口調で言い、和佳奈の目尻を滅菌ガーゼでぬぐった。
「——ごめんなさいね。宏伸さんとの旅行と比べたら、食事も部屋の豪華さも段違いでしょ」
 ううん、と今の和佳奈にしては強い口調で否定し、葵の目をしっかりと見た。
「とても感謝しています。——だから、無理しないで。最後に航に会いたい気持ちは変わらないけど、あの人が知ったらどんな妨害をするかわからない。危険は冒さないで」
「わかった」とうなずいた。これ以上問答しても意味はない。ただ、葵には物心ついたころから変わらない主義があった。
 やると決めたことはやる。
 それに、この騒動は因幡将明が一人で始めたのではない気がしている。
 将明が「航が成人するまで葵を後見人とする」と関係者に洩らしてから、妙な潮の流れになった。
 将明以外の思惑も働いている。そう考えているが、もちろん、そんなややこしい話を和佳奈にはしない。

 葵が和佳奈の病状を知ったのは、今年の三月末、東京都に桜の開花宣言が出されたころだった。
 葵はもとから属している『組合』とは別に『Ⅰ』の非常勤メンバーとしても登録、活動していた。もちろん、どちらの組織にもその事実を申告した上でだ。
 そもそも『組合』は「組合本体ないしほかのメンバーに迷惑をかけずに任務を遂行するならほかのことには一切口出ししない」という主義であったし、『Ⅰ』は「重大な法令違反を犯さず、かつ任務を完遂する」という方針を守ればそれでよしとされた。どちらの組織も「任務遂行」が最大の目的であり、個人的な事情には干渉しなかった。
 つまり、その気になれば——そしてその才能があれば、誰でも葵のように「かけもち」が可能だった。
 ときに、その成否が国家の屋台骨を揺るがしかねない重圧がかかる任務を成し遂げられる人間など、限られている。多少のことには目をつぶり、有能なメンバーを持ち駒として確保することが優先された結果だろう。
 ただ、リョウは『Ⅰ』を好いていないようだった。もともと警察や自衛隊を辞めた高官が立ち上げた組織、という官僚臭さが鼻についたのかもしれない。短い付き合いだが、あの、ほとんど無駄口をきかない樋口という男も、「カラス」と名付けた上司の悪口だけは口にしていた。
 葵が和佳奈の現況を探るよう指示を受けたのは、その樋口の嫌いな上司「カラス」とは別人だが、同じ程度に冷酷な幹部からだった。
 和佳奈を一定期間〝失踪〟させる、などという特殊な任務ではなかった。単に現在の環境、接触のある人間の洗い出し、思想、信条、生活パターンなどの調査だ。もちろん、アオイが和佳奈の義妹にあたると知っての上だ。警察は事件関係者の身内であれば捜査から外すと聞いたが、ああいう組織は別だ。利用できるコネクションは利用する。
 この調査は、今にして思えば将明が己の死期を悟って、亡きあとに和佳奈が良からぬ人間や組織と手を組んで航を取り戻しにかかるのではないかと恐れた結果だろう。
 和佳奈は神戸市にある実家に戻っていた。そして、病をわずらっていた。病名は「がん」だ。
 この二年ほどほとんど連絡をとっていなかった。宏伸の葬儀にも和佳奈は呼ばれなかったので、電話で話しただけだった。
 和佳奈は一年半前に肝臓癌がみつかり手術をしたが、寛解と呼べるには至らず、再発した。肺と胃に転移し、二度の手術に踏み切った。葵が神戸まで和佳奈を訪ねていったのはその二度目の手術後、二か月ほど経ってからであった。
 組織からは、和佳奈には接触せずに調査報告をすませるよう指示されていた。したがって、この病状をそのまま伝えてやった。将明も安心したようだった。
 しかし、任務の終了後はアオイから葵に戻った。介護仕様のハイヤーから両親宅へ運び込まれる和佳奈の姿を見たからだ。以前会ったときとは別人のように痩せて、生気がないことに衝撃を受けた。
