白石直人|ロシアとウクライナの歴史を紐解く
ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。ロシア政府の内部からは、ウクライナの主権を否定するような主張も漏れ聞こえてくる(※1)。こうした主張は現代の国際社会においては全く受け入れられるものではないが、しかしそうした発想が生じる背景を見ておくことは、ロシア政府やロシア国民の行動を理解するうえで有意義なものであろう。実際、ウクライナとロシア、その周辺を巡る歴史はなかなか複雑なものである。
◆ロシア通史
ロシアの通史を知るための本として、ジョン・チャノン、ロバート・ハドソン・著『ロシア 地図で読む世界の歴史』(外川継男監修、桃井緑美子訳/河出書房新社)と土肥恒之・著『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地』(講談社)の二冊を挙げておこう。前者のチャノン―ハドソン書の最大の特徴は地図を豊富に用いている点である。「ロシア」の領域は歴史の中で大きく変化しており、その事実は現在ロシアが引き起こしている様々な国境問題や国内の分離問題などにもつながっている。本書はそうした変遷を視覚的に把握できるようにしてくれている。図版メインの本だが、各章の最初6ページほどでそれぞれの時代の簡潔なまとめが書かれており、文章の説明もなかなか詳しい。
後者の土肥書は、16世紀末から20世紀初頭にかけてのロマノフ王朝の時代を中心に書いている本だが、ロマノフ王朝の前史(キエフ=ルーシから雷帝イヴァン四世などまで)と後史(ソ連)の話もコンパクトに書かれており、通史としても使うことができる。モスクワやサンクトペテルブルクなどの中央の話だけでなく、ロシアの植民地の状況などにも目配りがされている。「興亡の世界史」シリーズは、かなりエッジの効いた本も多い(※2)が、本書は穏当な通史に仕上がっている。
ロシアの辿ってきた歴史を簡単にまとめておこう。現代の問題にまでつながる一つの重要な事実は、通常語られるロシアの歴史の出発点にキエフ=ルーシが置かれるという点である。キエフ=ルーシは、9世紀から13世紀にかけて、現在のウクライナの首都キエフを中心に栄えていた国である。現在のロシアと区別するために「キエフ=ルーシ」と慣例的に呼んでいるが、当時はただ「ルーシ」と呼ばれていた。西暦1000年頃には、キエフ=ルーシはヨーロッパ最大の連邦であった一方、当時のモスクワはまだ森の中であった。その後のキエフ=ルーシは、後継者問題などにより12世紀ごろになると多数の小さな公国の分裂状態に陥り、モンゴル軍の襲来がそこにとどめを刺した。日本では元寇に対する防衛に成功したが、キエフはモンゴル軍に完全に占領されてしまった。モンゴルの脅威はその後200年以上にわたって存在し続け、これは「タタールのくびき」と呼ばれている。土肥書では、タタールのくびきの長い影響の一つとして、ロシアの都市が要塞として出発したために、都市における自治や自由の空気は根付かず、都市の弱さと農業傾倒がロシアの特徴となった点が指摘されている。
そうした中で、キエフ=ルーシの一公国だったモスクワ公国は、モンゴルに恭順の意を示してうまく生き残った。最終的には、イヴァン三世がモンゴルからの明確な離反を行い、全ロシアの君主たるツァーリを名乗った。その孫イヴァン四世は雷帝とも呼ばれ、諸侯を押さえつけて強大な専制権力を確立させた。対外的には領土拡張を成功する一方、国内では反対派を容赦なく粛清する恐怖政治を行った。
イヴァン四世後の混乱と外国からの脅威の中、貴族たちによってツァーリに選出されたのが、当時まだ16歳のミハイル・ロマノフであった。これがロマノフ王朝の始まりである。当初ツァーリは貴族に担ぎ上げられた御しやすき者という位置づけで、政治は貴族たちによって回されていたが、息子アレクセイの時代になるにつれ再び専制が頭をもたげてくる。ミハイル・ロマノフの孫にして帝政ロシアの祖ピョートル一世や啓蒙専制君主として有名なエカチェリーナ二世、クリミア戦争を起こしたニコライ一世などはそうした専制君主としてよく知られている。ただしその間では、権力拡大を狙う貴族が、不都合なツァーリをクーデターで失脚させたり暗殺したりということも起きている。こうしたツァーリと貴族たちの間の権力の揺れ動きは、土肥書の一つの読みどころでもある。
ロシアの領域拡大は、東方シベリアへは早くも16~17世紀に拡大を見せ、毛皮交易などを目当てに入植が進んでいた。一方で南方のカフカース地方(ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアなど)や中央アジア(カザフスタンなど)への進出は、やや遅れて19世紀ごろであった。ロシア自身の意識としては、劣ったアジアよりもヨーロッパへのまなざしが強く、ロシア史ではポーランドやウクライナなど西方への拡大がより強く語られる印象を受ける。西欧諸国に遅れてロシアも農奴解放や工業化などの近代化、及び上記のような帝国主義への道を歩もうとするが、一方で政治体制は専制と貴族体制のままであり、最終的には国内の困窮と不満から革命が起き、ロマノフ王朝は倒され、社会主義政権のソ連が誕生する。ソ連についてはまた稿を改めて詳述したい。
