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朝倉かすみ「よむよむかたる」#002

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2 いつかの手紙

 スッ。会長が腕時計へと視線を下げた。それで場が静まった。なぜなら、スッ。会員たちがいっせいに構えに入ったからだった。これすなわち読書会の構えとでもいうもので、まずみんなの背筋がちょっぴり伸びた。それからテーブルに置いたおのおのの課題本に手がのった。シミが浮きでて、皺ばんだ皮がつまめるほど余る手の甲がきれいに並ぶ。その手で表紙をなでたりさすったり、またはページをめくったり閉じたりするうち、つぼめたくちびるがモグモグと動きだす。音読の練習か、これだけは言わなくっちゃと心づもりしていることを頭のなかで復習さらっているにちがいない。

 おみごと。安田松生まつおはテーブルの下で音を立てずに拍手した。先ほどまでの騒がしさが噓のようだ。

「ハイ、ではそろそろ」

 会長が声を発した。オッケーヒアウィゴー的な颯爽たる空気を醸し出して一同を見わたし、会員たちと目を合わせていく。まちゃえさん、シンちゃん、蝶ネクタイ。ひとりずつ見交わし、しっかりとうなずき合ってから反対側に視線を振る。シルバニア、マンマときて、最後は安田だ。

 あの人たちみたいにうなずこうか、それとも「外部の人」っぽい会釈でいこうか——。直前まで安田はうっすら迷っていたのだが、気づくとコックリうなずいていた。しかもちょっとやる気ありそうな顔までつくって。会長の真剣なまなざしに釣られた模様だ。会員一同の、いかにも微笑ましげな視線が集まり、「いやー」となんとなく頭を搔く安田。ちいさな笑い声や、「照れてる、照れてる」とささやきが聞こえてきて、しょうことなしにうつむく安田。それでいながら、早くもめっちゃ馴染んでるし、と胸のうちで一応突っ込んでおく安田だった。会長が話している。今日もいい声だ。すごくよく通る。からだの深いところから押し出され、真っ直ぐ進む感じである。元アナウンサーだけあって呼吸法からして一般人とはちがうようだ。

「エット、今日はですネ、三時までは通常のアレで、そのあと、例のですネ、エットー、我が坂の途中で本を読む会のネ、二十周年事業について、まーだいたい四時まで話し合う、ト、このようなタイムスケジュールでやっていきたいと思います」

 きりりと表情を引き締めた会員たちの「ハイ」が響く。どの「ハイ」も低声で、ひじょうに真面目だった。

 四月第一金曜午後一時。坂の途中で本を読む会の例会が、こうして始まった。安田が来てから二回目の読む会だった。会長がメガネを小鼻までずり下げ、裸眼でもって用意してきたペーパーを読みあげる。

「エー読む本は今月から『だれも知らない小さな国』です。作者は佐藤さとるさん。昭和三年生まれだそうですから、まちゃえさんのふたつ上ですか」

「アレェ、じゃー、佐藤さんは辰だねぇ」

 あたしがホレ午だからさぁ、とまちゃえさんがホッホッホと笑った。ふくよかな肩、胸、腹がたっぷりと揺れる。まちゃえさんはグレーの柔らかそうなニットを着ていた。北海道の四月は、まだそんなにちゃんと「春」ではない。雪は残っているし、朝晩は冷えるし、どんなに陽気がよくても日陰は寒い。昨年、埼玉から越してきた安田はこちらの春の遅さに驚いた。いや、むしろ冬の長さか。

「ならあたしとヒト回りちがいだ!」

 マンマが声を張った。こちらもニットだ。黒のキラキラニット。でっかいピエロのブローチを付けている。

「だとしたら佐藤さんは渥美清と同い歳だよ、あたしはデヴィ夫人とおんなじだけど」

 と、つづけるやいなや各自それぞれ同い歳の有名人を申告しだした。名前がでるたびにどよめきが起こり、そして「アレッ、その人、死んだんだったかい?」と存命か否か確認された。定かでない場合が多かったが、「調べましょうか」と安田が携帯を持ちあげると、「いやいやいや」とみんなして頭と手をブンブン振った。「なんもそんなことまでしなくっていいって」、「やっくんは親切だねぇ」、「好青年ですので」と口々に言い立てた。ちょっと話題にしてみただけで、どうしても知りたい情報ではないらしい。
「そういうやっくんさんはどなたと?」

 蝶ネクタイが安田に訊ねた。今日は金に近い黄色の蝶ネクタイを着けている。ワイン色のベストに紺のジャケット、チノパン。実のところ蝶ネクタイはかなりシュッとしている。穏やかな人柄ながら明敏さも備えているのに、なんとなし残念な印象になるのは、腰の低さからくる小物感と、著しいっ歯のせいで口を閉じても義歯の前歯がチラッと覗くからか、と思いながら安田が応じる。

「あ、ぼくは」

 大谷翔平とか羽生結弦の世代ですね、と、もし話を振られたらこう答えようとひそかに決めていた名前を口にしようとしたら、会長が咳払いをした。

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