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伊岡瞬「追跡」#002

東京都武蔵野市で発生した火災。〝父親とその息子夫婦〟と見られる遺体が発見されたが、彼らは赤の他人であることが判明する。混迷を極めるなか、次第にこの〝事件〟の真の姿が露わに――。

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3 火災一年前

 いなまさあきが書斎で朝食前の読書をしていると、スマートフォンに着信があった。
 午前六時五分前だ。将明は読みかけの本を机に伏せ、スピーカーモードで繫いだ。
「何か」
 昨夜から宿直当番だった、筆頭秘書のが報告する。
〈お忙しいところ申し訳ありません。ふくむら様からお電話が入っております〉
 福村といえば、三人いる内閣官房副長官のひとりだ。官房長官のしろでないということは、その程度の案件ということだろう。しかしその一方で、どうでもいい話でかけてくるにはまだ少し時刻が早いことが気になった。短く応じる。
「繫いでくれ」
 はい、という返答のあと、ほとんど間を置かずに切り替わった。
〈もしもし、も……〉
「因幡です」
〈あ、朝早くから恐縮です〉
 福村のその声を聞いた瞬間、疲労感が満ちた。半日ほどのエネルギーを消費した気分だ。
 なぜなら、日頃は東証の平均株価が千円近く暴落しても「まいりましたなあ」とのんにかまえている福村の声が、いつになく慌てている印象だからだ。
 何かよくないことがあったようだ。田代官房長官が電話してこないのは、話題が軽いからではなく重すぎるからだと考えれば、その先は聞きたくない。
「何かありましたか」
〈じつは、申し上げにくいのですが―〉
 自分から電話をしておきながら、こういう無駄なことを言うやからには腹が立つのだが、今は堪えた。
「どうぞ。続けて」
〈ご子息のひろのぶさんが事故を起こされました。交通事故です〉
 ここまでのやり取りで、すでにそれは予測していた。したがって驚きはなく、ただ「きたか」と思った。
「状況は?」
〈緊急搬送されましたが、現在、心肺停止の状態とのことです〉
 続けて福村は、病院名を告げ「お見舞いに行かれますか」と訊いた。
「見舞いに行って会えるものなのか」
〈はい。お時間がわかれば、誰か行かせて緊急搬送口の受付で待機させます〉
「そうじゃなくて、ICUに入っているんじゃないのかと訊いてる」
〈まだ第一報を受けたばかりで、詳しくは存じません。ただ、お見舞いに見えるなら、そのように手配する、と報告を受けています〉
「わかった。一時間以内に行く」
〈承知しました。ではそのように手配させます〉それで終わるかと思ったが、福村はさらに言いにくそうに続けた。〈じつは、少々困ったこともありまして。いえ、たいしたことではないのですが〉
「早く言ってくれないか」
 しだいにイライラしてきた。もしかすると、福村の歯切れが悪いのは、事故そのものよりも、これから言うことに理由があるのかもしれない。
〈はい。宏伸さんは飲酒運転をしていた可能性がある、という報告が来ています〉
「飲酒? 治療もしないでそんなことを調べたのか」
〈さあ、そのあたりのこともわたしは承知していませんが、検査するまでもなく、臭っていたそうです。救急隊員がかけつけたとき、強くアルコールの臭いがしていたと。しかし、ご安心ください。警察は……〉
 ひとつ気になることが浮かび、福村の言葉を遮った。
「同乗者は?」
〈それが、おりまして——〉
「さっさと言え」
〈はい。女が乗っていたらしいです。詳細はわかっておりません〉
「どこの誰だかぐらいわかるだろう」
〈それが、まだ報告が——〉
「わかった。一時間後に行く」
 まだ何か話していたが、遮断した。
 物には当たらない——。
 それが因幡将明の信条だった。
 どのような重大事態を招いた原因であろうと、意志を持たない物品に罪はない。たとえば道を塞いで交通の妨げになっている岩があるなら、破砕して除去すればいい。おまえのせいで予定が台無しだぞと、岩を蹴ってみても自分の足が痛いだけで何の意味もない。
 物に八つ当たりしない―。
 今、その禁を数十年ぶりに破った。
 福村官房副長官との会話を終えたばかりのスマートフォンを、壁に向かって力任せに投げた。
 端末は狙いすましたように、オーク材のサイドボードの上に載っていたラリック社製の花瓶に当たり、砕けて花があたりに散った。
 そのまま、一分ほどかけて気を静めた。過呼吸になりかけていた肺の動きが、ほとんど平常に戻った。
 今の福村の口調では、宏伸はもうだめだろう。
 身を切られるより胸が痛いが、嘆いてみても事態は何も変わらない。
 振り返れば、綱渡りというより、延々と続く白刃の上を高下駄を履いて駆け抜けるような人生だった。
 もちろん、基本的におのれの才能でしのいできたという自負はある。しかし、口に出したことはないが、〝運〟が味方してくれたことも認めている。十字路にいつも信号機があるとは限らない。かといって、いちいち立ち止まって安全確認などしていたら、人より先には進めない。
 月すらなき夜に、街灯も信号もない交差点を勢いだけで走り抜けるようなことを何度もしてきた。そのたびに事故も起こさず、起こしてもほとんどかすり傷程度でこの地へたどり着けたことは、やはり自力だけでは無理だったろうと、今は素直に考える。
 しかし、その〝運〟にも総量があるようだ。そろそろ使い切る時期がきたのかもしれない。

 スマートフォンが使えなくなったので、机に載ったインターフォンのボタンを押す。
〈はい。井出です〉
「宏伸が事故を起こしたらしい。心肺停止だそうだ。念のため心づもりしておいてくれ」
 普段冷静な井出が〈えっ〉と言ったあと、めずらしく短く沈黙した。
「一応は見舞いに行く」
〈はい。ご入院先は?〉
 入院先の病院名を告げた。
「すぐに支度をしてくれ」
〈承知いたしました〉
 会話が終わりそうな雰囲気になったが、秘書のほうから先に切ることはありえないので、あえてゆっくりと続ける。
「それから、やはり念のため、あれに連絡がつくようにしておいてくれ」
 井出が「あれ」が誰を指すのか理解するのに、一秒もかからなかった。
〈承知いたしました〉
「よろしく頼む」
 こんどは静かに終了のボタンを押した。

4 火災二日目

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