 在宅時を狙って訪問し、応対した両親に正直に名乗った。和佳奈本人が希望して、部屋に通された。
「寝たままでごめんなさい」
 元は和室だったところを床だけ補強してベッドを置いたようだった。掃き出し窓が南側の庭に面した居心地のよさそうな部屋だ。掃除がゆきとどき、寝具や和佳奈の部屋着なども清潔感に満ちていたが、死の影がうっすらと漂っているのを葵は感じた。
 事実、これ以上の手術や薬物療法はせずに、終末医療——いわゆる「在宅ホスピス」の道を選ぶつもりだという。
 噂で病気を患っていると聞いたので見舞いに来た。そんなふうに説明すると、和佳奈は疑った様子もなかった。
 二人に共通の知人といえば、因幡一家ぐらいしかいない。
 話題はほとんど航のことになった。葵は、実は航とまだ直接会ったことがないと告白した。将明が葵のような人間との接触を嫌ったからだ。
「ほんとうに可愛い子なの」
 和佳奈は、最初のうちこそ笑顔で航の思い出を語っていたが、こらえきれなくなったのか、せきを切ったように涙と思いをあふれ出させた。
「死ぬ前に、ひと目でいいからあの子に会いたい。そしてもう一度抱きしめたい」
 その訴えを聞いて、葵の心は決まった。計画の大筋を立て、具体的なあたりをつけるのに丸一日で足りた。
 和佳奈を「在宅ホスピス」状態のまま、東京圏に移住させるのだ。末期患者の自宅看護の概要は、因幡将明を見てわかっている。あそこまで大掛かりでなくていい。一週間、いや二週間だけ安全に過ごせる環境を作ってやればいい。それだけあれば、葵が航を連れ出し、再会させる自信があった。
 問題なのは場所の選定だ。当初、都内を考えた。病院の数も、医療関係者の数も多い。交通の便はいい。そしてなにより因幡邸に近い。
 しかし、近くに移るということは、みつかりやすくなる、ということでもある。何より、あのごみごみとした街中に一週間も潜んでいたら、病状が悪化してしまうのではないか。そう訴えるリョウの勧めもあって、この土地に決まった。
 中央自動車道を使えば、都心からでも二時間ほどで着く。東京から中部圏、近畿圏という大都市部へ直接向かうルートではないので、チェックも甘くなるはずだ、などの理由を挙げた。
 具体的に選んだここは、小淵沢ICから北東方向へ数キロと近く、八ヶ岳連峰に抱かれるような場所で、星空観測が有名な空気の澄んだ土地だ。ペンションやロッジなども程よい間隔で点在する。葵はあまり詳しくないが、かつてペンションブームの際に一世をふうした清里も近いから、環境はいいのだろう。
 この別荘自体はそれほど念入りに選んだわけではなかった。
 あまりに人里離れた場所よりも、多少人家があるほうがよいと思った。目立たないし、ライフラインが確保されている可能性が高い。大掛かりな手入れをせずにすぐに住める。
 小淵沢ICを降りて、しばらく北東方向へ進む。五キロほど進んで、大きな《ペンション村》の看板を目印に左折する。そこから二キロほどで、森の中にペンションやコテージなどが点在する一画に出る。目的の別荘は、その少し手前をさらに右へ折れた土地に建っている。
 賑やか過ぎず寂びれてはおらず、電気、水道、ガスは通じていて、必要最低限の街灯も立っている。背後は雑木林の斜面で、家の前を細い道路が一本通るのみ。その道も、数百メートル先で、今では当時の面影もなく荒れ果てた牧場の跡地に突き当たって、行き止まりになる。
 ひと目みて気に入った。即金で購入した。
 名義はもちろん葵自身ではない。『組合』が、本人死亡の戸籍を入手しさらにロンダリングしたものを、高額で転売してもらった別人格だ。こんなときのために持っている。
