見出し画像

ピアニスト・藤田真央エッセイ #55〈ホフマンとシューマン――小説から生まれた音楽〉

#54へ / #1へ戻る / TOPページへ

『指先から旅をする』が書籍化しました!
世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。

 ドイツに拠点を移して早2年。これまで世界各国での旅の模様をお伝えしてきたが、その合間にしっかりと大学へも通っていた。演奏旅行を終えて大きなキャリーケースを引きながら大学へ直行したり、レッスンを受けたその足で公演に向かったりすることもしばしば。このように授業に出席できる日は必ず出席し、また時折教授に善処して頂いたお陰で、なんとか単位を揃えることができた。そして遂に今春、ハンス・アイスラー音楽大学の大学院を修了したことをここに報告したい。

 通常2年(4ゼメスター)で卒業できるところを、私は7ゼメスター、3年半在籍したため、その間学生としての恩恵をたっぷりと享受した。ベルリン・フィルのチケットは15ユーロ、ベルリン国立歌劇場の観劇は半額、ベルリン地区の公共交通機関は乗り放題——なんて学生に優しい国だろう。おかげでドイツでの学生生活を満喫できたし、おまけに今私の胸には大学院修了の称号がある。もし読者の中でWikipediaの藤田真央の項を編集できる方がいたら、“ハンス・アイスラー音楽大学大学院修了”と書き加えて頂けないだろうか。

 さて、これにて私の勉学は終了。ではなく、続いて同大学のKonzertexamen(国家演奏家資格取得コース)に進学することに決めた。これは修士課程を優秀な成績で卒業した者のみが出願できるコースだが、無論特別扱いなどはなく、私も1月の猛烈な寒風の中、石造りの冷たいキャンパスで入学試験を受けた。課題曲は、

 ①バロック作品
 ②古典派作品
 ③ロマン派作品
 ④近現代作品
 ⑤1970年以降に書かれた作品

だ。私はそれぞれ、

 ①パッヘルベル《アポロンの六弦琴よりアリア・セバルディーナ》
 ②モーツァルト《ロンド KV.511》
 ③ショパン《ポロネーズ 第5番 Op.44》
 ④プロコフィエフ《ピアノ・ソナタ第1番》
 ⑤自作の《パガニーニの主題による変奏曲》

でエントリーした。

 ⑤のように自作品を試験曲に選ぶ試みは決してアバンギャルドなことではない。たとえばセルゲイ・プロコフィエフは22歳の時、サンクトペテルブルク音楽院の卒業試験で自作の《ピアノ協奏曲第1番》を演奏している。当時の音楽院の規定では出版済みの作品であることが必須だったため、プロコフィエフは出版社に自ら交渉し、どうにか20部の楽譜を出版したらしい。結果、彼はこの試験で一番の成績を収め卒業したというエピソードを、私はとても気に入っている。ちなみに拙作《パガニーニの主題による変奏曲》は2016年高校3年生の時に作曲したため、もちろん「1970年以降」の規定をクリアしている。

 噂に聞いていた厳粛な試験とは無縁の和やかな雰囲気の中、無事に2回の実技試験と面接を終えた。結果、打楽器専攻の学生と私の2名が狭き門をくぐり抜け、合格通知を頂くことができた。
 こうして、2024年4月からは晴れてKonzertexamen在籍の学生としてキリル・ゲルシュタインのもとで学びを続けている。

 さて、すっかり通い慣れたハンス・アイスラー音大には二つの校舎がある。私が足繁く通う方のキャンパスが位置するのは、ベルリンの中でもひときわ小洒落た通りだ。東京であれば、青山や表参道をイメージして欲しい。

 都会的な街並みの一角に、キリル曰く”ベルリンで最も美味しいコーヒー店”や、高級チョコレート店、そして画廊が立ち並んでいる。その中で独特の個性を放ってそびえているのが、老舗ドイツ料理店”Lutter & Wegner”だ。

ここから先は

1,838字 / 1画像

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!