◆ロシア正教という視点
さてこうした大きな流れを踏まえ、ロシア史を見る際の重要な補助線として正教を見てみたい。クリミア併合などを背景に、ウクライナ正教会はロシア正教会から袂を分かつ動きを見せるなど、正教の動きは現代の問題を理解するうえでも重要である。廣岡正久・著『ロシア正教の千年』(講談社)は、ロシアにおける正教の歴史とその現代への影響をコンパクトにまとめている。
ロシアにおける正教は、キエフ=ルーシにおけるウラジーミル一世の改宗に始まる。これはそのままロシアにも引き継がれていく。正教の本拠地はビザンチン帝国のコンスタンティノープル(今のイスタンブール)だが、ビザンチン帝国はオスマン帝国との戦いに敗れて力を失い、コンスタンティノープルも1453年には陥落する。コンスタンティノープルの正教徒たちは、今や外国に行かねばキリスト教を学べない状況になってしまう。このような中、モスクワこそが真のキリスト教信仰のなされる場所、という「第三のローマ=モスクワ」論がロシアでは広がってくる。コンスタンティノープル総主教に対するだまし討ちなど、コンスタンティノープルとモスクワの間の駆け引きはなかなか熾烈であり、本書ではそうした模様も生々しく描かれている。
正教の一つの特徴に土着主義、現地尊重がある。そのため、例えば教会で使用される言語もラテン語ではなくスラブ語であり、福音や祈禱もスラブ語で行うことができた。そのためロシアではラテン語文化圏から切り離された独自の世界が維持された一方で、ルネサンスなどの近代化の流れにも置いていかれることとなった。この正教の現地尊重とロシアと他の世界の断絶のため、モスクワとコンスタンティノープルとで行われる儀礼作法が次第に乖離してしまっていた。そのときモスクワ総主教の座についたニーコンは、正教世界全体の一体性の確保のため、コンスタンティノープル式の儀礼に統一しようとする。しかしそれは「モスクワこそが古来からの正しい作法を保ってきた正統である」と信じるモスクワの信徒たちを激高させるのに十分であった。ニーコンの決定は同時に、コンスタンティノープルの優位を認めるものであり、モスクワ=第三のローマという見方に真っ向から対立するものでもあった。ニーコンはこれに対し、ツァーリである先述のアレクセイの後ろ盾を利用し、反対者を容赦なく弾圧する独裁的手法に乗り出す。これにより古くからのモスクワでの作法こそを正統とみなす「古儀式派」の信者が大量に生み出され、この対立はニーコン失脚後も消えることなく現代まで続いている
その後、ピョートル一世のときに教会の国家への従属は決定的な形となる。教会の自治権が失われたことは重大な変化であり、ロシア正教の特殊性の一つを形作っている。無神論体制であるソ連下では教会は厳しく弾圧されるが、一方で高位聖職者がノーメンクラトゥーラ(支配エリート階級)としてKGBなどの体制側と密接な関係を築いてきた側面もあり、これはソ連崩壊後のロシア正教会の舵取りを難しいものにしている。なお、大祖国戦争(第二次大戦の独ソ戦)ではロシア正教会は率先して戦争協力を訴えたこともあり、晩年のスターリンは教会に宥和的に振る舞った一方、雪どけのイメージのフルシチョフ下では厳しい宗教弾圧が起きたというのもなかなか興味深い。
◆苦難の歴史〜ウクライナ
すでにいろいろな場所で紹介されている本だが、ウクライナの通史である黒川祐次・著『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』(中央公論新社)は簡潔で読みやすい一冊である。ロシアの歴史を知ったうえでウクライナの歴史を見ると、同じ出来事の二面性や力点の違いなど、歴史の複雑さを垣間見ることができる。
タタールのくびきは、ロシア史では先述のように暗い時代として語られる。しかし本書では、ウクライナを中心とするキエフ=ルーシはモンゴルによって完全な終焉を迎えさせられる一方、モスクワ公国はモンゴルに服従の意を示したために他の諸侯への徴税なども任されるようになり、これがモスクワ公国の発展と後の台頭への道を拓いたという点を指摘している。この立場に立つと、スラブ地域の中心がウクライナからロシアに移る、その最後の一撃を加えたのがモンゴルだったということになり、ロシアがタタールのくびきをひたすらに悪夢のように語ることには疑問符が付される。
ロシアによる歴史理解では、キエフ=ルーシの後継としてモスクワ公国が位置づけられている。だが、当時のモスクワ公国の地は、使用言語はスラブ語ではなくフィン語であり(スラブ語は16世紀から使用)、政治制度で見てもモスクワ公国の中央集権的な専制体制はキエフ=ルーシのものとは大きく異なる。ウクライナ側は(のちのリトアニア、ポーランドの支配などを経て現在のウクライナの地へとつながる)ハーリチ・ヴォルイニ公国こそが正統なキエフ=ルーシの後継だと主張している。