 最終候補地の相談で再度面会に行ったとき、和佳奈がポロリと漏らした。
「お話を聞いただけで、夜空が目の前に広がったよう」
 難問のひとつである付添人は、これも高額のマージンを払って『組合』から紹介してもらった。看護資格を持つ『元組合員』だ。人にダメージを与える立場から救う立場に変わったが、アオイと同じプロであることが会ってすぐにわかり、安心してまかせた。
 必要な機材や薬品類は、将明のところへ通っている医者に、これもまた少なからぬ代金を支払って、一式揃えてもらった。将明の部屋にあるような、医用テレメータシステムなどの精密機器は必要ない。二週間ほど持ちこたえる薬剤や栄養剤などと、点滴用の器具などだ。
 移動する日は和佳奈の両親も付き添ったが、さすがに和佳奈の過去の事情を知っているので、あれこれ細かいことを訊くことなく神戸に戻っていった。
 いよいよ航をなんとか連れ出して、面会——という段階まできたときに、将明が往生際の馬鹿騒ぎを始めた。新発田たちの反攻を恐れて、航の両親を装った男女のガードを二交代でつけている。セキュリティの厳しい私立小学校までの通学も、ドアツードアで車を使う。さすがの葵も手を焼いた。
 そこで一計を案じ、武蔵境にある『Ⅰ』のアジトに移すことを将明に提案した。「家の構造も警備体制もばれているこの屋敷に置くのは危険だ」という適当な理由をつけて脅した。賭けではあったが、往時の聡明さを失い、疑心暗鬼を生ずる状態の将明は簡単に乗ってきた。
 こちらの一軒家は、アジトとはいえ元は民家だ。セキュリティも甘い。今の屋敷から連れ出すよりまだチャンスがある。陽動作戦でもたてて、護衛の目を逸らした隙に連れ出す。連れ出してから「少し預かる」とだけ連絡を入れ、一日程度で連れ戻せば大きな騒ぎにはならない。
 そう踏んでいたのだが、どこからか情報が漏れた。
 漏れる口は限られている。誰が漏らしたのかすぐに思い当たったが、そいつの始末は後回しだ。そもそも、情報が漏れたことがわかったのは、こちらに通じた〝エス〟からだ。その情報によれば、新発田側の依頼を受けた『ドロップ』の連中が、強引に航を奪いに行く、というのだ。
 こういった作戦は情報量の多いほうが優位だが、最後はやはり実行部隊の能力が決め手となる。

                 26 火災当日 アオイ

 リョウと二人で武蔵境のアジトに駆け付けたときには、ほとんど、、、、終わっていた。
 リーダー格の『ドロップ』とその一味たちが、護衛役である三人の『Ⅰ』のメンバーを殺し、一家心中に見せかけて火を放ったところだった。雑な仕事だが、今回はおおまかな舞台設定さえできていればいい。警察の上層部には新発田の息がかかった連中がうようよいる。細かい矛盾など無視して、捜査方針もどうとでもできる。
 だが、アオイたちにとっても航にとっても、三つの幸運があった。
 一つは、さっさと連れ去らず、放火などの小細工をしていたおかげで、アオイたちが連れ去れるぎりぎりに間にあったことだ。不意をつかれた一味から航を奪い返すことができた。
 二つ目は航の聡明さだ。アオイは航と初対面だったが、勘の鋭い航はアオイたちを救出する人間と察して、抵抗することなく素直に指示に従った。
 最後の三つ目がもっとも大きい成功要因だと思っているが、その場にシズマがいなかったことだ。子供嫌いのシズマは、作戦は成功したとみて、さっさとその場を離れてしまったのだ。
 いればどうなっていたかわからない。

27 火災二日目 アオイ

 樋口たちと別れ、一気に目的地を目指す。
