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透明ランナー│『わたしは最悪。』――何者にもなれずもがく30歳のリアル

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 こんにちは。あなたの代わりに観てくる透明ランナーです。
 7月1日(金)に公開されるやいなや大きな話題を呼び、平日でも多くの回で満席となってミニシアターを沸かせている映画があります。ノルウェーからやってきた『わたしは最悪。』(2021年、ヨアキム・トリアー監督)です。

 主人公は30歳の女性ユリヤ。医学部で学んでいたものの突然心理学、そして写真家へと転向しますが、節目の年齢を迎えてもまだ自分の方向性がはっきりと定まりません。彼女はひとまわり年上でグラフィック・ノベル作家として成功するアクセルと交際しています。40代のアクセルはそろそろ家庭を築きたいとやや焦り気味ですが、人生模索中のユリヤは自分が母親になる姿を想像できず、曖昧な態度を取り続けます。そんなある夜、招待されていないパーティーに紛れ込んだユリヤは若いカフェ店員のアイヴィンと出会います。どちらにも恋人がいたものの一目で惹かれ合うユリヤとアイヴィン。彼女がとったある行動から物語は動き始めます――。

 高学歴で未婚の30歳女性というある意味インターネット界隈と相性のいい(?)テーマであるため、ブログやTwitterでは自身の経験に引き付けた感想や作品に対する鋭い指摘を数多く読むことができます。また全52頁オールカラーの公式パンフレットは、インタビュー、コラム、人物相関図、ロケ地マップなど充実しており、これを読めば大体のことは知ることができます[1]。ですので感想や考察はこれらに譲り、内容に関するレビューはしません。そのかわり私は少し違う角度からこの映画を見ていきたいと思います。

 それは「描かれたこと」と「描かれなかったこと」です。映画には「描かなくてもいいのにあえて描かれたこと」、逆に「描くのが自然であるはずなのにあえて描かれなかったこと」があり、それこそが豊穣な効果を生み出します。こういったことは何気なく観ていてはなかなか気付かないものです。本作が5作目のタッグとなるトリアーと共同脚本のエスキル・フォクトは、この映画にさまざまな「描かれたこと」「描かれなかったこと」を仕掛けていました。


オスロ3部作

 私がかつて2010年代のベスト映画を挙げる記事を書いた際、どうしても入れたくて1本だけ日本未公開映画を取り上げました。海外からDVDを取り寄せて何度も繰り返し観るほど大好きな映画。それがトリアーの2本目の長編『オスロ、8月31日』(2011年)です[2]。長編デビュー作の『リプライズ』[3]、2本目の『オスロ、8月31日』、そして10年の時を経て作られた『わたしは最悪。』はいずれもオスロが舞台となっており、「オスロ3部作(オスロ・トリロジー)」と呼ばれています[4]。前2作はトリアー自身を投影したとも言われる男性が主人公でしたが、本作は30歳の女性ユリヤが主人公となっています[5]。
 『オスロ、8月31日』は2作目とは思えない完成された脚本、主人公の不安を描く絶妙な演出、音楽や光の使い方などどれも完璧と言うしかなく、私は強い衝撃を受けました。そのような強烈な作品を世に送り出したトリアーとフォクトが生半可な脚本づくりや演出をしてくるはずがありません。

ナレーション

 2022年の第94回アカデミー賞においてトリアーとフォクトは脚本賞にノミネートされました。非英語映画がノミネートされるのは『パラサイト 半地下の家族』『ROMA/ローマ』などごくわずかで、それだけ英語圏の人々にとっても高く評価されたことになります。この映画の脚本には普通とは違う一筋縄ではいかない大きな仕掛けがふたつ用意されています。ひとつは後ほど紹介する独特の章立て構成、もうひとつは第三者視点のナレーションです。

 序盤から中盤にかけて第三者によるナレーションで状況説明が行われ、小気味好いテンポで物語が進んでいきます。登場人物の考えや感情を含めて劇中世界で起こる全てを知っている視点を「Third Person Omniscient Point of View」(三人称全知視点)といい、小説では普通のことですが映画ではめったに見ることはありません[6]。この「神の視点」によるナレーション、女性の声ではありますがユリヤの声ではなく、「10年後のユリヤが過去を振り返っている」というような解釈を採ることはできません。

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