ウクライナは第一次大戦でも第二次大戦でも、独立を求めて激しく戦ったが、ロシア/ソ連とドイツという強国に挟まれた中で独立を得ることはできなかった。独立宣言後わずか数時間(!)で踏みつぶされてしまったカルパト・ウクライナ共和国は、その儚さの最たるものであろう。独立が果たせなかった要因にはいろいろあるが、帝政ロシアの時代からソ連にかけて、ウクライナ語の使用禁止とロシア語の推奨・強制、民族運動の弾圧やウクライナ人の強制移住、都市部や工業地帯へのロシア人の組織的な流入などが行われたことは一つの背景である。これは現在のウクライナにおけるロシア語の位置づけにも無視できない影響を及ぼしている。
◆ヒトラーとスターリンに挟まれた地の悲劇
ウクライナや、現在のウクライナ侵攻に際してウクライナ支援に積極的なポーランドやバルト三国といった国々がロシアを眺める目には、過去の蹂躙の歴史が影響している。第二次大戦期、ウクライナからバルト三国にかけての地帯は、ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソ連に挟まれた悲惨な「流血地帯」となった。ティモシー・スナイダー・著『ブラッドランド―ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実(上下)』(布施由紀子訳/筑摩書房)は、この地で実に1400万人もの人々が、ヒトラーとスターリン、その複合によっていかにして命を奪われたのか、を描き出している。
本書は1930年代前半のウクライナから始まる。ソ連はウクライナにおいて、農業集団化と「富農」撲滅を強行した。1931年は不作の年だったが、ソ連は実現不可能な収穫目標を掲げ、それに基づく農作物の強制徴収が行われた。農民は翌年の作付け用の種さえも奪われ、反対する農民らは「富農」「階級の敵」とレッテル貼りされて強制移住や収容所送りとなった。農作物も土地も全て国家のものとされたので、これまで自分の畑だった場所で育てたジャガイモを空腹に耐えかねて食べた者は、国家の資産を窃盗したとして罰せられることになった。権力を与えられた共産党活動家は収奪と暴虐の限りを尽くし、穀物徴発に来た際には家の女性を強姦していくことが日常茶飯事になっていた。ウクライナには餓死者の山が築かれ、ついには人肉食さえ行われる状況となったが、ソ連は飢饉の存在を頑なに認めず、諸外国からの食糧援助の申し出を全て拒絶した。「ホロドモール(大飢饉)」と呼ばれるこの惨事により、ウクライナでは300万人を超える人々の命が奪われたという。
流血地帯の場所は、第二次大戦時まではユダヤ人が多く住む地域だった。だがヒトラーとスターリンという二人の反ユダヤ主義者に挟まれ、状況は激変した。「アウシュビッツはナチスの典型ではない」という言説は、通常はネオナチなどのホロコースト否定論者が用いるものだが、筆者は全く真逆の意味でアウシュビッツは特殊なのだと述べる。ソビブルやトレブリンカにあった「死の工場」は、ただユダヤ人を殺すためだけに作られた施設で、入ったらまず生きては出られない場だった。トレブリンカの死の工場には約78万人が送り込まれたが、生還者はわずか50名ほどだという。特にポーランドのユダヤ人はこのような形で壊滅させられた。アウシュビッツは強制収容所に死の工場が併設された点で特殊であり、そのためアウシュビッツの惨状を伝える生還者も多数存在する。アウシュビッツは想像を超える悲惨な地だが、それでさえ地獄の果てではないのである。
第二次大戦末期にはドイツは劣勢になり、ポーランドにもソ連の赤軍が迫った。ポーランド人はワルシャワでドイツに対して蜂起した。ナチス・ドイツは戦闘というよりもただの虐殺というべき方法でこれに対処した。野戦病院にいた7000人の負傷者が火炎放射器などで殺された。凶暴さを絵にかいたような特殊部隊は2日で4万人の民間人を撃ち殺した。しかしソ連軍はワルシャワのそばまで迫っていたが、ワルシャワの蜂起を助けようとはしなかった。ドイツ軍の抵抗などもあるが、スターリンにとっては、勇敢にもナチスに対して立ち上がろうとする人々はいずれ共産党に対しても立ち上がりうる危険分子であり、また共産党員ではない人々が率先して立ち上がったという事実も嬉しくないことだったのである。戦後のソ連では、反ファシズム組織のユダヤ人たちは殺されたり強制収容所送りにされたりした。そしてユダヤ人は歴史の表舞台から消し去られ、ソ連こそが大いなる犠牲を払った解放者だという「正当な歴史」が繰り返し喧伝されることとなった。
※1 例えばラブロフ外相による発言。
“Russia’s Lavrov questions Ukraine’s right to sovereignty-Ifax” Reuters 2022.2.23
※2 もちろんそれはそれで非常に面白いのだが。
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