 最終的な細い田舎道は二股に分かれるが、その先はどちらも行き止まりになっている。住人か住人に用のある人間しか通らない。和佳奈をかくまった別荘はこの道沿いにある。
「今夜も星がたくさん見える」
 車のウインドウ越しに空を見上げアオイが小声で漏らすと、聞こえないはずのリョウがうなずいたように見えた。だから、つけ加えた。
「まだ、星を見ているといいけど」

 道路と表玄関のあいだにある、砂利敷きのスペースに車を停めた。
 裏手の雑木林の斜面には、灯りもない。人がすれ違うのにも難儀しそうな、細い階段状のみちが上の道路まで繫がっている。
 アオイは運転席に座ったまま半身だけ振り返って、後部シートのタオルケットをそっとかけ直した。視線を前方に向け、腹式呼吸でゆっくりと息を吐く。
 いる。あいつはここにいる——。
 直前に身に着けたベストのベルトを締め直した。いくつかの小道具が入って、気休め程度の防刃仕様になっている。
〈いくよ〉
 リョウに合図し、ドアをそっと開けた。リョウも同じように助手席側のドアを開ける。
 靴の下で砂利が鳴った。二人とも車のすぐ脇に立ち、周囲を見回す。アオイがピピッと電子音を鳴らし、車のドアをロックした。
 目で合図し、ゆっくりと建物に向かって歩きだす。
「こんばんはー」
 そのとき、背中から人を食ったような声がかかった。
 振り向かなくともわかる。新発田まことの馬鹿息子、淳也だ。
「垣根はないけど」そう言いながらゆっくり振り返った。「道路のこっち側はうちの敷地だから。入らないでもらい——」
 そこで言葉が止まった。
 もちろん淳也一人でないことはわかっていた。そのあたりの薄暗がりに隠れていたのだろう。若い男たちが、手に手にバットだの金属製のパイプだのを持ち、にやにや笑いながら出てきた。素早くチェックを入れる。淳也を含めて十人だ。意外に少ない。裏手にも何人か回したのかもしれない。
 だが、人数はあまり大きな問題ではない。問題なのは、淳也の脇に立って、にこりともせずにこちらを見ている背の高い男一人だ。
 アオイはその男に向かって声をかけた。
「お久しぶり。シズマさん」
 シズマもうなずいて答えた。
「あちこちと忙しそうだな。お二人で」
 視線をアオイからリョウへ動かし、にやりと笑う。
「そっちこそ、餌をくれるなら誰でもいいの?」
 自分のことを言われたのだと気づかないらしい淳也が、気楽な声を上げた。
「ええと、アオイさんだっけ? 遅いじゃない。まさか先に着いちゃうとは思わないからさ。退屈してたよ」
 くちゃくちゃとガムを嚙みながら話すこの若造が、今回の大騒動の遠因を作った一人だ。しかし、そのおかげでいろいろと事態は動いた。こうして、航を母親と再会させる機会を作ることもできた。
「でさ、本題なんだけど、『雛』とかいうそのガキを、おとなしく渡してもらえないかなあ」
 反応せずその目を見返す。口を鳴らしながら淳也が続ける。
「そしたら、痛いことはしない。そのあとのお楽しみも我慢しちゃう。アオイさんみたいなタイプ、意外に好みなんだけど。普段恐い顔してる女ほど、あの時には激しく別人になるっていうしさ。——どう? さっさとガキを渡してそっちも試してみる?」
 アオイは今すぐにぶちのめしたくなるのを、どうにか堪えた。いつのまにか隣に立っているリョウが足を踏んだからだ。
 深呼吸しながら、車を振り返った。街灯からはやや離れているが、後部シートに黒っぽい小さな盛り上がりが、ぼんやりと見える。
「こんなやつに飼われて、自分が情けなくない?」
 アオイは再度シズマに問いかけたが、蠟人形のように無反応だった。
 痺れを切らしたらしい淳也が、芝居がかった大声を上げた。
「いいか。三つ数え……」
「断る」
 もとから交渉するつもりなどない。
 映画の主人公にでもなったつもりだったらしい淳也が、目をいて、口を半開きにした。
 そのときだ。
「ぐだぐだ、めんどくせえんだよ。くそが」
 取り巻いていた連中の一人がそう大声を上げ、車に向かって走った。どうやら『ドロップ』はシズマ一人のようだ。シズマを雇うのに大金を使ってしまい、あとはそこらのはみ出しものを安く雇ったのだろう。これで勝算が出てきた。
 駆け寄る男は、手にしたバールを振り上げている。窓ガラスを割るつもりだろう。この車は『組合』ルートで足がつかないように買ったというだけで、特別仕様車ではない。防弾ガラスになどなっていない。
 しかし男は車まで行きつく前に、もんどりを打って転がった。本人は何が起きたのかわからないだろうが、リョウが素早く投げた石が頭に当たったのだ。
 それを合図にほとんど全員が動いた。
 口々に何か叫びながら向かってくる。動きがないのは淳也とシズマだけだ。
「おらあ」
 アオイに向かってきた最初の一人が、大きく振り上げたパイプを振り下ろす前に、その股間を蹴り上げた。男は喉から言葉にならない声を出し、パイプを放りだして倒れた。蹴られた場所を押さえて海老のように背を丸めのたうちまわっている。
 アオイはシズマの姿を視界の隅に捉えながら、ベルトから抜いた特殊警棒を伸ばした。
「手加減しない」
 アオイがそう言い終えると同時に、上下白いジャージの男が、右手をさっと横に振った。わずかなところを見切ってかわした。伸ばした手の先に匕首あいくちが鈍く光っている。使い慣れているようだ。この連中の中ではやり手かもしれない。
 刹那に、リョウの様子を確認する。すでに二人転がり、先ほど石を当てた男が立ち上がろうとするところに、蹴りを入れた。
 匕首のジャージと対峙する隙を狙って、背後から襲ってくる気配がした。確認する暇はない。身をかがめながら警棒を横に払う。グレーのスエットパンツの膝を直撃した。殴られた男はぐえっというような声を出して転がった。しばらく松葉杖が必要だろう。
 顔めがけて突き出された匕首を、ぎりぎりのところでかわした。すかさず胸元を薙ぐ。防刃仕様のはずのベストがぱっくりと切れた。ジャージの男が楽しそうに笑った。
「次は顔だ」
 アオイは切られたところを指でなぞった。
「まがいものね。『組合』に言って返金してもらわないと」
 言い終えるなりいきなりバク転した。
 何が起きたのかとあっけにとられている男の足もとにすべり込み、今度は股間に拳を突き上げた。
 身をかがめる男の手から匕首を奪い取り、藪のほうへ放り投げた。
 リョウを見る。すでに四人の戦闘意欲を削いでいる。アオイは三人、これで計七人。
 シズマともう一人の戦闘員は視界にいる。しかし——。
 淳也がいない。
 車に視線を走らせたとき、淳也がバールを振り上げて窓ガラスを割ろうとしているところだった。アオイはベストからスローイングナイフを抜き、素早く投げた。腕を狙ったつもりだったが、狙いがはずれて胸に刺さった。大胸筋に斜めに入ったから、致命傷どころかたいした傷ではないはずだ。
「痛てっ」
 淳也は大げさに叫んでから刺さったナイフに気づき、腰を抜かしたように地べたに座り込んだ。
「ひいっ。さ、刺さってる」
 油断したつもりはなかったが、淳也の情けない声を聞いて隙が生じたのかもしれない。気づいたときには、気配もなく近づいたシズマの拳がアオイの視界に入っていた。よける間もなく顎でそれを受けた。
 意識が遠のく寸前に、パトカーのサイレンを聞いたような気がした。

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